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【関ヶ原の戦い】を巡る!④~関ヶ原古戦場記念館と東軍の陣城跡~

2025-02-07 06:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 以前、関ケ原町の旧中山道沿いにある「鶯の滝」を見に行った折り、近くにあった大谷吉継の陣跡に立ち寄ったことがあります。
それ以来「関ヶ原の戦い」に関心を持つようになり、一度戦場巡りをしてみたいと考えておりました。

戦場巡りは、最初に小早川秀秋の松尾山の陣城跡に登り、毛利秀元の南宮山陣城跡、石田三成の笹尾山の陣城跡と巡ってきました。
他にも吉川広家陣跡や島津義弘陣跡、小西行長陣跡や合戦の開戦地・決戦地を巡りましたが、当初は主に西軍だった大名の陣跡でした。
今回は、合戦の全貌が分かる「関ヶ原古戦場記念館」を見学し、東軍の陣を巡ってみることにしました。



「関ヶ原古戦場記念館」は、TVでもお馴染みの小和田哲男さんを館長として、関ケ原の戦いを肌で感じられる体験型の施設です。
まずは巨大な床面のスクリーン「グラウンド・ビジョン」で関ヶ原合戦前から勝敗が決するまでの各武将の動きを講談師・神田伯山氏の語りを聞きながら俯瞰する。

続いてシアターに移動して、両軍の激突を迫力のある楕円形の大映像・轟音で体験します。
戦場を疾走中は風が吹き込み、激戦時は椅子が振動して実際の戦場に居るかのような体験となる。
展示室では甲冑や武具・古文書などが展示され、「動く合戦屏風図」ではアニメーション化された合戦の様子が動く屏風としてデジタルアート作品化されていました。



5階の展望室では関ヶ原古戦場全体を360°ガラス張りのビューで見渡すことが出来て、陣城や陣跡の配置が実際の目で確認が出来ます。
この高さから戦場を見降ろすと、グランド・ビジョンやシアターで感じた臨場感や位置関係の追体験が可能です。



2階の「戦国体験コーナー」では陣羽織・兜の姿になり武具を持って選んだ陣を背景に撮影することができます。
せっかくの機会なので当方は大人気なくも大谷吉継の陣でコスプレ写真を撮影。
また、VRアトラクションではバーチャルの世界で実際に戦場に出て戦うことが出来ます。
騎乗の敵を切り倒し、飛んでくる矢を打ち払い、大砲の玉を避け、最後は島左近と一騎打ちです。

VRアトラクションでは順番待ちの時間が40分ほどありましたので、その時間にレストランへ行ってみます。
食欲をそそるカレーのいい匂いが漂っていましたので、「足軽カレー」を頂きました。
赤味噌仕立ての牛そぼろは東軍、白味噌仕立ての鶏そぼろは西軍でカレーの中でも合戦中です。
「関ヶ原古戦場記念館」は、500円の入館料が安すぎるくらいの内容てんこ盛りの記念館でした。



それでは合戦の現地巡りで「徳川家康最初陣地」へ向かいます。
家康は西軍が大垣城に籠城させず野戦に持ち込むため、大垣城を素通りすると噂を流し、西軍を関ヶ原に誘き出したという。



家康は合戦当日の未明、「徳川家康最初陣地」のある桃配山に約3万の兵を率いて桃配山に陣を構えたといいます。
短期決戦に持ち込みたい家康の思惑通りに開戦し、開戦の3時間後には三成の笹尾山の陣の正面まで本陣を進めたようです。



桃配山の家康最初陣地は写真右のお店のある辺りの左側の低い山の中腹にあります。
後方すぐにあるのは毛利秀元が陣取る南宮山。
前門の虎(西軍主力)、後門の狼(毛利・吉川)で調略が成功していなければとても危うい位置になります。



徳川家の最古参の譜代である本多氏の当主で、徳川四天王の一人である本多忠勝の陣跡は小さな祠の奥にあります。
忠勝は勇猛果敢で智略も備えた名将とされており、関ヶ原の戦いの功績により伊勢国桑名10万石に転封となったいいます。



忠勝は、真田昌幸の長男で忠勝の娘婿が真田信之であったことから、真田昌幸・信繁(幸村)親子の助命を嘆願したという。
首を縦に振らない家康に対し「認められなければ、殿と一戦交える覚悟だ」と啖呵を切って助命が決まり、真田親子は九度山に蟄居となる。



関ヶ原の戦いでは両軍合わせて15万余の兵が集結したとされ、戦死者数は不明ながら夥しい数の兵が亡くなっていると推測されている。
関ヶ原一帯を領していた竹中重門は家康の命を受けて遺体を埋葬し、東西2カ所に首塚を埋葬したといい、下は「東首塚」となる。



東首塚の奥には「松平忠吉・井伊直政陣跡」があります。
合戦の先鋒は福島正則に任されていたが、豊臣恩顧の福島を差し置いて抜け駆けして敵に発砲したという通説があります。
これは、豊臣恩顧の武将に先鋒を取られるのが不満を抱き、徳川武将に一番槍の実績を残そうとしたともいわれています。

忠吉も直政も「島津の退き口」と呼ばれる島津軍を追撃中に狙撃されて傷を負ってしまい、直政はその傷がもとで2年後に他界しています。
忠吉は合戦の論功行賞として尾張国および美濃国に52万石を与えられ、直政は彦根藩18万石を与えられました。



細川忠興は豊臣恩顧の有力武将でしたが、石田三成と仲が悪く、初めから家康に組したといいます。
三成は、合戦前に家康が会津遠征で大坂を留守にした際、挙兵して大坂にいる武将の妻子を人質に取ろうとしたという。

忠興の妻である玉はこれを拒絶して介錯してもらい、屋敷に爆薬を仕掛けて自刃したといい、この女性が細川ガラシャになります。
忠興は合戦後、豊前国中津33万9千石が加増され、旧領を合わせて39万9千石の大名となっています。



田中吉政は近江国に生まれ、豊臣秀次が近江八幡43万石を与えられると筆頭家老格となり、その後三河国岡崎城5万石を与えられた。
秀吉死後は家康に接近し、吉政は関ヶ原の戦いに敗れて逃亡した三成を長浜市古橋の大蛇の岩窟で捕らえた人。
合戦後は、筑後一国柳川城32万石を与えられて国持ち大名となったといいますが、息子が男子を残さず死去したため改易となる。



幼少の頃より秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは賤ヶ岳の七本槍に数えられた福島正則は、石田三成とは犬猿の仲だったとされます。
合戦前年には、加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの「石田三成襲撃事件」を起こしているほどの険悪さだったようです。
合戦後は、安芸広島と備後鞆49万8千石を得ましたが、その後に新規に築城を行ったため領地は没収され減転封される。



福島正則の陣跡は春日神社の境内にあり、狭い境内には「月見宮大杉」というスギの巨樹があります。
「月見宮大杉」は関ヶ原合戦図屏風にも描かれていて樹齢は800年余りと推定されており、目通り約5.8m、高さ25mの巨樹になります。



国道21号線に「岡山(丸山)烽火場」への看板があり何の事だろうと不思議に思っていましたが、“烽火場”は“のろしば”のことだと今頃分かりました。
「関ヶ原古戦場記念館」の5階からも岡山(丸山)烽火場は確認でき、そこには黒田長政と竹中重門の陣があったといいます。



黒田長政は言わずと知れた黒田官兵衛(如水)の息子で、竹中重門は竹中重治(半兵衛)の息子です。
父親は共に秀吉の軍師を勤めた「両兵衛」「二兵衛」になり、息子二人が同じ陣を構えていることになります。

長政は福島正則ら大名を東軍につけたり、松尾山の小早川秀秋や南宮山の吉川広家らに寝返り工作を行っています。
実際の合戦でも三成の本陣を攻めて功績をあげ、家康から関ヶ原の戦い一番の功労者として御感状を賜ったとのことです。

岡山(丸山)烽火場に登ってみると、周辺の状況が把握しやすく正面には小早川軍のいる松尾山がよく見えます。
ここで開戦の烽火が上げられたとされているのは、関ヶ原の戦場が見渡せる好適地だったことによるといいます。
(正面中央の低山が松尾山)



黒田長政は、筑前国名島に52万3千余石を与えられ、廃藩置県後は華族として家は存続したといいます。
竹中重門は、合戦後は幕府旗本として5千石を賜り、旗本でありながら交代寄合として大名と同じく参勤交代を命じられ、家は幕末以降も存続したという。



ところで、岡山(丸山)烽火場は標高164mの超低山ですが、しっかりと山頂表示がありました。
家康の最初陣地のあった桃配山は標高343.3mで三角点があったようだが、道は不明瞭でテープなどもなく登る山ではないようでした。



「関ヶ原の戦い」の最終地点は「徳川家康最後陣地」になり、午前11寺頃に笹尾山の石田三成本陣から数百メートルのこの地に本陣を構えたという。
ここで家康は一向に動こうとしない松尾山の小早川秀秋の陣に威嚇の鉄砲を撃ちかけたともいわれます。

小早川軍1万1千余の大軍が松尾山を駆け下って大谷吉継に襲い掛かり、西軍は敗走を初めて総崩れとなる。
戦場で孤立した島津義弘隊は東軍の本陣を突破して逃れたことにより、合戦は終結します。



大勝した家康は、この床几場で論功行賞の判断材料とするため、ここで首実検したといいます。
実検した首や戦場の遺骸は敵味方問わず東と西の首塚に葬られたといいます。
敵味方を問わず戦死者を弔うのは戦国時代の慣習だったといい、死者への表敬の儀礼が尽くされていたようです。



関ヶ原には山登りも含めて古戦場巡りを目的に3回訪れました。
驚いたのは自転車や車で古戦場巡りをされている方の多さで、さっき見かけた人と次は別の場所で会ったりすることが何度もありました。
歴女・歴男の他にも戦国好きの外国人でにぎわう関ヶ原でした。


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