琵琶湖に沿って南北に走る湖岸道路のすぐ側に、龍神様の依り代といえる磐座や竜宮城と名の付く洞窟があるといいます。
大中の湖干拓地を進み長命寺方面と守山方面の分かれ道を琵琶湖岸に沿って南下していき、見落としてしまうような細い道を進むとほどなく神社へと到着します。
「藤ヶ崎龍神社」は、琵琶湖にせり出した磐座を祀る外宮と、岸壁に開いた洞窟に「妙得龍神」を祀る内宮とがあり、心地よさと怖さの両方を感じる神社でした。
当方が参拝して周囲を歩いている間にも、参拝者が2人ほど入れ替わり立ち返り参拝に来られていましたので、参拝される方の多い神社なのでしょう。
外宮の磐座の先には穏やかな琵琶湖が広がり、何艘かの漁船が「貝曳き網」と思われる漁法でグルグルと船を旋回させている。
獲っているのはおそらくセタシジミとかの貝類なのだろう。
「藤ヶ崎龍神社」には手水舎がないので、砂浜に出て透明感のある琵琶湖の湖水で身を清めます。
外宮の鳥居や磐座がある場所は砂浜になっていて、ゴミ一つない綺麗さと掃き清められた跡がくっきりと残る境内は、歩いて足跡を付けるのが申し訳なく思うほど清められています。
心地よさと書いたのは、外宮やその境内から磐座の向こうに広がる琵琶湖の美しさと、手入れの行き届いた聖域にうっとりするような清涼感と穏やかさを感じたからです。
祠は留め具を外して扉を開くことが出来、火の後始末さえすればロウソクを立ててもよくなっていて、祭壇には龍神さまと思われる神が祀られている。
御朱印には「五社神社」と書かれていましたので、「藤ヶ崎龍神社」を管理されているのは五社神社の氏子の方や地元の方なのだと思われます。
2つの巨石を祀る磐座は、琵琶湖を挟んでその先に見える長命寺山(330m)と津田山(425m)をあらわしているのかもしれない。
長命寺は聖徳太子ゆかりの天台寺院。津田山は巨石の多い山で磐座がいくつかあると聞きます。
湖南地方は山岳信仰や磐座が盛んだった地域で、独特の宗教圏がここまで広がっていたのかと思います。
琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島の「竹生島神社」の御祭神は「市杵島比売命(弁財天)」「宇賀福神」「浅井比売命(産土神)」「龍神(黒龍)」の4柱で、弁才天は本来は水神として信仰されてきた神。
近江八幡市のすぐ前に浮かぶ沖島の「奥津嶋神社」の御祭神・奧津嶋比賣命は航海の守護神とされ、いづれも水に関する神で龍神も言わずと知れた水神。
琵琶湖の水辺や島にある神社では古来より水神様を祀って航海や漁の平安を祈ってきたのでしょう。
また、平安前期の宮廷画家・巨勢金岡がこの地を訪れて風景を描こうとしたが、絶景雄大過ぎて描けず終に筆を折ったという伝承があるようです。
巨勢金岡は、大和絵成立に関わった最初の画家とされ、宮廷の絵所で活躍する巨勢派の始祖となった人物とされています。
しかし、その作品は現存していないとか。
心地の良かった外宮とは打って変わり、内宮は怖ろしさすら感じるスピリチャルな宮となる。
絶壁のようになった巨岩の壁の間にある洞窟に「妙得龍神」が祀られています。
“琵琶湖命の水の守り神である「妙得龍神」は、天地創造の大天霊御祖の御使いであり、天・人・地 三界を治め給う最高の守護霊さまです。
其の本体は白大蛇であり、水龍神でもある 弁才天が妙得宮に坐し坐、御祭神です。”と書かれた説明書きがかつてあったといいます。
洞窟の入口には金網が掛けられているが、これはカラス防止のためで、金網をどけて中に入って礼拝することが出来ます。
恐る恐る金網をどけようとしている時、何やらガサガサと小さな物音がしてドキッとする。
一瞬肝を冷やしたが、その音は木の葉の間で動くヤマガラの羽音。驚いたけど姿は可愛いいものです。
洞窟の中へ入ることは出来たものの、岩壁の幅が狭く、無理して入らないと奥まで行けそうになかったため、ここから参拝をさせて頂く。
中には白蛇が祀られてあり、「妙得龍神」が祀られていると思われる祠があるが、暗くて内部までは確認が出来なかった。
岸壁になっている巨岩にはもう一カ所割れ目があり、穴の前には供え物が置けるようになっていました。
穴の中を覗こうとしてみるも、あまり顔を突っ込むのも怖い感じがして、奥がどうなっているのかは分からず。
ところで、御朱印に「五社神社」と書かれていたことが気になり、この後の予定を変更して五所神社へと向かいます。
五社神社のある牧の地は天智天皇の大津京時代に牧場に定められた地だったといい、「下照姫命・大國主命・事代主命・大巳貴命・思兼命」の五神を祀ったことにより社号が付いたとされます。
延暦十八年、桓武天皇が皇子・神野親王(嵯峨天皇)に下賜して、後に皇室の御領から日吉神社の社領となり、日吉神を合祀したため「六社明神」と呼ばれることもあるといいます。
境内は想像以上に広く、境内の木々も森のようになっています。
毎年5月には独特の形をした松明(上部にヨシで作った笠がある)を使った火祭りが行われるそうです。
境内社は「天照皇太神社・八幡神社・稲荷神社・子安神社・護国神社・弁天神社」があり、それぞれ立派な宮を構えています。
社殿は1609年、1790年に再興されたものの、1961年の第二室戸台風で倒壊した後、再び再興されたといいます。
御神木も第二室戸台風になぎ倒されてしまい、新たに植えられた御神木はまだ細い幹にしか育っていない。
地元の方に話を聞かせて頂くと、本殿の裏は以前はもっと木々の茂った森だったが、2018年の台風21号で何本もの木が倒され、倒れた木によって本堂の一部が傷んでしまったという。
すでに本殿の修復は済んでいるが、“鎮守の森がスカスカになってしまい寂しく思っている”と言っておられました。
帰りに神社の裏の通りをの森を見渡せる場所から見ると、確かに森はスカスカ。台風21号は各地に大きな爪痕を残した台風だったことを痛感します。
境内社の「子安神社」は、岡山(標高187m)の山麓に奥宮があるといい、写真で見ると山の中にひっそりと祠が祀られ、「受胎の樹」という樹があるようです。
その岡山にはかつて「水茎岡山城」があったといい、室町幕府11代将軍・足利義澄が都落ちした城とされ、後の12代将軍・足利義晴が誕生した地とされています。
大河ドラマ「麒麟がくる」では義晴の息子である第13代将軍・義輝からの時代が描かれていますが、義輝に“世を平らかに出来よう、さすれば麒麟が来る。この世に麒麟が舞い降りる”と教えたのは父・義晴。
ドラマのセリフとはいえ、干拓される前までは湖面に囲まれていた水茎岡山城に都落ちしていた義晴の言葉として連想してみると、興味が高まります。
境内を歩いている時に、神社の横の集会場の一角にクスノキの巨樹があるのを見つけました。
樹齢は分かりませんが、幹周は5mくらいあるのではないだろうか。
地元の方に聞くと、元は2本あったが集会所を建てる時に1本は伐ったということでした。
このクスノキは根元近くの幹に一部痛みがあるものの、樹冠はこんもりと茂り、樹勢は良さそうです。
今は広々とした駐車場に1本だけ単独で立っていますが、かつて神社の周辺には広大な鎮守の森が広がっていたのかもしれません。
根元も大地に根を張っている様子が見て取れ、太さも見事なもの。
「五所神社」まで足を伸ばした甲斐がありました。
大中の湖干拓地を進み長命寺方面と守山方面の分かれ道を琵琶湖岸に沿って南下していき、見落としてしまうような細い道を進むとほどなく神社へと到着します。
「藤ヶ崎龍神社」は、琵琶湖にせり出した磐座を祀る外宮と、岸壁に開いた洞窟に「妙得龍神」を祀る内宮とがあり、心地よさと怖さの両方を感じる神社でした。
当方が参拝して周囲を歩いている間にも、参拝者が2人ほど入れ替わり立ち返り参拝に来られていましたので、参拝される方の多い神社なのでしょう。
外宮の磐座の先には穏やかな琵琶湖が広がり、何艘かの漁船が「貝曳き網」と思われる漁法でグルグルと船を旋回させている。
獲っているのはおそらくセタシジミとかの貝類なのだろう。
「藤ヶ崎龍神社」には手水舎がないので、砂浜に出て透明感のある琵琶湖の湖水で身を清めます。
外宮の鳥居や磐座がある場所は砂浜になっていて、ゴミ一つない綺麗さと掃き清められた跡がくっきりと残る境内は、歩いて足跡を付けるのが申し訳なく思うほど清められています。
心地よさと書いたのは、外宮やその境内から磐座の向こうに広がる琵琶湖の美しさと、手入れの行き届いた聖域にうっとりするような清涼感と穏やかさを感じたからです。
祠は留め具を外して扉を開くことが出来、火の後始末さえすればロウソクを立ててもよくなっていて、祭壇には龍神さまと思われる神が祀られている。
御朱印には「五社神社」と書かれていましたので、「藤ヶ崎龍神社」を管理されているのは五社神社の氏子の方や地元の方なのだと思われます。
2つの巨石を祀る磐座は、琵琶湖を挟んでその先に見える長命寺山(330m)と津田山(425m)をあらわしているのかもしれない。
長命寺は聖徳太子ゆかりの天台寺院。津田山は巨石の多い山で磐座がいくつかあると聞きます。
湖南地方は山岳信仰や磐座が盛んだった地域で、独特の宗教圏がここまで広がっていたのかと思います。
琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島の「竹生島神社」の御祭神は「市杵島比売命(弁財天)」「宇賀福神」「浅井比売命(産土神)」「龍神(黒龍)」の4柱で、弁才天は本来は水神として信仰されてきた神。
近江八幡市のすぐ前に浮かぶ沖島の「奥津嶋神社」の御祭神・奧津嶋比賣命は航海の守護神とされ、いづれも水に関する神で龍神も言わずと知れた水神。
琵琶湖の水辺や島にある神社では古来より水神様を祀って航海や漁の平安を祈ってきたのでしょう。
また、平安前期の宮廷画家・巨勢金岡がこの地を訪れて風景を描こうとしたが、絶景雄大過ぎて描けず終に筆を折ったという伝承があるようです。
巨勢金岡は、大和絵成立に関わった最初の画家とされ、宮廷の絵所で活躍する巨勢派の始祖となった人物とされています。
しかし、その作品は現存していないとか。
心地の良かった外宮とは打って変わり、内宮は怖ろしさすら感じるスピリチャルな宮となる。
絶壁のようになった巨岩の壁の間にある洞窟に「妙得龍神」が祀られています。
“琵琶湖命の水の守り神である「妙得龍神」は、天地創造の大天霊御祖の御使いであり、天・人・地 三界を治め給う最高の守護霊さまです。
其の本体は白大蛇であり、水龍神でもある 弁才天が妙得宮に坐し坐、御祭神です。”と書かれた説明書きがかつてあったといいます。
洞窟の入口には金網が掛けられているが、これはカラス防止のためで、金網をどけて中に入って礼拝することが出来ます。
恐る恐る金網をどけようとしている時、何やらガサガサと小さな物音がしてドキッとする。
一瞬肝を冷やしたが、その音は木の葉の間で動くヤマガラの羽音。驚いたけど姿は可愛いいものです。
洞窟の中へ入ることは出来たものの、岩壁の幅が狭く、無理して入らないと奥まで行けそうになかったため、ここから参拝をさせて頂く。
中には白蛇が祀られてあり、「妙得龍神」が祀られていると思われる祠があるが、暗くて内部までは確認が出来なかった。
岸壁になっている巨岩にはもう一カ所割れ目があり、穴の前には供え物が置けるようになっていました。
穴の中を覗こうとしてみるも、あまり顔を突っ込むのも怖い感じがして、奥がどうなっているのかは分からず。
ところで、御朱印に「五社神社」と書かれていたことが気になり、この後の予定を変更して五所神社へと向かいます。
五社神社のある牧の地は天智天皇の大津京時代に牧場に定められた地だったといい、「下照姫命・大國主命・事代主命・大巳貴命・思兼命」の五神を祀ったことにより社号が付いたとされます。
延暦十八年、桓武天皇が皇子・神野親王(嵯峨天皇)に下賜して、後に皇室の御領から日吉神社の社領となり、日吉神を合祀したため「六社明神」と呼ばれることもあるといいます。
境内は想像以上に広く、境内の木々も森のようになっています。
毎年5月には独特の形をした松明(上部にヨシで作った笠がある)を使った火祭りが行われるそうです。
境内社は「天照皇太神社・八幡神社・稲荷神社・子安神社・護国神社・弁天神社」があり、それぞれ立派な宮を構えています。
社殿は1609年、1790年に再興されたものの、1961年の第二室戸台風で倒壊した後、再び再興されたといいます。
御神木も第二室戸台風になぎ倒されてしまい、新たに植えられた御神木はまだ細い幹にしか育っていない。
地元の方に話を聞かせて頂くと、本殿の裏は以前はもっと木々の茂った森だったが、2018年の台風21号で何本もの木が倒され、倒れた木によって本堂の一部が傷んでしまったという。
すでに本殿の修復は済んでいるが、“鎮守の森がスカスカになってしまい寂しく思っている”と言っておられました。
帰りに神社の裏の通りをの森を見渡せる場所から見ると、確かに森はスカスカ。台風21号は各地に大きな爪痕を残した台風だったことを痛感します。
境内社の「子安神社」は、岡山(標高187m)の山麓に奥宮があるといい、写真で見ると山の中にひっそりと祠が祀られ、「受胎の樹」という樹があるようです。
その岡山にはかつて「水茎岡山城」があったといい、室町幕府11代将軍・足利義澄が都落ちした城とされ、後の12代将軍・足利義晴が誕生した地とされています。
大河ドラマ「麒麟がくる」では義晴の息子である第13代将軍・義輝からの時代が描かれていますが、義輝に“世を平らかに出来よう、さすれば麒麟が来る。この世に麒麟が舞い降りる”と教えたのは父・義晴。
ドラマのセリフとはいえ、干拓される前までは湖面に囲まれていた水茎岡山城に都落ちしていた義晴の言葉として連想してみると、興味が高まります。
境内を歩いている時に、神社の横の集会場の一角にクスノキの巨樹があるのを見つけました。
樹齢は分かりませんが、幹周は5mくらいあるのではないだろうか。
地元の方に聞くと、元は2本あったが集会所を建てる時に1本は伐ったということでした。
このクスノキは根元近くの幹に一部痛みがあるものの、樹冠はこんもりと茂り、樹勢は良さそうです。
今は広々とした駐車場に1本だけ単独で立っていますが、かつて神社の周辺には広大な鎮守の森が広がっていたのかもしれません。
根元も大地に根を張っている様子が見て取れ、太さも見事なもの。
「五所神社」まで足を伸ばした甲斐がありました。
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