僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

春の足音がそこまで来ている!~セツブンソウ・福寿草・ザゼンソウ~

2025-03-02 11:55:15 | 花と蝶とトンボと昆虫
 「スプリング・エフェメラル」とも「春の妖精」呼ばれる花は、冬の終わりから早春の端境期に咲く花の総称です。
近年では積雪量の多い冬でしたが、いよいよそれも終わって春の足跡を感じさせる花々を見つけに出掛けました。

先週までは雪の下にあった花々も平地ではほとんど雪が融けましたので、そろそろ見頃かと思い伊吹山の山麓を目指しました。
しかし、そこはさすがに伊吹山は豪雪地帯。山容が大きく見えるようになると集落内の雪溜の量は想像以上のものでした。



目的だった寺院の入口の石段は雪で登れず、別にあるスローブから登ると祠があり、その辺りは除雪されているのか陽当たりが良いのか雪はない。
秋葉神社の祠から上に道は続いており、およそ1㌔の巡拝コースがあるようだが雪で足元が悪くて登るのを諦める。



ロープが張られて立入り出来ないように保護された内側に、セツブンソウは小さくて可憐な花を咲かせていました。
「節分」の頃に咲くのでセツブンソウという名が付いたといい花はほぼ開花していたが、まだ蕾も幾つか見られる。



山野草は写真では大きく撮れるので、ある程度の大きさの花弁かと勘違いしてしまいますが、実際には小さな花です。
訪れる人もバラバラと来られ、駐車場の車を見ると近隣の府県ナンバーが数台あり、ここまで遠征されてきていた人も多いようです。



花の咲いている周囲を歩いていると、ダウンでは暑くなってくるような陽気でしたので、すっかり春の気分になってしまいます。
とはいえ、集落の屋根の下には1~2mの雪が溜まっており、雪掻きされている方もおられましたが、集落の中では雪の捨て場に苦労しそうです。



ロープに囲われた中に1カ所だけ福寿草が咲いていました。
福寿草はこの一角だけでしたが、この後に別の場所にある福寿草の群生を見に行く予定でしたのでそちらの群生に期待です。





福寿草群生があるという場所へ行ってみたものの、完全に積雪に覆われてしまって花は確認出来ず空振りとなる。
気を取り直してザゼンソウの群生を見に行くと、一株だけ開花しているザゼンソウがあったので少し救われた気分になりました。



唯一開花していたザゼンソウは、仏炎苞から中の中の黄色い花がよく見えており、座禅を組む僧の姿に見立てることが出来る。
地元の方の話では葉の方が先に伸びてしまっており、この冬の気候の影響が大きかったとおっしゃられていました。



最後に伊吹山を振り返って終わりにしますが、見える範囲では雪がかなり融けてきているように見えます。
伊吹山の登山道は通行禁止のままですが、開通を待ち遠しく感じている人って結構多いでしょうね。



もう3月に入りましたので、次はカタクリやショウジョウバカマの季節。
山から雪が消えたら山登りを再開してスプリング・エフェメラルを探しに行こう!


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山に関する本を乱読する!~山の危険・リスク・遭難・遭難・山のバケモノ~

2025-02-17 17:17:17 | アート・ライブ・読書
 この3年程、県内の低山を中心に年間30~40山に登っていますが、時に道迷いしたり、危ない生き物に出会ったりした経験が少なからずあります。
遭難・滑落・野生動物など山の危険に注意せよ!とは言われても、どうしたらよいのかよく分からないのが山でのリスク。
そんなこともあって、山岳遭難や危険な生き物との遭遇などについて書かれた本を読むことが多くなってきています。

『「おかえり」と言える、その日まで-山岳遭難捜索の現場から』(中村富士美 著)は、民間の山岳遭難捜索チームLiSSによるサポートの記録です。
山のプロである山岳救助隊などが発見できなかった遭難者を遭難者の目線、行方不明者の登山の仕方や人柄など些細なことまで見落とさず痕跡を見つけていきます。

山岳救助隊の捜索が打ち切られた後、生存の可能性が著しく低くなった遭難者を探すのは、残された家族のために見つけ出して、お別れをさせてあげたいという強い想い。
プロファイリングで消えた足跡を辿る6つのエピソードは、推理小説を読むかのような錯覚を起こしそうになるノンフィクション作品です。



次の「山はおそろしい 必ず生きて帰る!事故から学ぶ山岳遭難」(羽根田治 著)は、山に潜む各リスクを紹介し、怖いけど面白い山の出来事を紹介しています。

落雷・クマの人身被害・スズメバチによるアナフィラキシー被害・厳冬期の富士山・沢登りでの滑落・救助のヘリコプターの墜落事故・バックカントリースキー遭難。
突然の急病・滑落者の激突による滑落、テント盗難などの事例が紹介されてあり、低山での普通の登山でもあり得る事故が紹介されています。



同じ作者の「人を襲うクマ 遭遇事例とその生態」(羽根田治 著)は、クマによる襲撃事故事例や最近のクマの行動の変化などが紹介されています。
有名な福岡大学ワンゲル部の日高・カムイエクウチカウシ山でのヒグマ襲撃事故のレポや近年発生したツキノワグマによる襲撃事故の事例など。

当方もクマと遭遇した経験があり、事故事例の中には実際に山行したことのある山系でのクマの事故が紹介されていて他人事には思えません。
クマとの遭遇がほんの数十秒違えば、事故になっていても不思議ではなかったと想像すると、その怖ろしさにゾッとします。



「生還 山岳遭難からの救助」(羽根田治 著)では山岳遭難から救助された七つのケースから生還するための教訓を紹介しています。
遭難に至る過程での“たら、れば”は事故が発生してからは取り戻すことが出来ず、本来は慎重な人がエアポケットのような落とし穴に落ちてしまうことがある。

教訓として紹介されているのは、①事前に計画書を提出する、②しっかりした装備で挑む(火・ストーブ・非常食・ツエルトは必携)、③救助が来るまでじっと待つ。
特に“③の冷静になって救助を待つ”ことで七つの遭難は救助されており、自力下山が不可能だと判断したら、救助を待つのが生還するためのカギだという。



ここまでは実際に発生した事故事例や探索事例ですが、「神々の山嶺」(夢枕獏 著)は、前人未到のエベレスト南西壁冬期無酸素単独登頂に挑むフィクションです。
1924年のエベレスト遠征隊で遭難したジョージ・マロリーの残したカメラを巡って様々な人間模様が描かれます。

ジョージ・マロリーという登山家は、“なぜ山に登るのか?”の質問に対し、“そこに山があるから”と答えたことで有名な人です。
小説中に登場する登山家・羽生丈二は、森田勝さんをモデルにしているといい、同じく長谷常雄は長谷川恒男さんがモデルだという。
滑落して宙ぶらりんになり、仲間を助けるため繋がれたザイルを自ら切って滑落していくエピソードは映画「バーティカル・リミット」を思い起こさせます。



以前に読んで手放してしまった沢木耕太郎の「凍」をもう一度読み返したくなって入手しました。
世界的なクライマーでピオレドール生涯功労賞を受賞されている山野井泰史さんが、妻の妙子さんとヒマラヤの難峰ギャチュンカンに登攀した時の話です。

7000m以上の高度の絶壁で何度も雪崩に襲われ、10cmもない絶壁に腰かけて夜を過ごしたり、氷壁でロープをブランコのようにしてビバークする絶望的状況になる。
目はほとんど見えなくなり、凍傷で泰史さんは手の指5本と足の指5本、妙子さんは手の指を付け根から10本を失いながらも奇跡の生還劇を果たす。

帰国して手術後により多数の指を失いクライミングが困難と思われる状況になっても、山野井夫妻は明るさを失わず新たな挑戦を続けます。
ギャチュンカンから持ち帰れなかった自分たちの荷物などを再び回収に向かうのですが、ヒマラヤに行く二人に同行するのは...。



ギャチュンカンでの壮絶な闘いをノンフィクションで描写したのが「凍」ならば、当事者である山野井泰史さんの視線から描いたのが「垂直の記憶」です。
山野井さんの挑戦を登攀・敗退を含めて「岩と雪の7章」にまとめて自らのクライミング半生を振り返りながら書かれた自伝です。
特に「第7章 生還」ではギャチュンカンからの生還について山野井さんと妙子さんの視線で書かれており、「凍」との読み比べてドキドキした臨場感に満たされます。

「第6章 夢の実現」で念願のK2登攀の文中に“西壁はアルパイン・スタイルではかなり難しく可能性はとても少ない”とありルート候補から外す場面があります。
未踏ルートであるK2西壁は、平出 和也さんと中島健郎さんが登攀中に滑落して帰らぬ人となったルートです。
未踏ルートへの強烈な衝動と激しい情熱は登山家(クライマー)にとっては永遠の挑戦でなおかつ夢なのかと思います。



「黒部の山賊 アルプスの怪」(伊藤正一著)は、1964年に発行され一度は再発行されたものの、絶版状態になっていたものが初版から50年後に2014年に復刊されたという。
終戦直後の混乱期、北アルプスの最奥地で山小屋経営に乗り出した著者が「山賊たち」と出会って奇妙な生活をしていきます。
埋蔵金に憑かれた男たちや遭難事件、クマとの暮らしなどが綴られ、特に山のバケモノでは「山怪 山人が語る不思議な話」(田中康弘著)を思い起します。

「山賊たち」は山に逃げている追い剥ぎや盗人のような犯罪者集団ではなく、ヤマメやクマやカモシカの猟をして山に暮らす仲間たちのことで驚くような能力の持ち主です。
キツネやタヌキやカワウソの化かされる話や何度も現れる白骨などの山ならではの不思議譚も盛りだくさんで、当時まだ未開の黒部や北アルプス登山黎明期の話は新鮮です。

  

一言で「山の本」と言っても、遭難や危険や生還していく話、心身の限界を超えて挑戦する話、山の不思議譚など多岐に渡ります。
自分が登れるかも知れない山もあれば、近寄ることも出来ない山もありますが、登る側・救出する側の視線を感じ取ることは本からでも得ることが出来ると思います。


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珍しい快晴の日に湖北で野鳥を探してみる!

2025-02-15 17:17:17 | 野鳥
 先週の寒波による積雪では、余呉の大雪がTVで繰り返し放送され、滋賀県の長浜市ってどんな豪雪地帯なんだと思われた方もおられるかと思います。
湖北地方とひとまとめに言っても、東西南北の地域で随分と積雪量は違いますし、先週の雪は彦根市や滋賀の南方面でもそこそこの積雪があったようです。

今週末の湖北は日本海側気候から抜け出し、晴天の日となりましたので朝のうち一回りして野鳥を探してみました。
最初に出てきたのはイソヒヨドリの♂で、冬の湖北という意味ではトップバッターがこいつかいなと意外なスタートでした。



街中の民家の庭でも見かけるジョウビタキですが、個人的には今年は♀に会うことが多かったと思います。
この♂は日陰にいたので緩い写真になっていますが、樹木にたくさんの蕾が付いて春近しを感じます。



ジョウビタキの♀も姿を見せてくれました。
♀の方は近所のお庭やジョキングをしている時などによく姿を見せてくれます。



せっかくなのでツグミもパチリ!
ちょっと変わったツグミの仲間にも会いたいけど、そもそもツグミの数自体が少ないように思えます。



道路上に居た鳥が一斉に飛んだのですが、片やヒヨドリのグループで一方はイカルのグループでした。
以前は早朝に近くの林からイカルのモーニングコールが聞こえてきたのですが、今年は聞こえてこなくなりました。



カシラダカも茂みの中を行き来しています。
広い葦原で探鳥されている方を見ましたが、何か面白い鳥が出ていたのか熱心にカメラを向けられていました。



電柱にはカラスのモビングを振り切ったチョウゲンボウ♀が留まっています。
電柱に留まる猛禽類の中でチョウゲンボウは警戒心が強い部類の鳥だと思いますが、こいつはいつまでもジッと留まっていました。



チョウゲンボウの♂は田圃の脇で一休み中。
湖北ではノスリと共に冬の定番のような猛禽です。



ノスリは白っぽさが目立つ綺麗な個体がいるにはいたんだけど、警戒されてそいつは撮れず。
地味なやつが一瞬姿を見せて木々の中へ消えて行った。



コハクチョウは早崎ビオトープに集まっていた連中が田圃へと移動し始めていました。
集まっている場所が分散しているのか、琵琶湖のカモも含めて何となく数が減ってきているように感じるが、そろそろ北帰が始まっているのでしょうか。





冬の野鳥シーズンは、あと2週間ほどで終わりに近づきますが、今日のように暖かいと次の季節の野鳥が待ち遠しくなります。
来週の寒波で今年の冬は終わりかと思いますので、最後にもう一回くらいは冬の野鳥を探しに行きたいですね。


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【関ヶ原の戦い】を巡る!④~関ヶ原古戦場記念館と東軍の陣城跡~

2025-02-07 06:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 以前、関ケ原町の旧中山道沿いにある「鶯の滝」を見に行った折り、近くにあった大谷吉継の陣跡に立ち寄ったことがあります。
それ以来「関ヶ原の戦い」に関心を持つようになり、一度戦場巡りをしてみたいと考えておりました。

戦場巡りは、最初に小早川秀秋の松尾山の陣城跡に登り、毛利秀元の南宮山陣城跡、石田三成の笹尾山の陣城跡と巡ってきました。
他にも吉川広家陣跡や島津義弘陣跡、小西行長陣跡や合戦の開戦地・決戦地を巡りましたが、当初は主に西軍だった大名の陣跡でした。
今回は、合戦の全貌が分かる「関ヶ原古戦場記念館」を見学し、東軍の陣を巡ってみることにしました。



「関ヶ原古戦場記念館」は、TVでもお馴染みの小和田哲男さんを館長として、関ケ原の戦いを肌で感じられる体験型の施設です。
まずは巨大な床面のスクリーン「グラウンド・ビジョン」で関ヶ原合戦前から勝敗が決するまでの各武将の動きを講談師・神田伯山氏の語りを聞きながら俯瞰する。

続いてシアターに移動して、両軍の激突を迫力のある楕円形の大映像・轟音で体験します。
戦場を疾走中は風が吹き込み、激戦時は椅子が振動して実際の戦場に居るかのような体験となる。
展示室では甲冑や武具・古文書などが展示され、「動く合戦屏風図」ではアニメーション化された合戦の様子が動く屏風としてデジタルアート作品化されていました。



5階の展望室では関ヶ原古戦場全体を360°ガラス張りのビューで見渡すことが出来て、陣城や陣跡の配置が実際の目で確認が出来ます。
この高さから戦場を見降ろすと、グランド・ビジョンやシアターで感じた臨場感や位置関係の追体験が可能です。



2階の「戦国体験コーナー」では陣羽織・兜の姿になり武具を持って選んだ陣を背景に撮影することができます。
せっかくの機会なので当方は大人気なくも大谷吉継の陣でコスプレ写真を撮影。
また、VRアトラクションではバーチャルの世界で実際に戦場に出て戦うことが出来ます。
騎乗の敵を切り倒し、飛んでくる矢を打ち払い、大砲の玉を避け、最後は島左近と一騎打ちです。

VRアトラクションでは順番待ちの時間が40分ほどありましたので、その時間にレストランへ行ってみます。
食欲をそそるカレーのいい匂いが漂っていましたので、「足軽カレー」を頂きました。
赤味噌仕立ての牛そぼろは東軍、白味噌仕立ての鶏そぼろは西軍でカレーの中でも合戦中です。
「関ヶ原古戦場記念館」は、500円の入館料が安すぎるくらいの内容てんこ盛りの記念館でした。



それでは合戦の現地巡りで「徳川家康最初陣地」へ向かいます。
家康は西軍が大垣城に籠城させず野戦に持ち込むため、大垣城を素通りすると噂を流し、西軍を関ヶ原に誘き出したという。



家康は合戦当日の未明、「徳川家康最初陣地」のある桃配山に約3万の兵を率いて桃配山に陣を構えたといいます。
短期決戦に持ち込みたい家康の思惑通りに開戦し、開戦の3時間後には三成の笹尾山の陣の正面まで本陣を進めたようです。



桃配山の家康最初陣地は写真右のお店のある辺りの左側の低い山の中腹にあります。
後方すぐにあるのは毛利秀元が陣取る南宮山。
前門の虎(西軍主力)、後門の狼(毛利・吉川)で調略が成功していなければとても危うい位置になります。



徳川家の最古参の譜代である本多氏の当主で、徳川四天王の一人である本多忠勝の陣跡は小さな祠の奥にあります。
忠勝は勇猛果敢で智略も備えた名将とされており、関ヶ原の戦いの功績により伊勢国桑名10万石に転封となったいいます。



忠勝は、真田昌幸の長男で忠勝の娘婿が真田信之であったことから、真田昌幸・信繁(幸村)親子の助命を嘆願したという。
首を縦に振らない家康に対し「認められなければ、殿と一戦交える覚悟だ」と啖呵を切って助命が決まり、真田親子は九度山に蟄居となる。



関ヶ原の戦いでは両軍合わせて15万余の兵が集結したとされ、戦死者数は不明ながら夥しい数の兵が亡くなっていると推測されている。
関ヶ原一帯を領していた竹中重門は家康の命を受けて遺体を埋葬し、東西2カ所に首塚を埋葬したといい、下は「東首塚」となる。



東首塚の奥には「松平忠吉・井伊直政陣跡」があります。
合戦の先鋒は福島正則に任されていたが、豊臣恩顧の福島を差し置いて抜け駆けして敵に発砲したという通説があります。
これは、豊臣恩顧の武将に先鋒を取られるのが不満を抱き、徳川武将に一番槍の実績を残そうとしたともいわれています。

忠吉も直政も「島津の退き口」と呼ばれる島津軍を追撃中に狙撃されて傷を負ってしまい、直政はその傷がもとで2年後に他界しています。
忠吉は合戦の論功行賞として尾張国および美濃国に52万石を与えられ、直政は彦根藩18万石を与えられました。



細川忠興は豊臣恩顧の有力武将でしたが、石田三成と仲が悪く、初めから家康に組したといいます。
三成は、合戦前に家康が会津遠征で大坂を留守にした際、挙兵して大坂にいる武将の妻子を人質に取ろうとしたという。

忠興の妻である玉はこれを拒絶して介錯してもらい、屋敷に爆薬を仕掛けて自刃したといい、この女性が細川ガラシャになります。
忠興は合戦後、豊前国中津33万9千石が加増され、旧領を合わせて39万9千石の大名となっています。



田中吉政は近江国に生まれ、豊臣秀次が近江八幡43万石を与えられると筆頭家老格となり、その後三河国岡崎城5万石を与えられた。
秀吉死後は家康に接近し、吉政は関ヶ原の戦いに敗れて逃亡した三成を長浜市古橋の大蛇の岩窟で捕らえた人。
合戦後は、筑後一国柳川城32万石を与えられて国持ち大名となったといいますが、息子が男子を残さず死去したため改易となる。



幼少の頃より秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは賤ヶ岳の七本槍に数えられた福島正則は、石田三成とは犬猿の仲だったとされます。
合戦前年には、加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの「石田三成襲撃事件」を起こしているほどの険悪さだったようです。
合戦後は、安芸広島と備後鞆49万8千石を得ましたが、その後に新規に築城を行ったため領地は没収され減転封される。



福島正則の陣跡は春日神社の境内にあり、狭い境内には「月見宮大杉」というスギの巨樹があります。
「月見宮大杉」は関ヶ原合戦図屏風にも描かれていて樹齢は800年余りと推定されており、目通り約5.8m、高さ25mの巨樹になります。



国道21号線に「岡山(丸山)烽火場」への看板があり何の事だろうと不思議に思っていましたが、“烽火場”は“のろしば”のことだと今頃分かりました。
「関ヶ原古戦場記念館」の5階からも岡山(丸山)烽火場は確認でき、そこには黒田長政と竹中重門の陣があったといいます。



黒田長政は言わずと知れた黒田官兵衛(如水)の息子で、竹中重門は竹中重治(半兵衛)の息子です。
父親は共に秀吉の軍師を勤めた「両兵衛」「二兵衛」になり、息子二人が同じ陣を構えていることになります。

長政は福島正則ら大名を東軍につけたり、松尾山の小早川秀秋や南宮山の吉川広家らに寝返り工作を行っています。
実際の合戦でも三成の本陣を攻めて功績をあげ、家康から関ヶ原の戦い一番の功労者として御感状を賜ったとのことです。

岡山(丸山)烽火場に登ってみると、周辺の状況が把握しやすく正面には小早川軍のいる松尾山がよく見えます。
ここで開戦の烽火が上げられたとされているのは、関ヶ原の戦場が見渡せる好適地だったことによるといいます。
(正面中央の低山が松尾山)



黒田長政は、筑前国名島に52万3千余石を与えられ、廃藩置県後は華族として家は存続したといいます。
竹中重門は、合戦後は幕府旗本として5千石を賜り、旗本でありながら交代寄合として大名と同じく参勤交代を命じられ、家は幕末以降も存続したという。



ところで、岡山(丸山)烽火場は標高164mの超低山ですが、しっかりと山頂表示がありました。
家康の最初陣地のあった桃配山は標高343.3mで三角点があったようだが、道は不明瞭でテープなどもなく登る山ではないようでした。



「関ヶ原の戦い」の最終地点は「徳川家康最後陣地」になり、午前11寺頃に笹尾山の石田三成本陣から数百メートルのこの地に本陣を構えたという。
ここで家康は一向に動こうとしない松尾山の小早川秀秋の陣に威嚇の鉄砲を撃ちかけたともいわれます。

小早川軍1万1千余の大軍が松尾山を駆け下って大谷吉継に襲い掛かり、西軍は敗走を初めて総崩れとなる。
戦場で孤立した島津義弘隊は東軍の本陣を突破して逃れたことにより、合戦は終結します。



大勝した家康は、この床几場で論功行賞の判断材料とするため、ここで首実検したといいます。
実検した首や戦場の遺骸は敵味方問わず東と西の首塚に葬られたといいます。
敵味方を問わず戦死者を弔うのは戦国時代の慣習だったといい、死者への表敬の儀礼が尽くされていたようです。



関ヶ原には山登りも含めて古戦場巡りを目的に3回訪れました。
驚いたのは自転車や車で古戦場巡りをされている方の多さで、さっき見かけた人と次は別の場所で会ったりすることが何度もありました。
歴女・歴男の他にも戦国好きの外国人でにぎわう関ヶ原でした。


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【関ヶ原の戦い】を巡る!③~南宮山の毛利秀元陣城跡から南宮山登山!~

2025-01-31 06:18:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「関ヶ原の戦い」での有名な故事に「宰相殿の空弁当」があり、南宮山に布陣した毛利秀元を西軍が敗れると予想した吉川広家が足止めしたことをいいます。
長束正家の急使が秀元に戦闘参加を要請したものの“兵卒に兵糧を食させている最中なり。”と動かなかったため「宰相殿の空弁当」という故事になったという。

もちろん実際に弁当を食べていた訳ではなく、事前に吉川広家は徳川家康と停戦の交渉をしており、秀元や安国寺恵瓊・長宗我部盛親は参戦を阻止されています。
徳川軍の背後に陣のあった毛利軍が東軍を攻撃し、松尾山にいた小早川秀秋の裏切りがなく毛利両川が西軍で戦っていれば...?



南宮山は「南宮大社」が登山口となっており、南宮大社は美濃国一宮として金山彦命を主祭神として祀ります。
金山彦命は鉱山を司どる神として知られ、古くから全国の鉱山・金属業の総本宮として信仰を集めてきたといいます。
南宮大社は関ヶ原の戦いで焼失したものの、徳川家光により再建され、楼門・拝殿・高舞殿・本殿・幣殿・境内社・工芸品などが国の重文指定を受けています。



南宮山には展望台まで登れる整備されたハイキングコースがあり、コースは2つあるが片方のコースは荒れてしまっていて通行が出来なくなっています。
もう一方のコースは整備が行き届いており、展望台から先の南宮山の山頂へのルートは立入を遠慮するよう注意喚起されている道となる。

南宮山で心配だったのは熊の出没で、2023年には熊出没により南宮山ハイキングコースが閉鎖されていた時期があったといいます。
誰もいない山の中で熊に会うのは怖ろしいと思っていましたが、南宮山は結構人気があるのか何人かの人に会い安心感があった。



関ヶ原近くの山はこの南宮山にしろ、松尾山にしろ民家からさほど離れていないのに熊注意!の山となっているのが不思議にも思えてしまいます。
道は4合目の辺りまで木段が続き、そこから10合目までは歩きやすい坂道になります。



道の各所に〇合目を示す徳利と杯の標識があり、他にも〇/10と位置を示す標識があるので楽しめながら登れます。
徳利の絵が一升瓶の絵に変わると展望台に到着というコースで、展望台まで約1時間の工程を登ります。



南宮山には「南宮大社」と神仏習合の信仰のあった「南宮十坊」と呼ばれた寺院が山中に点在していたといいます。
「宝珠院」は天平の時代に始まり、平安時代には南宮別当とされていた寺院で、現在は寺院跡を残すのみですが、一部の残る石垣は宝珠院跡を示す遺構なのかもしれません。



宝珠院と同じく南宮別当とされていた「観音堂」への道がありましたので少し寄り道してみます。
南宮十坊の盛衰についてはよく分かりませんが、明治維新の神仏分離令によって統廃合されて「朝倉山真禅院」に納められたようです。



5号目の辺りの道横に高くなっている場所があり、ここに四等三角点(点名:南宮」がありました。
高さは299mとあり、山頂ではない場所にありますが、三角点は測量の基準点ですからここもそのひとつということになります。



三角点のある場所から少し登ると「一ツ松の旧跡」という場所があり、石碑が建てられていました。
かつてここには天人降臨の御神木があったといい。古来「人来の松」と呼ばれて新古今集の和歌の歌枕として詠まれているという。



一ツ松は旧跡を残すのみですが、現在の御神木のスギが道脇に聳えています。
まっすぐに立つ幹と枝分かれした上部の見事な御神木スギで、先行者は幹に両手を添えて力を受け取っておられました。



石垣の上に祀られているのは南宮大社の奥宮とされる「高山神社」と「子安神社」です。
「高山神社」は祭神に木花咲弥姫命をお祀りし、美濃国の水源を司る女神として祀られているという。
「子安神社」に祀られる保食神は、安産・子育ての霊験高く、稲を育てると共に子を育てる水の神とされます。



9合目を過ぎるといよいよ「毛利秀元陣城跡」に入り、主郭(展望台)に向かって竪堀・土塁・櫓台・堀切・虎口が分かりやすい形で整備されています。
「竪堀」は斜面を縦に掘ることで敵の横移動を防ぐ防御施設で、先は急斜面に切り込まれています。



竪堀の手前は堀切になっていて、更にその手前には堀切を越えるために土で作られた「土橋」があります。
結果的に全く使われることのなかった陣城跡ですが、密約を知らされていなかった秀元は万全の準備をしていたのでしょう。



高く土を盛り上げた「土塁」は今も高く盛り上がり、敵の侵入を防御しています。
500年以上も前の城跡がそのまま残っているとは思えませんので、適切な管理や補修をされているのではないかと思います。



城跡巡りを趣味にしている訳ではないものの、山歩のたびに城跡に遭遇する機会が多くなっています。
そのおかげでチンプンカンプンだった言葉も少しは分かるようになり、主郭の曲輪につながる「虎口」も分かりやすい形でした。



〇合目と書かれていた徳利と杯の絵は、展望台まで来ると一升瓶とコップに変わります。
展望台に人はチラホラと居られましたが、白く霞んで景色はイマイチなので展望台でゆっくりされる方は僅かでした。



主郭のあったと思われる場所には石碑が建ち、毛利秀元がここで陣取っていたことを示しています。
秀元は西軍の総大将として大坂城に入城した毛利輝元の名代ですが、主郭は大垣城や犬山城・名古屋城のある大垣・愛知方面を向いています。



戦場となった関ヶ原はここからは望めず、大垣城を取り囲む東軍を牽制するための布陣とされるが、毛利勢が東軍の背後から攻めるのが三成の戦略。
結局、戦に参加しなかった毛利家は120万5千石から36万9千石に大きく減封され、その屈辱は打倒徳川として明治維新につながっていくという。



さてここから先はハイキング道を離れて南宮山への登山道になります。
情報では道迷いしそうな場所もあるがピンクテープをたどれば迷わないとあり、休憩されていた地元の方も“行けますよ!”と言われていたので山頂を目指して進みます。

最初は道は明瞭で分かりやすかったのですが、山幅の広い場所では道に落ち葉が積層して道が不明瞭になっていました。
踏み跡が確認出来ない上にピンクテープは全く見当ずで道迷いしてしまい、激坂を何度も登り下りして大苦戦することになる。
まるでバリエーションルートを突き進むようなバリ山行に陥る羽目になり、結局倍以上の時間をかけてやっと南宮山の山頂に辿り着いた。



季節的に落葉の季節で踏み跡や道が見えなくなっており、進める方向が沢山あったのが道迷いの原因だったと思います。
幸いにしてアプリに地図をダウンロードしていたので方向修正が出来ましたが、ピンクテープはある時と除去されることがあるようなので要注意。



「南宮山山頂(標高419m)」。二等三角点:点名「牧田村」。
眺望が全くないのは分かっていましたが、ピークハントでやって来ました。

帰り道は迷わず帰ろう!と思っていたが、帰り道でも迷ってしまって、再びのバリ山行となってしまいました。
教訓としては、迷ったら例えそれが激坂であっても、登り返して元の場所に戻るのが原則だと実感。



下山後に毛利軍を足止めさせた吉川広家の陣跡に立ち寄ってみました。
毛利の陣城は徳川家康の最初陣跡の後方にあって、東軍からは脅威の位置にあるが、実際に合戦が行われた関ヶ原からかなりの距離があります。
広家はこの陣で「宰相殿の空弁当」の如く、のらりくらりと本戦不参加を決め込んでいたのでしょう。



合戦後、毛利家も吉川家も領地を大幅に減らされることになりましたが、秀元が広家の制止を聞かず、家康に攻め入っていれば...。
小早川秀秋が裏切らず、東軍と対座していれば...。
豊臣秀頼を擁した毛利輝元が大坂城で籠城して戦っていれば...。
歴史のIFを思い浮かべると話は尽きません。


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【関ヶ原の戦い】を巡る!②~石田三成の笹尾山陣跡と合戦の舞台~

2025-01-24 06:20:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「関ヶ原の戦い」は天下分け目の戦いとして、徳川家康の率いる東軍と石田三成率いる西軍(総大将は大坂城にいた毛利輝元)の戦でした。
東軍約7万、西軍約8万という兵力がぶつかった戦いは、戦いが始まってから6時間弱で東軍の勝利に終わったといい、そこには家康の調略があったといいます。

合戦は、井伊直政隊が福島正則隊を出し抜いて、抜け駆けで宇喜多秀家隊に発砲して合戦の火蓋が切られる。
その場所が「開戦地」の石碑(実際は300m北に移動している)のある場所になり、全てはここから始まってしまいました。



合戦は西軍の石田三成・宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継らの健闘で東軍を押し返し、正午頃までは一進一退の攻防だったという。
戦況が変わったのは松尾山に陣取っていた西軍の小早川秀秋が東軍に寝返って、大谷隊に攻めかかり壊滅させたことにより西軍は総崩れとなったといいます。
この時、南宮山にいた毛利秀元や安国寺恵瓊・長曾我部盛親らは、家康に内通していた吉川秀家に進路を塞がれ参戦することなく終戦となりました。



石田三成は「開戦地」を見降ろす笹尾山に陣を張り、東軍の黒田長政や細川忠興らの猛攻を何度も押し返したが、島左近が負傷して戦線離脱すると押し込まれていまう。
小早川秀秋の裏切りにより大谷隊が壊滅すると、踏み留まったものの隊は壊滅して三成は伊吹山方面へと敗走する。



笹尾山の山頂にある石田三成の陣を見ると、三成ならぬ歴史ファンの姿が見えます。
三成の陣からは、合戦のあった関ヶ原の戦場を広く見渡すことができ、毛利秀元の南宮山や小早川秀秋の松尾山も見渡せます。



笹尾山の三成の陣跡には「矢来」が再現されていて、戦場ムードが満喫できます。
「矢来」は丸太を粗く組んで作った臨時の囲いで、竹矢来・丸太来(馬防柵)とも呼ばれ、敵の侵入を防ぐための囲いです。
三成は陣の正面に矢来を二重にめぐらして、島左近と蒲生郷舎・頼郷を前面と中間に配して、自身は山頂に陣取って指揮したとされます。



「治部少(石田三成)に過ぎたものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と称えられた島左近の陣跡です。
左近は石田軍の前面で戦い、黒田・細川の東軍を押し返したものの、長政の家臣・菅六之助の射撃で負傷して討ち死にしたとも戦場を脱したともいわれている。



それでは三成の陣を目指して笹尾山に登ります。
とはいっても笹尾山は標高200mの低山ですから5分ほどで山頂の三成の陣跡に到着出来ます。



道は最初から最後まで木段登りになりますので、入口近くに置いてある竹の杖を借りて登ります。
ただし、笹尾山には猿が出没するらしいので注意が必要なのと、平坦地に落ちている多数の鹿の糞を踏みそうになるので要注意です。



木段の横には矢来が層になっており、合戦中に矢来を越えて三成の陣に達するのはかなり困難に思え、幾度も三成軍が東軍を押し返した図が想像されます。
馬で登るのは不可能ですし、矢来の間から鉄砲や槍で狙われたら成すすべもないでしょう。



笹尾山の山頂には「史跡 関ヶ原古戦場 石田三成陣地」の石碑が建ち、数々の裏切りや傍観により戦略が成り立たなかった三成の悔しさが滲み出る場所です。
三成は伊吹山から春日村(現在の不岐阜県揖斐川町)に逃れ、新穂峠を迂回して曲谷(米原市)から草野谷(長浜市)を経て古橋(長浜市)に逃げたが捕縛される。

この逃走ルートを地図でみると分かるのですが、あり得ない位の厳しさの山中行軍です。
三成が最後に逃げた捕縛された古橋の「大蛇(おとち)の岩窟」は湖北の己高山の山中にあり、一人では危なくて登れないような場所にあります。
そうまでして逃げた三成は、死を怖れたのではなく、再起を期しての逃亡であり、強靭な意志の強さを感じます。



展望台には音声ガイドがあり、何といっても合戦場が見渡せるのが良い。
「大一大万大吉」は“一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる”の意。
ラグビーの“One for all 、all for one.”にもつながる言葉です。



笹尾山から関ヶ原の合戦場。
田圃地帯の中央辺りに「開戦地」の石碑があります。



近くに見えて遠いのが毛利秀元の陣があった南宮山(正面の山)。
しかし、実際は秀元の陣から関ヶ原方面は見えず、陣地は大垣・愛知方面を向いている。



右に見える丸い山(北天満山)のすぐ後方に見える横長の山が、小早川秀秋が陣取った松尾山。
そこから福島・藤堂・井伊・松平を攻めるはずが、西軍の陣形の片翼になる大谷隊に攻め入ったのだから陣形が崩れるのも当然です。



大谷吉継の陣があったのは、丸い山(北天満山)の右にわずかに横たわって見える山にありました。
吉継は小早川の裏切りは予想していたものの、大谷軍と小早川軍では兵力が10倍違いますので、圧倒的に不利な戦い。
おまけに同じ西軍だった赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治らも裏切りましたのでは勝算はない。



島津義弘隊は「島津の退き口」と呼ばれる退却戦が有名ですが、開戦後は自ら攻撃に出ることはなく、自刃に近づく者は東西両軍に関わらず打ち払ったという。
これでは何のために戦に来たのかよく分かりませんが、西軍が敗走する中、東軍の正面を突破して伊勢街道を南に抜けて脱出したのが「島津の退き口」。

島津軍は「捨て奸」と呼ばれる足止め隊を退路に残して本体を逃げ切らせる戦法で、しんがりを勤める足止め隊は命がけで時間を稼ぐ。
全滅されたとしても次の足止め隊を繰り出すという味方の犠牲(命)で成り立つ壮絶な生き残り策です。



北天満山(三成陣跡から見えていた丸い山)に布陣していたのは西軍の小西行長でした。
小西隊は寺沢広高や戸川通泰らと戦うが攻め込まれて、小早川の裏切りによって総崩れとなった西軍と同様に敗走したといいます。
小西行長はキリシタンのため自害できないため自首して、最後は京都六条河原で光成らとともに処刑されてしまいます。



石田三成の笹尾山陣跡の近くには「関ヶ原の戦いの決戦地」の石碑があり、天下分け目とまで言われたが半日程度で幕を閉じた決戦の場を歴史に刻んでいます。
西軍にいながら戦ったのは石田三成・大谷吉継・宇喜多秀家・小西行長などごく一部で、後は裏切り・傍観・日和見・専守防衛に終わりました。





関ヶ原の合戦場は底冷えするような寒さでしたが、歴史ファンの姿が各所に見られ、自転車で回られている方もおられました。
実際の合戦は生死をかけた血みどろの戦いですが、400年以上たった今、戦国ロマンの舞台として人気を集めているようです。


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【関ヶ原の戦い 】を巡る!①~松尾松尾山城跡 小早川秀秋陣跡~

2025-01-19 16:20:24 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「関ヶ原の戦い」で小早川秀秋が陣取った松尾山城跡では「挑め!松尾山城AR」という企画が期間限定で開催されていました。
ARは合計10カ所あるARスポットで武将の家紋をカメラで読み取ると歴史学者の小和田哲男さんの解説が聞けるというものです。

「関ヶ原の戦い」は当初は西軍優勢であったとされますが、小早川秀秋が東軍に寝返ったことで一気に東軍の勝利に突き進んだと伝わります。
戦いに関する逸話には「問い鉄砲」や「宰相殿の空弁当」などがあり、裏舞台での逸話がいくつか残ります。
諸説ある中で、開戦前に小早川秀秋や吉川・毛利勢は家康に調略されていたという説が有名です。



合戦の陣形図を見ると、笹尾山に石田三成が陣取り北国街道を島津勢・小西行長が固めており、中山道は宇喜多秀家や大谷吉継が陣どる。
東軍は中山道に福島正則・井伊直正・藤堂高虎などが西軍と向き合い、家康は桃配山に陣取っています。
家康の背後の南宮山には吉川広家と毛利秀元がおり、松尾山にいる小早川秀秋と共に麓に陣取る赤座・小川・朽木・脇坂が東軍を攻めれば勝てた可能性があります。

しかし、松尾山の秀秋らは同じ西軍だった大谷吉継に攻撃を開始し、南宮山では吉川・毛利が動かず、安国寺・長束・長宗我部は本戦に参加出来ませんでした。
毛利・宇喜多・小早川・島津らが参加していた西軍はまともに戦えば勝機はあったのでしょうけど、戦いの前に各大名は家康の手中にあったようです。



登山道は最初は緩やかな勾配の林道を歩いて行くことになります。
林道の横には旧道らしい道がありましたが、その道は“行き止まり”と書かれており、この先には崩落個所があるようでした。



松尾山城は室町時代の応永年間に最初に築かれ、その後は織田信長に帰属して浅井長政が修築したが浅井氏討伐後は廃城となる。
三成の目論見では西軍総大将の毛利輝元を招き入れようとしたが動かず、関ヶ原の戦い前日に小早川秀秋が入城して西軍の喉元に小早川が陣取りました。



林道が終わると道は登山道に変わり、切れ落ちた崖の横の道を登って行くことになります。
登山道の脇に「山之神神社」と彫られた石碑が建っており、その上に小高いピークがありましたので寄り道して登ってみます。
広めのピークには祠が祀られており、麓の集落の「山之神」が祀られている場所のようでした。





ここから先はアップダウンの道と何ヶ所かの木段が続きます。
登るのが辛いような急な木段ではないものの、所々に段差の高い場所があるので登りやすい木段の脇の道を登って行きます。



紅葉は、黄色く焼けた葉の木が何本か残り、ほとんどの紅葉は落葉している状態でした。
不思議に感じたのは歩いている途中で甘い香りがする場所があり、花の季節ではないので樹液の香りかと思います。
しかし、一体あの香りは何の木から香っていたのか?



道にまたがっている枝には看板が吊るされ、“ようこそ!松尾山へ 山頂まで240M 頑張れ!”と書かれてありました。
登山道からの景観のない山でしたので、こういう看板は心が和みますね。



この日は年明けの雪が降る前でしたが、枯れ木の上やシダの葉の上に僅かに前夜に降ったらしい雪が残っていました。
地面と直接接していない部分(地熱を受けない部分)にだけ残るわずかな雪がこの冬初めて見た雪でした。



さらに木段は続きますが、一カ所だけ下りの木段があり、せっかく稼いだ高度が下がるのが何となく惜しかった。
階段は登るのに足の疲れを感じますが、下りる時にも膝に負担がかかります。



最後のカーブを曲がりながら登りきると松尾山城の主郭(本丸)のあった広い場所に到着します。
小早川軍は総勢1万5千人居たといいますが、ここには100名程度が限度ではないでしょうか。
他の兵は登山道や麓に分散して戦いの時を待っていたと想像されます。



関ヶ原を見降ろせる場所には三角点。
見晴らしの良い場所なので、ここから合戦の戦況を見極めて大谷軍に襲い掛かったのでしょう。



城跡遺構図を見ると現在居るのが主郭があり山頂でもある真ん中の位置です。
主郭の周囲には7つの曲輪があり、曲輪の遺構は東西400m、南北250mにわたっていることから松尾山城は美濃地方最大級の山城と呼ばれているようです。



また、城跡への道や周辺は切れ落ちた崖になっているため、鎧を付けて刀や槍を持って登るのは困難そうであり、松尾山城の堅固さを感じる所以となる。
「松尾山 小早川秀秋陣処古址」の石碑が残りますが、秀秋自身は西軍を裏切った卑怯者と罵られ、21歳でアルコール中毒で早世しています。



主郭跡の平坦地にどんな山城があったか知る由もありませんが、関ヶ原の戦いでは重要視されていた城として整備されていたと思われます。
城跡は主郭(本丸)を散策しただけなので全貌は分からないものの、土塁や虎口は現在も確認することが出来ました。



「桝形虎口」は、城の出入口になり、城内側にL字型に土塁が設けられています。
虎口をL字型にすることで直線的に侵入出来なくしてあり、南側からの敵の侵入を防御しています。



主郭は四方を土塁で囲んでおり、土が盛り上がったこの土塁は分かりやすい形をしています。
当方は城郭の素人ですので、堀切・空堀・土塁・虎口など案内板などがある場所は分かりますが、何も案内がないと判断に迷うばかりです。



この日は山頂で雨がパラついてきたりして天候に恵まれませんでしたが、山頂からは関ヶ原や山側の陣が見通せます。
ただこの位置にいて家康の「問い鉄砲」が確認出来たかは疑問なものの、麓の兵からの伝達があったと考えると有り得る話になります。



関ヶ原の平野を取り囲む山に積雪はないが、雲の切れ間から見える伊吹山は中腹まで白く見えます。
笹尾山には「石田三成の陣」が見えるものの、松尾山からは人の姿は確認出来るかもしれないが細かな動きは分からないと思います。



小早川秀秋が戦いを仕掛けた「大谷吉継の陣」は松尾山からよく見えます。
秀秋が攻撃を仕掛けた後、松尾山の麓に陣取っていた赤座直保、小川祐忠、朽木元綱・脇坂安治の4武将も東軍に寝返ります。

脇坂安治は戦いの前に家康に東軍に加担する内容の書状を送っており所領安堵。
赤座・小川・朽木の3将は、事前に裏切る意志を明確にしなかったため、改易または減封処分。
「返り忠」で味方についた人間は、現代社会だけでない戦国時代でも信用されることはないということ。



「関ヶ原の戦い」では西軍か東軍かで迷っているところに「問い鉄砲」で西軍に攻撃したとされますが、大谷吉継は初めから秀秋の寝返りを警戒していたともされます。
以前に訪れた「大谷吉継陣跡」からは秀秋の陣取る松尾山の様子が伺え、ここから秀秋軍の監視をしていたとの話にも説得力があります。



当方は元々は城跡ファンではなかったのですが、山登りなどで城跡を見る機会が多くなってきて関心を持ちました。
関ヶ原は建物や住宅は建ってはいるものの都市化されていないため、かつての古戦場の様子が思い浮かぶような一帯かと思います。
登場する戦国武将にも聞き馴染んだ名前が多く、気候の良い時に「関ヶ原の戦い」巡りをしてみるのも面白いかも知れませんね。


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クロヅルをパチリ!~16年振りの再会(2009年の動画を復刻)~

2025-01-13 17:20:20 | 野鳥
 正月の3ヶ日が明けた4日からクロヅルが湖北に飛来してきたのがニュースになっていました。
雪の降った翌日で空はドンヨリした暗い雲の下の悪条件で撮影できるか分からないものの、ダメ元で探鳥に行ってきました。

冬の田圃に飛来する野鳥は、野鳥を探すより田圃横に停まる2~3台の車を見つければ容易に発見出来ます。
そもそも冬の田圃道に複数の車が停まっていること自体が実に怪しい。
...ということで田圃道に停まる怪しい車の方向へ行くと、田圃に大きな影が見つかりました!



滋賀県内にクロヅルが飛来したのは3例目ということでレアな鳥ではありますが、天候が悪かったのが難点です。
見つけた後、長い時間羽繕いをしていたのですが、やっと食事を初めてくれました。

タニシかミミズか。何を食べているのでしょうか?
クチバシでつまんで飲み干しています。



忘れていたのですが、当方はクロヅルはライファーではなく、2009年にも撮影しています。
でもその時のクロヅルは幼鳥でしたので、今回見た個体とは違う鳥かと思うほど外見が違います。

2009年のクロヅルは全体的に茶色っぽい姿で、今回のは体全体が淡灰色で頭から首にかけて黒色で頬から後頭部が白い。
クロヅルに関しては16年振りということになりますが、野鳥全体で言えばいつのまにやら野鳥歴20年になってしまいました。



田圃にはクロヅルの他にはコハクチョウの成鳥と幼鳥っぽいのが1羽ずつで親子かな?
クロヅルとのスリー・ショットはならずながら、コハクチョウは今にも飛び立とうとしていました。



コハクチョウ(成鳥)が飛んだ!
クロヅルは気にする素振りもなく食事中。



コハクチョウ(幼鳥)も飛んだ!
相変わらず気にせず食事中のクロヅル。
その後もクロヅルは田圃の中をウロウロしていたが、車の中とはいえ寒空に窓が全開で寒くなってきたのでこれで終了。



鶴は古来より長寿をあらわす吉兆の鳥とされ縁起の良い鳥です。
「吉兆鶴(吉兆クロヅル)」にあやかって明るい話題の多い令和7年になるといいですね!

 【復刻】2009年に湖北に飛来してきたクロヅルの幼鳥!

過去のファイルを探したら16年前に湖北に飛来したクロヅル幼鳥の動画が出てきました。
映像はかなり悪く証拠動画レベルです。最後はケリに飛ばされてしまいました。






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「長浜十日戎」の甘酒と福餅まき~太閤さんの豊国神社~

2025-01-10 17:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年も♪商売繁盛で笹持ってこい!♪の掛け声もにぎやかに、今年も豊国神社の「長浜十日戎」が始まりました。
「長浜十日戎」は今年で復活六十年祭を迎えるといい、甘酒のふるまいや福餅まきがあり、「本戎」には宝恵駕籠錬行が行われます。

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、織田信長の浅井長政の小谷城攻めの際、横山城に陣取って小谷城落城寸前にお市と浅井三姉妹を救出したという。
浅井氏が滅亡後、秀吉は浅井氏の領地の大部分を賜り、今浜と呼ばれていた地名を信長の長から長浜と改める。
そして長浜の地に長浜城を築き、羽柴秀吉と名を改め、その後は関白にまで出世して天下人となったのは周知の通りです。



秀吉は長浜の町で楽市楽座で商工業を発展させ、年貢米や労役を免除し、秀吉に待望の男子が生まれた際には各町に祝儀の砂金を振舞ったといいます。
町民は、その砂金を元に曳山を作り、子供歌舞伎を演じるようになったのが「長浜曳山祭り」で、祭りは現代に至っても続いています。



太閤さんが1598年に亡くなると、豊国神社を建立したものの、徳川幕府の政権下で太閤さんを神格化できず、豊国神社は取り壊されたといいます。
江戸時代には太閤さんの御神像を各家庭に隠してお祀りしていたが、1793年に彦根藩に「戎宮」を建立する許可を得て一社を建立。
宮では表では戎さんをお祀りし、太閤さんは裏に隠してお祀りしていたといいます。



明治維新後になると「豊国神社」を名乗ることが出来るようになり、大手を上げて太閤さんをお祀りできるようになったようです。
本殿の横にある「出世稲荷神社」は秀吉の大出世にあやかろうと参拝する方が絶えない神社で、回廊で「お百度めぐり祈願」が出来るようになっています。



立身出世して天下人にまで昇りつめた秀吉の銅像は、福笹と熊手を片手に一万円札(旧紙幣)をぶら下げています。
何とも裕福そうな姿にあやかりたいところですが、福笹や熊手は縁起物とはいえ結構高いんですよね。





境内の中央辺りではお焚き上げをされており、寒い夜でも暖まれることが出来ます。
昨年の福笹や熊手やお札をお焚き上げに持って来られる方も後を絶たず、勢いよく燃える炎に煩悩も焼かれる。(といいのにね。)



お焚き上げで少し体を温めた後は、手洗池の横で振舞われている甘酒を頂きます。
紙コップに注がれた甘酒に、すりおろされたショウガをたっぷりと入れて飲むと体の芯から温まります。



というところで、お待ちかねの餅まきの時間がやってきました!
撒かれるのは、紅白それぞれのお餅と鯛を模ったカマボコ。
お餅に「福」のシールが貼ってある福餅を掴めば「おたね福銭」がもらえて、1年間財布に入れておくとお金に困らないとか。



お餅はたくさん撒かれるのですが、手に当って刎ねてしまったり、頭上高く通り過ぎたりと中々の苦戦です。
飛んでくるお餅に「福餅」が見えたので、手を伸ばしたら見事に手中に納まりました!



掴んだお餅と鯛のカマボコは12個。
ちょうど12月分に相当する数で何となく縁起が良い感じで、福餅を「おたね福銭」と交換しました。
ところが帰ってから見たらもう1個「福餅」があり、気付かないところにもう一つ「福」があったと都合良く解釈しておきます。



さて長浜十日戎の「本戎」は、今年初めての大雪で夜が明けて午前中は真冬の雪景色となっていました。
昼頃には雪が止み晴れ間が広がって雪解けとなりましたが、神社では宵戎の夜とは全く違った光景が広がっていました。



出世稲荷神社の屋根や境内に積雪があり、白い雪に鳥居の朱色が映える光景は爽快な冬の景色です。
早朝から午前中に吹き荒れていた吹雪が嘘のような晴れ間となり、この寒波は取り合えずは終了となるのでしょう。



「本社」も屋根には雪が残っており、太閤さんの銅像は福笹と熊手を持って、恵比寿協賛会の法被を羽織っています。
参拝者は途絶えることなく来られていましたので、豊国さん・えべっさん・太閤さんの御利益にあやかりたい人は多いようですね。



「初詣」が終わって「十日戎」が終わると、やっと正月が明けたような気分になります。
「十日戎」が終わると入れ替わるように慶雲館の「長浜盆梅展」が始まり、少しづつですが春に近づいていくことになります。


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2025年の初詣は巳年にちなんだ神社に参拝!~兵主大社・百々神社~

2025-01-03 17:01:03 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 静かな年明けとなった2025年。初詣は、巳年にちなんで蛇にゆかりのある神社に参拝を致しました。
滋賀県で巳にまつわる神社は、“白蛇”と“大蛇”に分かれ、「白蛇」は神の使いとして、もう一方は「退治された大蛇」として信仰の対象になったようです。

白蛇は、いわゆるアルビノと呼ばれる白化現象を起こした蛇の事とされ、その希少性と神秘性から信仰の対象となってきたとされています。
野洲市にある「兵主大社」は“神様が「白蛇」の姿で亀の背中に乗って、鹿に守られながら琵琶湖を渡ってきたという伝承”がある神社です。



「兵主大社」の御鎮座は718年。
「兵主の神」は、中国の八神信仰に由来する八千矛神を渡来人が奉斎し、但馬国を中心に全国にお祀りしたのが始まりとされます。
兵主神社と名の付く神社は、全国に50社近くあって延喜式神名帳には19社記載されているが、名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみだという。



「兵主」を“つわものぬし”と読むことにより、武将の信仰が厚く、源頼朝・足利尊氏による社殿の造営や寄進があったといいます。
社伝では足利尊氏の寄進とされる「楼門」は、室町末期の1550年に建立されたとされ、江戸期に大修理が行われて江戸後期の様式に変えられているそうです。



神社は一之鳥居から松並木参道へ入り、太鼓橋を渡って二之鳥居から楼門を抜け、参道を歩いて拝殿へと向かう。
楼門を入って右に稲背入彦神と菅原道真公を祀る「己殿神社」があり、兵主神社と同じ718年に鎮座して農地開田の神として崇敬されてきたといいます。



拝殿の横には「平安の庭」という国指定名勝の約22000㎡の大きな庭園には、水の流れを利用した祭祀が行われていたという国内でも数少ないとされる神社庭園がある。
また、境内の奥には兵主神の本地仏(不動明王)を祀る「旧護摩堂」があり、仏教色の痕跡が残る神社ともいえます。



楼門から拝殿までの参道には参拝者の長い列が出来ており、拝殿まで到達するのにかなりの時間を要しました。
兵主大社の御祭神は、主祭神に八千矛神(大国主神)をお祀りし、配祀神に手名椎神・足名椎神をお祀りします。



社伝では第12代天皇の景行天皇が皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市)に八千矛神を祀らせたという。
その後、「兵主大神」と称して近江国・穴太を経て、琵琶湖を渡る形で現在地に遷座したとされます。
景行天皇は、日本武尊(ヤマトタケル)の父にあたり、皇子の稲背入彦命は播磨直(播磨国造)祖とされる皇子です。



行列に並びながら交替で手水舎でお清めをしましたが、兵主大社の手水の吐水口は亀でした。
これは「神が白蛇の姿で亀に乗って琵琶湖を渡って来た」という降臨伝承によるものと思われます。



順番が来て参拝を済ました後は、冷えた体を温めるべく「甘酒」を頂きます。
また、神社の拝殿横では“書き初め”をすることが出来るようになっており、書き初めをした半紙を持ち帰る方が多く見られました。



社殿の南側にある庭園は、国指定の名勝庭園となっており、正月3ヶ日は無料開放です。
庭園は無料ながら誰も入って来ないので、何度も参拝されている方が多いのか、特に庭園には興味がないのか、で貸し切り状態でした。



庭園は池泉廻遊式庭園となっており、池の中心には出島、奥には築山の石組みがあります。
廻遊すると広さを感じる庭園となっていて、春や秋には新緑や紅葉、苔の美しい庭園であろうことが推測できます。
また、木々の間にはメジロの小グループが飛び交っておりましたので、梅や椿の季節に訪れたら花に留まるメジロが見られるかもしれません。



池の横にはツワブキの花。
椿も一部花を咲かせており、花の少ない季節に見られる花に気持ちが和みます。



兵主大社には南北朝時代前期の作と推定される「石造宝塔」があり、市指定文化財になっています。
石造宝塔は、高さが181cmほどあり、相輪・笠・塔身などに大きな欠損は見られず、長い歴史を経て存在してきた美しさを感じます。



兵主大社は「白蛇」にまつわる伝承のある神社でしたが、次の「百々神社(もも神社)」は「退治された大蛇」にまつわる神社になります。

宇多天皇の時代に長命寺川に架かる橋の下に棲む大蛇が、行き来する人を悩ませていたという。
人々はたまたまとおりかかった敦実親王(宇多天皇の第八皇子)に退治を依頼すると、敦実親王は見事に大蛇を退治する。
その後、村人達が橋のそばに蛇の魂を祀ったのがこの神社の始まりとされるといいます。



少し前に日牟礼八幡宮から鶴翼山(八幡山)に登って山を縦走して下山したのが百々神社の社殿の横でした。
その時に百々神社が大蛇を祀る社だと知ったのが、今回の初詣につながりました。



百々神社は北向きの神社で、これは目の前を流れる長命寺川に架かる落合橋から悪人や疫病が入らないように結界を張る道祖神が祀られていたからと伝わります。
また、冬の北風に向かい立つ神社として「風除け」「ぜんそく封じ」の神様として御利益があるとして信仰されてきたといいます。





2025年の干支は「乙巳(きのと・み)」。
「乙」には「木々や植物が地面を突き破っているさま」の意があり、「巳」には蛇のイメージから「再生と変化」の意があるといいます。

前回の「乙巳」の1965年は、「いざなぎ景気」が始まった年だった半面、ベトナム戦争の反戦運動が高まり、中国では「文化大革命」が始まった年。
さて2025年は、どんな一年になりますやら...。


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