僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「北山古墳」「市神神社」~滋賀県東近江市~

2020-12-22 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の八日市地方には山岳信仰の山と、飛鳥とのつながり(すなわち聖徳太子との関連)など独特の信仰形態が古来よりあったようです。
山でいえば、太郎坊宮(阿賀神社)のある赤神山、瓦屋寺のある箕作山、岩戸山十三仏のある岩戸山といった峯が連なる山々が霊的な場所といえます。

現在の市町村で言う東近江市には縄文・弥生・古墳時代から奈良・平安時代を含めて近世に至るまでの遺跡が数多く残されているといいます。
先述した箕作山には縄文時代の遺跡や、古墳時代の古墳群(瓦屋寺山古墳群・延命寺山古墳群・北山古墳)があるといい、その歴史は白鳳時代を経て聖徳太子とのつながりを深めていくようです。



“聖徳太子と空海の伝承は至る所にある”と言われる方が居られるほど、あちこちに伝承を残しますが、湖東地方には聖徳太子の伝承が残る寺院が幾つもあり、聖徳太子信仰が強く根付いています。
そこには古都の建造物の資材の供給地であったことや、渡来人の定着などが関わっているといわれることが多い。



目的だった「北山古墳」には車を停める場所がなかったので、すぐ近くの瓦屋寺の旧表参道の登り口へ駐車し、歩いて北山古墳に向かいます。
瓦屋寺は聖徳太子が四天王寺を建立する際に帰化人の秦氏が瓦を焼成した瓦窯が造られたり木材を調達した山に聖徳太子が建立した寺院と伝わり、ここが旧表参道の入口となる。

瓦屋寺(瓦屋禅寺)へは太郎坊宮の参集殿から続くルートで参拝したことがありますが、旧表参道から登ると石段2000段という道のりになる。
したがって旧表参道の入口とゴールしか知らないが、なかなかの苦行コースになるようです。



長閑な里山の風景を楽しみながら北山古墳へと歩いていくと、ほどなくして古墳の看板まで到着する。
説明書きを見るとこの古墳は昭和48年に発掘された古墳で、この北山古墳を含む瓦屋寺古墳群の中では最も大きく工法も精巧な古墳になるのだとされる。
瓦屋寺古墳群では確認されている古墳が57基あるといい、未確認の古墳を合わせると100基以上の古墳があるという古墳群ということです。





道路からすぐの所に看板が設置され、少し進むと石室の入口らしきものが見えてくる。
石室の入口まではよく整備されているので、恐々と雑草の中を歩くこともなく容易にたどり着けた。



北山古墳は7世紀頃に造られた古墳とされる横穴式石室の古墳で、当地にいた帰化人か豪族の首長の墳墓を考えられているといいます。
玄室の長さは4.1m、羨道の長さは5.4m以上とされていて、石室の一部が残されている。



古墳の石室へ行くといつも驚くのは、よくこれだけの巨石を これだけ整った形で 崩れることなく 積み上げたものだと当時の技術の凄さです。
東近江市を含む湖東地方一帯には数多くの古墳が確認されていることから、この地方に大きな集団を形成していた首長が多くいたということになり、この地の繁栄ぶりが伺えます。



古墳は「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されたこともあって注目を集めるようになっており、滋賀県の古墳は大規模古墳はあまりないものの、石室に入れる古墳は多い。
古墳は北海道や東北の一部を除く各都道府県で確認されていますが、古墳時代に古墳文化が全国に伝播していった経路にも興味深いものがあります。



北山古墳を出た後、聖徳太子ゆかりということで八日市駅近くまで戻り、初めて訪れる「市神神社」へ参拝する。
かつて八日市市は単独の市でしたが、市町村合併で現在は東近江市となっており、かつては街道沿いの交通の要所の市場町として栄えていたといいます。

八日市の駅前は整備された都市となっており、ローカル鉄道の近江鉄道しか通っていない町とは思えない盛況ぶりです。
また、市神神社の近くには「延命新地」という花街があったといい、県下有数の歓楽街であったともいいます。



市神神社は「近江七福神」に数えられる神社で、地元では「市宮ゑびす(商売繁盛の神)」として親しまれているという。
(【近江七福神】:金剛輪寺・長命寺・長寿院・青岸寺・興福寺・天寧寺・市神神社)
御祭神は「事代主命」をお祀りし、御配祀は「大國主命」「猿田彦大神」「額田王」の3柱。境内社には「金刀比羅神社」と「鎮宅神社」が祀られている。



聖徳太子が四天王寺を造営する際に白鹿山(現箕作山)の東麓で10万8千枚の瓦を焼かせ、新たに「瓦屋寺」を営し、かつ捊川の北に民家数百戸を置き、事代主命の神像を刻し一祀壇に納めたとある。
その縁起に従ってか、拝殿の横には「聖徳太子象」が凛とした姿で立たれている。



縁起には、推古9年(601年)始めて市店を開きとあり、一説によると8日に市場が開かれたことから八日市という地名になったともされている。
また、正暦の頃(990年から995年)、安倍晴明白鹿山に詣で此神像を拝し、太子の遺志を継ぎ市店鎮護の祈を奉り云々とあり、安倍晴明との縁もあるようです。
「鞍馬石」の碑には「清風払明月」と彫られているようですが、禅語なので解釈するのは難しい。



飛鳥時代の万葉の歌人で市神神社の御配祀である「額田王」は、大海人皇子(天武天皇)に嫁いで子を生しますが、天武天皇の兄・中大兄皇子(天智天皇)の寵愛を受けた方ともされます。
大津京の時代に、皇族が東近江市の蒲生野(天皇の御料地)には「薬猟」や「遊猟」に訪れることがあったといい、近江と関わりのあった額田王が詠んだ歌の歌碑があります。



歌碑は昭和60年に建ったもののようですが、歌は万葉の昔の7世紀に詠まれた歌。
『君待つとわが恋ひおればわがやどの簾動かし秋の風吹く』
額田王が天智天皇を恋焦がれて待っている気持ちを詠んだ恋歌と解釈されています。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「藤ヶ崎龍神」と「五所神社... | トップ | 「松尾神社」松尾神社庭園と... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山」カテゴリの最新記事