塔本シスコさんは大正2年(1913年)熊本県に生まれ、50歳を過ぎた頃から独学で絵を描き始め、92歳で亡くなられるまで絵を描き続けられたという。
「塔本シスコ展 シスコ・パラダイス かかずにはいられない! 人生絵日記」展は東京・世田谷美術館を皮切りに、熊本市現代美術館・岐阜県美術館・滋賀県立美術館を巡回中です。
塔本シスコさんは、滋賀県近江八幡市の「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」で企画された『GIRLS 毎日を絵にした少女たち』(2018年)で最初に知ったアーティストです。
今回の巡回展は、岐阜県美術館で拝観し、220点にも及ぶ作品からは数枚の絵から想像していたイメージを遥かに凌ぐインパクトを受けることになりました。
構成は7つの章に分けられており、第1章「私も大きな絵ば描きたかった」は、作品制作の第一歩となる時期の作品が集められています。
画家を目指していた息子の賢一さんが留守の間に、賢一さんの作品の油絵具を包丁で切り落とし、その上に絵を描き始めたのが。絵を描くようになった始まり。
「私も大きな絵ば描きたかった」衝動によって、塔本シスコさんのパラダイスが始まります。
1967年に描かれた「夕食後」は、20歳で結婚した塔本末蔵さんとの平穏な日々を回想するかのような作品です。
2人の子供に恵まれたものの、末蔵さんは事故で亡くなってしまい、シスコさんは48歳の時に軽い脳溢血で倒れた後、石を彫って作品を作るなどリハビリを行ったそうです。
そして、53歳の時に突然の事件のように絵を描き始めたという。
1967年の「秋の庭」はすでにシスコさんの作風が確立したようなシスコ・パラダイスの息吹きが感じられます。
シスコさんの作品は、大きな絵が描きたかったという想い通りに大きな作品が多く、会場に大きな絵が並ぶ様子には圧倒されます。
描く材料はキャンパス以外にも、板・ダンボール・瓶やペットボトル・箱の中や裏・着物など多岐に渡り、絵を描きたいという衝動の強さが感じられます。
1970年になると、シスコさんは長男と同居するため、大阪府枚方市に引っ越しをして近所や家族で訪れた行楽地の風景を色鮮やかに描き出されることになります。
熊本時代より自由に、奔放に描かれた作品からは少女の感性で描かれたような絵日記が展開されます。
第2章「どがんかねぇ、よかでしょうが」ではそんな枚方時代の作品が並び、1971年の「長尾の田園風景」では昔ながらの手植えでの田植え光景が描かれます。
「七五三のお祝い(1986年)」では、7歳のお祝いに来た着物姿の少女たちと親たちがお祭りのようにはしゃぐ姿が見られ、空には鳥が、樹下には兎が描かれています。
熊本時代よりも色彩の華やかさが増し、登場する題材に楽しさや幸福感が感じられる、まさにパラダイスの景色へと変わってきているように感じます。
「花しょうぶの精(1985年)」では色とりどりの花しょうぶが咲き誇る中に妖精たちの姿が見えます。
登場する花の妖精が時代劇にでも登場してくるような姿をしているあたりに個性を感じます。
枚方市には「山田池公園」という池を中心にして里山を模したような公園があります。
以前に野鳥目的で訪れたことがあり、カワセミが何度も姿を見せてくれたりする都市部にあって野鳥の多い公園だった記憶があります。
その山田池公園でハトにエサをあげているのがシスコさん。左下で写真を撮っているのが息子の賢一さん。
穏やかで満ち足りた時間を描いたこの絵でシスコさんの背後には子供たちでしょうか、春のひと時を祝福するかのように踊っているように見えます。「山田池の春(1999年)」
「山田池のもみじがり(2000年)」では花火のような迫力で色づいたもみじが描かれ、たくさんの野鳥が木陰や地面でエサをついばみ、池には魚の姿もあります。
この頃、娘の和子さんが病死され塞ぎこんでおられたそうなのですが、息子の賢一さんに連れ出されて絵を描くことを再開し、描くことによって気力を取り戻していかれたそうです。
第3章「ムツゴロウが潮に乗って跳んでさるく」ではシスコさんの故郷である熊本や九州の風景を描いています。
「故郷の家(シスコ、ミドリ、シユクコ、ミア、ケンサク)」(1988年)ではシスコさんの2人の姉妹と2人の孫が時代を越えて、みんな子供に帰って故郷の家で過ごす様子が描かれています。
南国ムードとは噴煙をあげる桜島の景色を描いた「桜島(1970~88年」では、棕櫚やレッドジンジャーなどの南国独特の植物と、まるで生き物のような桜島の山肌が美しい作品です。
空に舞う丸や三角の図形は、火山灰を表現しているのだとか。独創性が凄いですね。
「シャク取り(不知火海にて)」(1989年)は、熊本県の各地に家族で出かけた時の様子を描いた作品。
不知火海というとチッソの水俣工場が排出したメチル水銀汚染を思い起こしますが、そんな公害を微塵も感じないような楽しそうな家族の思い出です。
海が鯉のぼりの鱗のように描かれているのも特徴的で、この大きな絵はダンボールに描かれています。
同じくダンボールに描かれているのは「ネコ岳ミヤマキリシマ(1989年)」で、ピンクの花々と山肌の対比が美しいですね。
花と山裾の境界線では子供たちが楽しそうに踊っています。
第4章「私にはこがん見えるったい」の「夏の庭(1988年)」は、初期の「秋の庭(1967年)」と比べて色合いが華やかになってきているのは、季節の違いというより色使いの変化かもしれません。
空には蝶やトンボが舞い、ネコたちも登場するようになり、植物と生き物の生きとし生ける姿が織り込まれるようになっています。
「絵を描く私(1993年)」は、花に包まれるようにして留まる3羽のキンケイと、それを描くシスコさんが描かれています。
この絵は当時の皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀の頃に描かれたものらしい。
1993年版の「秋の庭」ではニガゴリや朝顔を描いたダンボールを3枚つなげているのでしょうか。
シスコさんと賢一さん和子さんと思われる3人が描かれており、気になるのは仏教的な、あるいはインド的な3人です。
この後こういったイメージのモチーフが何度か登場してきます。
第5章「また新しかキャンバスを持って来てはいよ」では家族をモチーフにした作品が多く展示されています。
シスコさんの家族への想いが感じられるのは、描かれた何点かの家族の絵から伝わってきます。
中央が「ミアのケッコンシキ(1997年)」、左上から「ミイート、賢一(1999年)」、「晩白柚、ヒロコサン(1999年)」。
右上から「福迫弥麻(1999年)」、「ギターヲヒク研作君24(1999年)」。
「NHKがやってきた(1995年)」では、NHKの取材を受けられたと思われるシスコさんを取り巻くにぎやかな取材風景が描かれています。
みんなが笑っていて微笑ましくも晴れがましい雰囲気が伝わってきますね。
第6章「私は死ぬるまで絵ば描きましょうたい」では晩年近くなったシスコさんの作品の作品が展示されます。
「90才のプレゼント(2003年)」では、孫たちが選んだ大きな花束と花瓶に力づけられ絵筆を握った最後の大作とされます。
「シスコの女神(1997年)」は、かつて横尾忠則さんが描いていたインドの神々を連想させるような作品です。
人は死期が近づく年齢になると、神々への関心が深まってくるのでしょうか。3面のモチーフは何を表しているのでしょうか。
第7章「シスコは絵をかく事シかデキナイのデ困った物です」にも信仰的なモチーフは登場し、「シスコの仏様(1993年)」では粘土で造った3躰の仏様が登場します。
また、シスコさんは和裁の技術を活かした和装の人形の製作や、絵柄を手書きした着物などもこの章では展示されています。
シスコさんの絶筆となったのは、力強くもシンプルに描かれた「シスコの月(2004年)」でした。
山あり谷あり、喜びあり悲しみありのシスコさんの人生の最期の作品は、まん丸に輝く満ち足りたかのような満月でした。
ところで、会場には来場者が多く来館されており、塔本シスコさんの人気が伺われる集客力でした。
年齢層もお年を召された方、若い方、子供連れの方など多岐に渡り、いろいろな層の方が楽しめる内容でした。
製作初期から晩年までの構成も分かりやすく、大型の作品が多かったこともあって迫力と生き生きした表現や美しさに圧倒された美術展でした、
個人が受けた印象に基づいて書いていますので、本位とは違った内容になっているかもしれませんが、そもそも美術作品はその人が感じたままが全てだと思います。
塔本シスコさんの作品を始めて見たのがNOMAミュージアムだったことがあって、ボーダレスなアールブリュット作家のイメージがありましたが、そのイメージはすっかり覆さりました。
「正規の美術教育を受けていない人による芸術」「既存の美術潮流に影響されない表現」というアールブリュットの定義にとらわれない人生の絵日記のような美術展に大いに満足しての退館です。
時々図鑑を手にしてシスコ・パラダイスにひたろうかなと思います。
「塔本シスコ展 シスコ・パラダイス かかずにはいられない! 人生絵日記」展は東京・世田谷美術館を皮切りに、熊本市現代美術館・岐阜県美術館・滋賀県立美術館を巡回中です。
塔本シスコさんは、滋賀県近江八幡市の「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」で企画された『GIRLS 毎日を絵にした少女たち』(2018年)で最初に知ったアーティストです。
今回の巡回展は、岐阜県美術館で拝観し、220点にも及ぶ作品からは数枚の絵から想像していたイメージを遥かに凌ぐインパクトを受けることになりました。
構成は7つの章に分けられており、第1章「私も大きな絵ば描きたかった」は、作品制作の第一歩となる時期の作品が集められています。
画家を目指していた息子の賢一さんが留守の間に、賢一さんの作品の油絵具を包丁で切り落とし、その上に絵を描き始めたのが。絵を描くようになった始まり。
「私も大きな絵ば描きたかった」衝動によって、塔本シスコさんのパラダイスが始まります。
1967年に描かれた「夕食後」は、20歳で結婚した塔本末蔵さんとの平穏な日々を回想するかのような作品です。
2人の子供に恵まれたものの、末蔵さんは事故で亡くなってしまい、シスコさんは48歳の時に軽い脳溢血で倒れた後、石を彫って作品を作るなどリハビリを行ったそうです。
そして、53歳の時に突然の事件のように絵を描き始めたという。
1967年の「秋の庭」はすでにシスコさんの作風が確立したようなシスコ・パラダイスの息吹きが感じられます。
シスコさんの作品は、大きな絵が描きたかったという想い通りに大きな作品が多く、会場に大きな絵が並ぶ様子には圧倒されます。
描く材料はキャンパス以外にも、板・ダンボール・瓶やペットボトル・箱の中や裏・着物など多岐に渡り、絵を描きたいという衝動の強さが感じられます。
1970年になると、シスコさんは長男と同居するため、大阪府枚方市に引っ越しをして近所や家族で訪れた行楽地の風景を色鮮やかに描き出されることになります。
熊本時代より自由に、奔放に描かれた作品からは少女の感性で描かれたような絵日記が展開されます。
第2章「どがんかねぇ、よかでしょうが」ではそんな枚方時代の作品が並び、1971年の「長尾の田園風景」では昔ながらの手植えでの田植え光景が描かれます。
「七五三のお祝い(1986年)」では、7歳のお祝いに来た着物姿の少女たちと親たちがお祭りのようにはしゃぐ姿が見られ、空には鳥が、樹下には兎が描かれています。
熊本時代よりも色彩の華やかさが増し、登場する題材に楽しさや幸福感が感じられる、まさにパラダイスの景色へと変わってきているように感じます。
「花しょうぶの精(1985年)」では色とりどりの花しょうぶが咲き誇る中に妖精たちの姿が見えます。
登場する花の妖精が時代劇にでも登場してくるような姿をしているあたりに個性を感じます。
枚方市には「山田池公園」という池を中心にして里山を模したような公園があります。
以前に野鳥目的で訪れたことがあり、カワセミが何度も姿を見せてくれたりする都市部にあって野鳥の多い公園だった記憶があります。
その山田池公園でハトにエサをあげているのがシスコさん。左下で写真を撮っているのが息子の賢一さん。
穏やかで満ち足りた時間を描いたこの絵でシスコさんの背後には子供たちでしょうか、春のひと時を祝福するかのように踊っているように見えます。「山田池の春(1999年)」
「山田池のもみじがり(2000年)」では花火のような迫力で色づいたもみじが描かれ、たくさんの野鳥が木陰や地面でエサをついばみ、池には魚の姿もあります。
この頃、娘の和子さんが病死され塞ぎこんでおられたそうなのですが、息子の賢一さんに連れ出されて絵を描くことを再開し、描くことによって気力を取り戻していかれたそうです。
第3章「ムツゴロウが潮に乗って跳んでさるく」ではシスコさんの故郷である熊本や九州の風景を描いています。
「故郷の家(シスコ、ミドリ、シユクコ、ミア、ケンサク)」(1988年)ではシスコさんの2人の姉妹と2人の孫が時代を越えて、みんな子供に帰って故郷の家で過ごす様子が描かれています。
南国ムードとは噴煙をあげる桜島の景色を描いた「桜島(1970~88年」では、棕櫚やレッドジンジャーなどの南国独特の植物と、まるで生き物のような桜島の山肌が美しい作品です。
空に舞う丸や三角の図形は、火山灰を表現しているのだとか。独創性が凄いですね。
「シャク取り(不知火海にて)」(1989年)は、熊本県の各地に家族で出かけた時の様子を描いた作品。
不知火海というとチッソの水俣工場が排出したメチル水銀汚染を思い起こしますが、そんな公害を微塵も感じないような楽しそうな家族の思い出です。
海が鯉のぼりの鱗のように描かれているのも特徴的で、この大きな絵はダンボールに描かれています。
同じくダンボールに描かれているのは「ネコ岳ミヤマキリシマ(1989年)」で、ピンクの花々と山肌の対比が美しいですね。
花と山裾の境界線では子供たちが楽しそうに踊っています。
第4章「私にはこがん見えるったい」の「夏の庭(1988年)」は、初期の「秋の庭(1967年)」と比べて色合いが華やかになってきているのは、季節の違いというより色使いの変化かもしれません。
空には蝶やトンボが舞い、ネコたちも登場するようになり、植物と生き物の生きとし生ける姿が織り込まれるようになっています。
「絵を描く私(1993年)」は、花に包まれるようにして留まる3羽のキンケイと、それを描くシスコさんが描かれています。
この絵は当時の皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀の頃に描かれたものらしい。
1993年版の「秋の庭」ではニガゴリや朝顔を描いたダンボールを3枚つなげているのでしょうか。
シスコさんと賢一さん和子さんと思われる3人が描かれており、気になるのは仏教的な、あるいはインド的な3人です。
この後こういったイメージのモチーフが何度か登場してきます。
第5章「また新しかキャンバスを持って来てはいよ」では家族をモチーフにした作品が多く展示されています。
シスコさんの家族への想いが感じられるのは、描かれた何点かの家族の絵から伝わってきます。
中央が「ミアのケッコンシキ(1997年)」、左上から「ミイート、賢一(1999年)」、「晩白柚、ヒロコサン(1999年)」。
右上から「福迫弥麻(1999年)」、「ギターヲヒク研作君24(1999年)」。
「NHKがやってきた(1995年)」では、NHKの取材を受けられたと思われるシスコさんを取り巻くにぎやかな取材風景が描かれています。
みんなが笑っていて微笑ましくも晴れがましい雰囲気が伝わってきますね。
第6章「私は死ぬるまで絵ば描きましょうたい」では晩年近くなったシスコさんの作品の作品が展示されます。
「90才のプレゼント(2003年)」では、孫たちが選んだ大きな花束と花瓶に力づけられ絵筆を握った最後の大作とされます。
「シスコの女神(1997年)」は、かつて横尾忠則さんが描いていたインドの神々を連想させるような作品です。
人は死期が近づく年齢になると、神々への関心が深まってくるのでしょうか。3面のモチーフは何を表しているのでしょうか。
第7章「シスコは絵をかく事シかデキナイのデ困った物です」にも信仰的なモチーフは登場し、「シスコの仏様(1993年)」では粘土で造った3躰の仏様が登場します。
また、シスコさんは和裁の技術を活かした和装の人形の製作や、絵柄を手書きした着物などもこの章では展示されています。
シスコさんの絶筆となったのは、力強くもシンプルに描かれた「シスコの月(2004年)」でした。
山あり谷あり、喜びあり悲しみありのシスコさんの人生の最期の作品は、まん丸に輝く満ち足りたかのような満月でした。
ところで、会場には来場者が多く来館されており、塔本シスコさんの人気が伺われる集客力でした。
年齢層もお年を召された方、若い方、子供連れの方など多岐に渡り、いろいろな層の方が楽しめる内容でした。
製作初期から晩年までの構成も分かりやすく、大型の作品が多かったこともあって迫力と生き生きした表現や美しさに圧倒された美術展でした、
個人が受けた印象に基づいて書いていますので、本位とは違った内容になっているかもしれませんが、そもそも美術作品はその人が感じたままが全てだと思います。
塔本シスコさんの作品を始めて見たのがNOMAミュージアムだったことがあって、ボーダレスなアールブリュット作家のイメージがありましたが、そのイメージはすっかり覆さりました。
「正規の美術教育を受けていない人による芸術」「既存の美術潮流に影響されない表現」というアールブリュットの定義にとらわれない人生の絵日記のような美術展に大いに満足しての退館です。
時々図鑑を手にしてシスコ・パラダイスにひたろうかなと思います。
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