臨済宗には大本山寺院が15の本山があり、その中で過去に訪れた臨済宗の大本山寺院は「萬福寺」「南禅寺」「東福寺」「建仁寺」などがありますが、「龍宝山 大徳寺」も臨済宗の大本山(大徳寺派)の一山に数えられます。
“なぜ臨済宗の大本山が幾つもの派に分かれているのか?”の理由は知りませんが、臨済宗以外の宗派でもいろいろな各派の大本山・総本山が見られますので、派による教え(師)の違いということがあるのかもしれませんね。
京都の市街を車で走行中に偶然「大徳寺」の前を通りがかり急遽参拝に訪れたのですが、「大徳寺」の境内のあまりの大きさには驚かされてしまいました。
予備知識なく参拝したため、広い境内の何処へ向かえばよいかも分からず、山内図を見ながらひたすら境内を歩き回る寺院巡りとなりました。
大徳寺は1315年に大燈国師(宗峰妙超)が開山したと伝えられ、応仁の乱で荒廃するものの室町時代には「一休宗純(あの一休さん!)」が復興したという歴史があるようです。
また桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営んだのも大徳寺であったといいますから、日本史に深く関わってきた寺院といえます。
駐車場を出て歩き出すと、間もなく勅使門が見えてきます。
勅使門は御所の門を下賜されて1640年に移築したとされる門で重要文化財に指定されている四脚門です。
三門も重要文化財に指定されており、秀吉と利休の決裂を伝える有名な話の舞台となった所です。
“千利休が1589年に上層を完成させて「金毛閣」としたところ、寺が利休の恩に報いるため、利休の木造を安置。このため門を通る者は利休の足の下を通ることになり、秀吉による利休切腹の一因になった。”
利休の仏像が安置されたことが切腹の直接の原因になった訳ではないのでしょうけど、歴史上の逸話には言いがかりめいた話がよく残されていますね。
三門の先には「仏殿」があり、唯一内部を観ることが出来ました。
1665年に再建されたという須弥壇には御本尊である釈迦如来坐像が祀られており禅宗の佇まいを感じる堂内でしたが、天井絵は劣化してしまったのか絵柄は全く読み取ることができませんでした。
仏殿の前を横切るように枝が伸びているのが樹齢350年といわれるイブキの木で、京都市指定天然記念物になっているようです。
勅使門から直線上に「三門」「仏殿」「法堂」と続きますが、法堂(重要文化財)は参道からしか見ることが出来ません。
1636年の建立で狩野探幽の「雲龍図」が描かれているそうですが、観られるのは特別開帳の時だけのようですね。
大徳寺には何と24の塔頭寺院があり、松の木の並木が続く参道には塔頭寺院が次々と並んでいます。
しかもそれぞれ小さな寺院よりも遥かに大きな寺院になっており、それぞれ立派な門を構えた中には本堂や僧坊があります。
ほとんどの塔頭は参詣禁止の寺院が多く、拝観可能な塔頭寺院を探し歩きながらの散策です。
松の並木が続く参道の両脇に壁に囲まれた塔頭寺院が並び建っているのは、それぞれの塔頭寺院が戦国武将などの菩提寺として庇護されたこともあるのでしょう。
参道を歩いていったら北門に辿り着きましたが、門を出た先は北大路通り。再び引返します。
拝観が可能だったのは塔頭寺院が4寺だけでしたが、その内の2つの塔頭を拝観することにしました。
最初に拝観したのは「大仙院(書院庭園)」という大徳寺4派(他に真珠庵・龍泉庵・龍源院)の一つに数えられる寺院です。
室町時代に建てられたという「本堂」は国宝建築物です。
特別名勝および名勝の「庭園」、重要文化財の「書院」と看板に書かれてあり、建築はもとより庭園が素晴らしい塔頭です。
まず門構えがあり、境内には広い本堂が拡がっていましたが、こんな規模の塔頭寺院が点在するのではなく参道続きで並び建つのですから驚かされてしまいます。
庭園は特別名勝・史跡になっている庭園だけあって枯山水のことがよく分からない当方でも思わずハッとするような庭園でした。
鴬張りの廊下の廊下を歩きながら庭園を見て歩くのですが、この寺院は内部はともかく庭までが撮影禁止になっています。(写真は大仙院の看板)
案内の方が丁寧な説明で薀蓄(うんちく)のある言葉を紹介して下さいましたが、その言葉は大仙院の閑栖(隠居した禅僧)の言葉だそうです。
著書も多く出されており個性的な魅力のある方のようですが、分かりやすい言葉で語りかけて自身を見直しつつも元気になれるような言葉だと感じました。
もう一つ訪れた塔頭寺院は「龍源院」でした。
「方丈」「玄関」「表門」全てが重要文化財になっており、方丈は大徳寺山内で最古の建物とされる1502年に建立された建物だそうです。
部屋の中には蒔絵の基盤が展示されていますが、この基盤は豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられている基盤だと伝えられています。
龍源院には方丈の三方に3つの庭園と庫裡に1つの庭園とがあり、それぞれ「龍吟庭」「一枝坦」「東滴壺」「阿・吽の石庭」と名付けられています。
とはいえ、やはり庭のことはよく分かりませんね。難しく考えず楽しめばよいのかもしれませんが...。
全くの偶然で、思いつきのように立ち寄った大徳寺でしたが、その規模と塔頭寺院の多さ・見事さには大変驚くことになりました。
有名寺院とはいえど、やはり実際に訪れてみないと分らないことが多いですね。
“なぜ臨済宗の大本山が幾つもの派に分かれているのか?”の理由は知りませんが、臨済宗以外の宗派でもいろいろな各派の大本山・総本山が見られますので、派による教え(師)の違いということがあるのかもしれませんね。
京都の市街を車で走行中に偶然「大徳寺」の前を通りがかり急遽参拝に訪れたのですが、「大徳寺」の境内のあまりの大きさには驚かされてしまいました。
予備知識なく参拝したため、広い境内の何処へ向かえばよいかも分からず、山内図を見ながらひたすら境内を歩き回る寺院巡りとなりました。
大徳寺は1315年に大燈国師(宗峰妙超)が開山したと伝えられ、応仁の乱で荒廃するものの室町時代には「一休宗純(あの一休さん!)」が復興したという歴史があるようです。
また桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営んだのも大徳寺であったといいますから、日本史に深く関わってきた寺院といえます。
駐車場を出て歩き出すと、間もなく勅使門が見えてきます。
勅使門は御所の門を下賜されて1640年に移築したとされる門で重要文化財に指定されている四脚門です。
三門も重要文化財に指定されており、秀吉と利休の決裂を伝える有名な話の舞台となった所です。
“千利休が1589年に上層を完成させて「金毛閣」としたところ、寺が利休の恩に報いるため、利休の木造を安置。このため門を通る者は利休の足の下を通ることになり、秀吉による利休切腹の一因になった。”
利休の仏像が安置されたことが切腹の直接の原因になった訳ではないのでしょうけど、歴史上の逸話には言いがかりめいた話がよく残されていますね。
三門の先には「仏殿」があり、唯一内部を観ることが出来ました。
1665年に再建されたという須弥壇には御本尊である釈迦如来坐像が祀られており禅宗の佇まいを感じる堂内でしたが、天井絵は劣化してしまったのか絵柄は全く読み取ることができませんでした。
仏殿の前を横切るように枝が伸びているのが樹齢350年といわれるイブキの木で、京都市指定天然記念物になっているようです。
勅使門から直線上に「三門」「仏殿」「法堂」と続きますが、法堂(重要文化財)は参道からしか見ることが出来ません。
1636年の建立で狩野探幽の「雲龍図」が描かれているそうですが、観られるのは特別開帳の時だけのようですね。
大徳寺には何と24の塔頭寺院があり、松の木の並木が続く参道には塔頭寺院が次々と並んでいます。
しかもそれぞれ小さな寺院よりも遥かに大きな寺院になっており、それぞれ立派な門を構えた中には本堂や僧坊があります。
ほとんどの塔頭は参詣禁止の寺院が多く、拝観可能な塔頭寺院を探し歩きながらの散策です。
松の並木が続く参道の両脇に壁に囲まれた塔頭寺院が並び建っているのは、それぞれの塔頭寺院が戦国武将などの菩提寺として庇護されたこともあるのでしょう。
参道を歩いていったら北門に辿り着きましたが、門を出た先は北大路通り。再び引返します。
拝観が可能だったのは塔頭寺院が4寺だけでしたが、その内の2つの塔頭を拝観することにしました。
最初に拝観したのは「大仙院(書院庭園)」という大徳寺4派(他に真珠庵・龍泉庵・龍源院)の一つに数えられる寺院です。
室町時代に建てられたという「本堂」は国宝建築物です。
特別名勝および名勝の「庭園」、重要文化財の「書院」と看板に書かれてあり、建築はもとより庭園が素晴らしい塔頭です。
まず門構えがあり、境内には広い本堂が拡がっていましたが、こんな規模の塔頭寺院が点在するのではなく参道続きで並び建つのですから驚かされてしまいます。
庭園は特別名勝・史跡になっている庭園だけあって枯山水のことがよく分からない当方でも思わずハッとするような庭園でした。
鴬張りの廊下の廊下を歩きながら庭園を見て歩くのですが、この寺院は内部はともかく庭までが撮影禁止になっています。(写真は大仙院の看板)
案内の方が丁寧な説明で薀蓄(うんちく)のある言葉を紹介して下さいましたが、その言葉は大仙院の閑栖(隠居した禅僧)の言葉だそうです。
著書も多く出されており個性的な魅力のある方のようですが、分かりやすい言葉で語りかけて自身を見直しつつも元気になれるような言葉だと感じました。
もう一つ訪れた塔頭寺院は「龍源院」でした。
「方丈」「玄関」「表門」全てが重要文化財になっており、方丈は大徳寺山内で最古の建物とされる1502年に建立された建物だそうです。
部屋の中には蒔絵の基盤が展示されていますが、この基盤は豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられている基盤だと伝えられています。
龍源院には方丈の三方に3つの庭園と庫裡に1つの庭園とがあり、それぞれ「龍吟庭」「一枝坦」「東滴壺」「阿・吽の石庭」と名付けられています。
とはいえ、やはり庭のことはよく分かりませんね。難しく考えず楽しめばよいのかもしれませんが...。
全くの偶然で、思いつきのように立ち寄った大徳寺でしたが、その規模と塔頭寺院の多さ・見事さには大変驚くことになりました。
有名寺院とはいえど、やはり実際に訪れてみないと分らないことが多いですね。