小谷城では毎年春と秋にシャトルバスが運行しており、城跡では観光ガイドの方を語り部として小谷城についての解説が聞けます。
いつもならシャトルバスを降りたら小谷山山頂のある大嶽城跡まで行くのですが、今回は家族と一緒でしたので山王丸跡まで行って折り返しました。
小谷山は低山ながら熊出没注意!の看板のある山ですが、シャトルバスが運行される時期は山中に人が多く、安心して散策出来るのが助かります。
また普段バスに乗る生活をしていませんので、バスで林道を登っていくと観光気分にひたれるのもこの企画の好きなところです。
絵図では麓から現在地と記載された“番所”までシャトルバスで登り、そこからは各ポイントでガイドさんの説明を聞きながら“本丸”まで進みます。
“本丸”で説明は終わりとなりそこで解散しますが、すぐ下りてしまうのも勿体ないので、中丸~京極丸~小丸~山王丸まで行きました。
まず絵図を見ながらガイドさんの城跡全体の説明があり、その先は山道を登りながら説明を聞きます。
ガイドさんが子供の頃の小谷山は松茸が豊富に採れた山で、松茸の季節には弁当のおかずに松茸が入っていたと羨ましい話をされていました。
登り始めてすぐの場所に眺望の良い「虎御前山展望所」があります。
眼下には虎御前山、琵琶湖の手前にオオワシの居る山本山、琵琶湖には竹生島が見渡せます。
湖北では珍しい爽快な晴天に恵まれて視界は良好、空と琵琶湖のブルーが美しい。
城郭の主要部への入口となる場所には「番所跡」があり、ここは検問所の役割があったといいます。
もし番所の入口を突破したとしても、その上部にある曲輪から攻撃されるので、正面突破は困難な堅牢なお城ということになります。
「御茶屋跡」は茶屋でもあったような優雅な名前をしているが、実際は軍事施設だったようです。
主郭の先端にあり、番所を怪しいものが突破すればすぐに攻撃できてその先には進めない。
「御馬屋跡」への道は三方を高い土塁で囲まれていて、ここまで突入してきても崖下へ追いやられ逃げる場所がなく討たれてしまいます。
番所や御茶屋を抜けられてもここで攻撃されて、先へ進めたとしてもごく僅かな人数になってしまうと説明がありました。
御馬屋跡には井戸跡があり、雨水などを溜めて籠城しても水が得られるようにしていたそうです。
しかし、数千人もの人が必要な水は雨水だけでは得られず、清水谷というところから汲み上げてもいたという。
ガイドさんに付いて20名少々が説明を聞きますが、止まって話を聞いていると少し寒さを感じる。歩いている時は心地よい天気なのですけどね。
小谷城は浅井氏滅亡後に羽柴秀吉らによって完膚なきまでに破城されたといい、この周辺にあった石垣は跡形もなく消えて、隅石だけが残っています。
眺望が開けた場所に出ると、横山や伊吹山に姉川の堤防が見えます。
「姉川の戦い」は“血原”や“血川”が地名に残ったりした血生臭い激戦だったと伝わります。
が、ガイドさんの話だと姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲があっただけで、大きな戦ではなかったとの説があるとも言われていました。
「首据石」は浅井家初代・亮政が六角氏との合戦の際、敵に内通していた家臣の今井秀信の首をこの石の上に晒したと伝わる石です。
戦国時代は下剋上・内通・裏切りの時代にあって、裏切り者は見せしめの意味で裏切ったらこんな仕打ちを受けるということを示したのでしょう。
かつてここに門があったことが容易に想像出来る両側にある巨石と真ん中にある石段は「黒金門跡」。
VRでは往年の黒金門は扉に黒金(鉄)を貼った門扉ではありませんが、門扉など関門の仕組み全体を「黒金門」と呼ぶことがあるそうです。
「桜馬場跡」には浅井家家臣供養塔があり、崖側まで行くとパノラマが広がる展望所があります。
桜馬場から見る景色はお市や浅井三姉妹が眺めた姿と、400数十年たった今でも変わりないのかもしれないと思わずにはいられない光景です。
さてガイドの最後は「本丸跡」です。
いまは石垣の一部を残すのみですが、VRでは上下2段の城で安土城建築以前の山城の姿がバーチャルの中で再現されています。
また城の後方(大広間跡の反対側)には尾根を寸断して作られた巨大な大堀切があり、重機のない時代に人力で作った労力に驚かされます。
ここから先はガイドなしでの散策ですが、まずは「中丸跡」を通り抜けます。
中丸は大堀切の北側にあって三段からなる階段曲輪となっており、上段には「刀洗池」という井戸跡が残ります。
「京極丸跡」は京極氏(浅井氏の主家)の屋敷があった場所とされ、大広間に次ぐ広大な曲輪だという。
小谷城は正面から攻めると難攻不落の堅固な山城ですが、秀吉は調略で仕入れた情報から城の裏側に侵入して浅井久政と長政の間を分断したという。
策略家の秀吉の戦の巧妙さは、正面からの攻撃には強くても後方から攻められると弱いという小谷城の守りの盲点を突いた作戦勝ちだったのでしょう。
「小丸跡」は2代城主・久政が居住していた所とされており、秀吉の攻撃によって長政軍と分断されてしまった久政はここで自刃したとされます。
時に久政49歳、長政享年29歳。ガイドさんの話だと長政は歴女に人気が高く長政が自害した「赤尾屋敷跡」には長政の命日に訪れる歴女の方がおられるとか。
「山王丸跡」は4段から成る詰めの曲輪とされ、崩れてはいるが石垣の一部が残っている。
矢印に「大石垣」とあり、そちらへ行くと高さ5mほどある石垣が往時の姿を偲ばせる。
大石垣は規模で本丸の石垣を上回るといい、石垣は浅井氏の権力の象徴でもあったという。
それ故かどうかは分かりませんが、秀吉が石垣の大半を完膚無きまで破壊し、痕跡すら残さなかったのにも意味があったのかと思います。
「山王丸」は主郭部の最も北にあり、名前の通り山王権現が祀られていたとされる場所です。
山王丸から大嶽城跡(小谷山山頂)への道の途中には「六坊」という6つの寺院があり、この一帯は神と仏が祀られていた場所になります。
11月は小谷城スマートIC利用促進キャンペーンで「秋の紅葉散策✖小谷城スマートインターチェンジ利用キャンペーン」が開催中でした。
高速道路を利用して小谷城ICから降りれば、シャトルバスの料金の割引・カフェのコーヒー2杯無料券・御城印2枚プレゼントの特典があります。
キャンペーンをフルに活用しましたので総額2000円分のプレゼント特典を頂くことが出来ましたよ。
いつもならシャトルバスを降りたら小谷山山頂のある大嶽城跡まで行くのですが、今回は家族と一緒でしたので山王丸跡まで行って折り返しました。
小谷山は低山ながら熊出没注意!の看板のある山ですが、シャトルバスが運行される時期は山中に人が多く、安心して散策出来るのが助かります。
また普段バスに乗る生活をしていませんので、バスで林道を登っていくと観光気分にひたれるのもこの企画の好きなところです。
絵図では麓から現在地と記載された“番所”までシャトルバスで登り、そこからは各ポイントでガイドさんの説明を聞きながら“本丸”まで進みます。
“本丸”で説明は終わりとなりそこで解散しますが、すぐ下りてしまうのも勿体ないので、中丸~京極丸~小丸~山王丸まで行きました。
まず絵図を見ながらガイドさんの城跡全体の説明があり、その先は山道を登りながら説明を聞きます。
ガイドさんが子供の頃の小谷山は松茸が豊富に採れた山で、松茸の季節には弁当のおかずに松茸が入っていたと羨ましい話をされていました。
登り始めてすぐの場所に眺望の良い「虎御前山展望所」があります。
眼下には虎御前山、琵琶湖の手前にオオワシの居る山本山、琵琶湖には竹生島が見渡せます。
湖北では珍しい爽快な晴天に恵まれて視界は良好、空と琵琶湖のブルーが美しい。
城郭の主要部への入口となる場所には「番所跡」があり、ここは検問所の役割があったといいます。
もし番所の入口を突破したとしても、その上部にある曲輪から攻撃されるので、正面突破は困難な堅牢なお城ということになります。
「御茶屋跡」は茶屋でもあったような優雅な名前をしているが、実際は軍事施設だったようです。
主郭の先端にあり、番所を怪しいものが突破すればすぐに攻撃できてその先には進めない。
「御馬屋跡」への道は三方を高い土塁で囲まれていて、ここまで突入してきても崖下へ追いやられ逃げる場所がなく討たれてしまいます。
番所や御茶屋を抜けられてもここで攻撃されて、先へ進めたとしてもごく僅かな人数になってしまうと説明がありました。
御馬屋跡には井戸跡があり、雨水などを溜めて籠城しても水が得られるようにしていたそうです。
しかし、数千人もの人が必要な水は雨水だけでは得られず、清水谷というところから汲み上げてもいたという。
ガイドさんに付いて20名少々が説明を聞きますが、止まって話を聞いていると少し寒さを感じる。歩いている時は心地よい天気なのですけどね。
小谷城は浅井氏滅亡後に羽柴秀吉らによって完膚なきまでに破城されたといい、この周辺にあった石垣は跡形もなく消えて、隅石だけが残っています。
眺望が開けた場所に出ると、横山や伊吹山に姉川の堤防が見えます。
「姉川の戦い」は“血原”や“血川”が地名に残ったりした血生臭い激戦だったと伝わります。
が、ガイドさんの話だと姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲があっただけで、大きな戦ではなかったとの説があるとも言われていました。
「首据石」は浅井家初代・亮政が六角氏との合戦の際、敵に内通していた家臣の今井秀信の首をこの石の上に晒したと伝わる石です。
戦国時代は下剋上・内通・裏切りの時代にあって、裏切り者は見せしめの意味で裏切ったらこんな仕打ちを受けるということを示したのでしょう。
かつてここに門があったことが容易に想像出来る両側にある巨石と真ん中にある石段は「黒金門跡」。
VRでは往年の黒金門は扉に黒金(鉄)を貼った門扉ではありませんが、門扉など関門の仕組み全体を「黒金門」と呼ぶことがあるそうです。
「桜馬場跡」には浅井家家臣供養塔があり、崖側まで行くとパノラマが広がる展望所があります。
桜馬場から見る景色はお市や浅井三姉妹が眺めた姿と、400数十年たった今でも変わりないのかもしれないと思わずにはいられない光景です。
さてガイドの最後は「本丸跡」です。
いまは石垣の一部を残すのみですが、VRでは上下2段の城で安土城建築以前の山城の姿がバーチャルの中で再現されています。
また城の後方(大広間跡の反対側)には尾根を寸断して作られた巨大な大堀切があり、重機のない時代に人力で作った労力に驚かされます。
ここから先はガイドなしでの散策ですが、まずは「中丸跡」を通り抜けます。
中丸は大堀切の北側にあって三段からなる階段曲輪となっており、上段には「刀洗池」という井戸跡が残ります。
「京極丸跡」は京極氏(浅井氏の主家)の屋敷があった場所とされ、大広間に次ぐ広大な曲輪だという。
小谷城は正面から攻めると難攻不落の堅固な山城ですが、秀吉は調略で仕入れた情報から城の裏側に侵入して浅井久政と長政の間を分断したという。
策略家の秀吉の戦の巧妙さは、正面からの攻撃には強くても後方から攻められると弱いという小谷城の守りの盲点を突いた作戦勝ちだったのでしょう。
「小丸跡」は2代城主・久政が居住していた所とされており、秀吉の攻撃によって長政軍と分断されてしまった久政はここで自刃したとされます。
時に久政49歳、長政享年29歳。ガイドさんの話だと長政は歴女に人気が高く長政が自害した「赤尾屋敷跡」には長政の命日に訪れる歴女の方がおられるとか。
「山王丸跡」は4段から成る詰めの曲輪とされ、崩れてはいるが石垣の一部が残っている。
矢印に「大石垣」とあり、そちらへ行くと高さ5mほどある石垣が往時の姿を偲ばせる。
大石垣は規模で本丸の石垣を上回るといい、石垣は浅井氏の権力の象徴でもあったという。
それ故かどうかは分かりませんが、秀吉が石垣の大半を完膚無きまで破壊し、痕跡すら残さなかったのにも意味があったのかと思います。
「山王丸」は主郭部の最も北にあり、名前の通り山王権現が祀られていたとされる場所です。
山王丸から大嶽城跡(小谷山山頂)への道の途中には「六坊」という6つの寺院があり、この一帯は神と仏が祀られていた場所になります。
11月は小谷城スマートIC利用促進キャンペーンで「秋の紅葉散策✖小谷城スマートインターチェンジ利用キャンペーン」が開催中でした。
高速道路を利用して小谷城ICから降りれば、シャトルバスの料金の割引・カフェのコーヒー2杯無料券・御城印2枚プレゼントの特典があります。
キャンペーンをフルに活用しましたので総額2000円分のプレゼント特典を頂くことが出来ましたよ。
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