大津市の近江神宮の後方に控える宇佐山は比叡山系の南東に連なる低山で、山腹には「宇佐八幡宮」が祀られ、山頂には「宇佐山城址」があります。
また宇佐山八幡宮の麓側(標高約150m)の地点では古墳時代中期前半から後期の古墳群が確認されており、「宇佐山古墳群」と呼ばれているといいます。
山頂の「宇佐山城」は、織田信長が浅井・朝倉連合軍に備えて森可成(森蘭丸の父)に築かせた城で、安土城以前に近江で最初に石垣による築城を行った城郭とされている。
その後、比叡山焼き討ちで武勲をあげた明智光秀が坂本の地を拝領し、「坂本城」を築いたため宇佐山城は廃城になったと考えられているようです。
近江神宮の駐車場から坂道を登っていくと「宇佐八幡宮」の石標があり、この先が宇佐八幡宮の参道となっている。
大津市の宇佐八幡宮は平安時代の河内源氏の2代目棟梁の源頼義(頼朝の5代前の先祖)が1065年、前九年の役を平定して当地に館を構えて九州大分の宇佐神社を勧請したという。
石標の後方に“よしず”に囲まれて結界が張られている場所があり、その中央岩の上に御幣が立てられている。
もしかするとここは宇佐山古墳のひとつのようで、後方にももう1基の古墳があるように見える。
古墳の上に神社や祠が祀られていることが多いと感じているのですが、諸説ありつつも古墳=神ではなく、後世になって古墳があった場所に神を祀ったということのように思います。
少し登ると宇佐八幡宮の鳥居があり、ここから先は神の領域に入りますので、帽子を脱いで一礼して鳥居を抜けていきます。
朱色の玉垣に囲まれた結界の中にもう一つの鳥居があり、中に石をお祀りしています。
この小山も円墳ではないかと言われている場所で、直径10mほどの円墳とされているものの、形を把握は出来ない。
祀られている岩は「御足形」と名付けられ、源頼義が宇佐八幡宮を勧請して創建した際の御神示の沓形と称して信仰されているといいます。
御利益は健脚を祈り霊験を受けるとされていますので、健脚を祈ってもっと歩けるようお祈りしておきました。
ここで道は表参道と神輿道に分岐していたので門構えのある表参道を登ります。
この辺りまでは下界の喧騒が若干聞こえてきますが、坂を少し登ればこんなに落ち着いた佇まいの神社があるのは大津ならではなのかなぁと思いつつ歩を進めます。
門をくぐって進んだ先には「金殿井」という天智天皇ゆかりの井戸があります。
667年、中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都して翌年に天智天皇として即位するのですが、その頃の伝承でしょうか“天智天皇御平癒の霊泉として拝飲す”と書かれてありました。
参道の途中に宇佐山城址への分岐がありますが、まずは参拝ということで石段を登って宇佐八幡宮の拝殿・本殿へと向かいます。
標高200mの山腹にある神社とは思えないほどの立派な神社で、御祭神は応神天皇を祀り、境内社には若宮八幡宮・丹後宮・蛭子社・高良社 (稲荷社)をお祀りしています。
参拝した後は石段を下って分岐まで戻り、宇佐山山頂を目指します。
道は最初はゆるやかで後半少し急なところもありますが、急勾配の所や崖の横などにはロープが張られ、時には倒木や木の枝を使って道が仕切られていたりするので道迷いはありません。
ただ木の根が剥き出しになっている場所が多いので、躓かないように歩かないと足を引っかけてしまいそうです。
ふくらはぎに負担を感じるような道が続きますが、地元の小学生のメッセージを書いた看板や道しるべが各所にあるため退屈せずに登っていける。
崖の上の方に本丸の石垣が見えてきました。
滑り落ちそうになりながらも何とか登りきって石垣の前へと登りますが、落ち葉で滑りやすい急坂なので次は下りるのが大変そうです。
宇佐山城は湖西から京へ上る場合に必ず通る街道筋であり、街道を監視する役割があったとされ、浅井・朝倉連合軍に組した比叡山延暦寺の僧兵との戦いは宇佐山城から坂本へ下って戦ったといいます。
この戦いで兵力に劣る森可成らは討ち死にしたものの城兵の抵抗により落城を免れ、摂津で三好三人衆と戦っていた信長軍の入城により浅井・朝倉軍を追い詰めていったとされます。
山頂近くまで登ると道が両サイドに分かれていて、ひとつは眺望の良い「宇佐山テラス(三の丸跡)」への道で、もうひとつはNHKと民間放送のアンテナ施設のある「本丸跡(宇佐山山頂)」。
階段を登って本丸跡へ行くと、本丸跡地はアンテナ施設がスペースの大半を占めており、周りにある周回道に山頂表示があった。
アンテナ施設を越えて二の丸跡だと思われる場所に行くと、石仏が祀られている。
建物に独占されている山頂(本丸跡)よりこちらの方が雰囲気がありますね。
山頂から下りて「宇佐山テラス」へ向かうと目の前には湖西からの琵琶湖の絶景が広がります。
毎度のことながら琵琶湖の南湖は巾が狭いなぁと感じてしまうほど対岸の草津が近い。
琵琶湖大橋の向こうに見える島は沖島でしょうか、観音寺山らしき山も確認出来ます。
南西方向には大津プリンスホテルと近江大橋。
後方の山々は金勝アルプス、山の向こう側は信楽といった感じでしょうか。
宇佐山城は明智光秀が坂本の地を拝領して「坂本城」を築城後に廃城となっています。
せっかくなので光秀の坂本城址へと寄り道して見ましたが、城址公園や石碑があるだけで見事なまでに何も残っていませんでした。
坂本の住宅街を歩いていくと「坂本城の二の丸跡」だったとされる場所に「坂本城址」の石碑が建っている。
復元図によると琵琶湖に面して本丸、内堀を挟んで二の丸、中堀を挟んで三の丸があり、その外側が外堀。中堀に沿って北国街道が通っている。
信長は4つの城で琵琶湖の水運を押さえたといい、「安土城(信長)」「坂本城(光秀)」「長浜城(秀吉)」「大溝城(織田信澄)」が配置されていた。
それぞれ琵琶湖や内湖を利用した城となっており、信長が交通と水運を重要視して主要な人物を城主に充てていたことが分かります。
坂本城址公園は本丸のあった場所より少し南になりますが、石碑や説明板と共に明智光秀の像が立てられていました。
また宇佐山八幡宮の麓側(標高約150m)の地点では古墳時代中期前半から後期の古墳群が確認されており、「宇佐山古墳群」と呼ばれているといいます。
山頂の「宇佐山城」は、織田信長が浅井・朝倉連合軍に備えて森可成(森蘭丸の父)に築かせた城で、安土城以前に近江で最初に石垣による築城を行った城郭とされている。
その後、比叡山焼き討ちで武勲をあげた明智光秀が坂本の地を拝領し、「坂本城」を築いたため宇佐山城は廃城になったと考えられているようです。
近江神宮の駐車場から坂道を登っていくと「宇佐八幡宮」の石標があり、この先が宇佐八幡宮の参道となっている。
大津市の宇佐八幡宮は平安時代の河内源氏の2代目棟梁の源頼義(頼朝の5代前の先祖)が1065年、前九年の役を平定して当地に館を構えて九州大分の宇佐神社を勧請したという。
石標の後方に“よしず”に囲まれて結界が張られている場所があり、その中央岩の上に御幣が立てられている。
もしかするとここは宇佐山古墳のひとつのようで、後方にももう1基の古墳があるように見える。
古墳の上に神社や祠が祀られていることが多いと感じているのですが、諸説ありつつも古墳=神ではなく、後世になって古墳があった場所に神を祀ったということのように思います。
少し登ると宇佐八幡宮の鳥居があり、ここから先は神の領域に入りますので、帽子を脱いで一礼して鳥居を抜けていきます。
朱色の玉垣に囲まれた結界の中にもう一つの鳥居があり、中に石をお祀りしています。
この小山も円墳ではないかと言われている場所で、直径10mほどの円墳とされているものの、形を把握は出来ない。
祀られている岩は「御足形」と名付けられ、源頼義が宇佐八幡宮を勧請して創建した際の御神示の沓形と称して信仰されているといいます。
御利益は健脚を祈り霊験を受けるとされていますので、健脚を祈ってもっと歩けるようお祈りしておきました。
ここで道は表参道と神輿道に分岐していたので門構えのある表参道を登ります。
この辺りまでは下界の喧騒が若干聞こえてきますが、坂を少し登ればこんなに落ち着いた佇まいの神社があるのは大津ならではなのかなぁと思いつつ歩を進めます。
門をくぐって進んだ先には「金殿井」という天智天皇ゆかりの井戸があります。
667年、中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都して翌年に天智天皇として即位するのですが、その頃の伝承でしょうか“天智天皇御平癒の霊泉として拝飲す”と書かれてありました。
参道の途中に宇佐山城址への分岐がありますが、まずは参拝ということで石段を登って宇佐八幡宮の拝殿・本殿へと向かいます。
標高200mの山腹にある神社とは思えないほどの立派な神社で、御祭神は応神天皇を祀り、境内社には若宮八幡宮・丹後宮・蛭子社・高良社 (稲荷社)をお祀りしています。
参拝した後は石段を下って分岐まで戻り、宇佐山山頂を目指します。
道は最初はゆるやかで後半少し急なところもありますが、急勾配の所や崖の横などにはロープが張られ、時には倒木や木の枝を使って道が仕切られていたりするので道迷いはありません。
ただ木の根が剥き出しになっている場所が多いので、躓かないように歩かないと足を引っかけてしまいそうです。
ふくらはぎに負担を感じるような道が続きますが、地元の小学生のメッセージを書いた看板や道しるべが各所にあるため退屈せずに登っていける。
崖の上の方に本丸の石垣が見えてきました。
滑り落ちそうになりながらも何とか登りきって石垣の前へと登りますが、落ち葉で滑りやすい急坂なので次は下りるのが大変そうです。
宇佐山城は湖西から京へ上る場合に必ず通る街道筋であり、街道を監視する役割があったとされ、浅井・朝倉連合軍に組した比叡山延暦寺の僧兵との戦いは宇佐山城から坂本へ下って戦ったといいます。
この戦いで兵力に劣る森可成らは討ち死にしたものの城兵の抵抗により落城を免れ、摂津で三好三人衆と戦っていた信長軍の入城により浅井・朝倉軍を追い詰めていったとされます。
山頂近くまで登ると道が両サイドに分かれていて、ひとつは眺望の良い「宇佐山テラス(三の丸跡)」への道で、もうひとつはNHKと民間放送のアンテナ施設のある「本丸跡(宇佐山山頂)」。
階段を登って本丸跡へ行くと、本丸跡地はアンテナ施設がスペースの大半を占めており、周りにある周回道に山頂表示があった。
アンテナ施設を越えて二の丸跡だと思われる場所に行くと、石仏が祀られている。
建物に独占されている山頂(本丸跡)よりこちらの方が雰囲気がありますね。
山頂から下りて「宇佐山テラス」へ向かうと目の前には湖西からの琵琶湖の絶景が広がります。
毎度のことながら琵琶湖の南湖は巾が狭いなぁと感じてしまうほど対岸の草津が近い。
琵琶湖大橋の向こうに見える島は沖島でしょうか、観音寺山らしき山も確認出来ます。
南西方向には大津プリンスホテルと近江大橋。
後方の山々は金勝アルプス、山の向こう側は信楽といった感じでしょうか。
宇佐山城は明智光秀が坂本の地を拝領して「坂本城」を築城後に廃城となっています。
せっかくなので光秀の坂本城址へと寄り道して見ましたが、城址公園や石碑があるだけで見事なまでに何も残っていませんでした。
坂本の住宅街を歩いていくと「坂本城の二の丸跡」だったとされる場所に「坂本城址」の石碑が建っている。
復元図によると琵琶湖に面して本丸、内堀を挟んで二の丸、中堀を挟んで三の丸があり、その外側が外堀。中堀に沿って北国街道が通っている。
信長は4つの城で琵琶湖の水運を押さえたといい、「安土城(信長)」「坂本城(光秀)」「長浜城(秀吉)」「大溝城(織田信澄)」が配置されていた。
それぞれ琵琶湖や内湖を利用した城となっており、信長が交通と水運を重要視して主要な人物を城主に充てていたことが分かります。
坂本城址公園は本丸のあった場所より少し南になりますが、石碑や説明板と共に明智光秀の像が立てられていました。