江戸期、文政8年(1825)の芸藩通誌には福島社について「里俗福島明神と称す、何神なるを知らず、藩公子白杏君、おもへらく、貞観の節婦、榎本福佐売を祭るならんと、頼惟柔に、其ことを記しめ給ふ・・・」とあり、広島藩主浅野慶熾の弟浅野長懋の下問により福佐売神社と称されるようになったようである。これにより昨日紹介した西国街道からの参道が築造されたものとみられる。
江戸期、文政8年(1825)の芸藩通誌には福島社について「里俗福島明神と称す、何神なるを知らず、藩公子白杏君、おもへらく、貞観の節婦、榎本福佐売を祭るならんと、頼惟柔に、其ことを記しめ給ふ・・・」とあり、広島藩主浅野慶熾の弟浅野長懋の下問により福佐売神社と称されるようになったようである。これにより昨日紹介した西国街道からの参道が築造されたものとみられる。