旧市域にあるマンホール蓋は地御前牡蠣をデザインしたものが多いが、市の木桜の花びらをデザインしたものもある。また、県の広島西部地域水道用供給事業のマンホール蓋は県の木モミジを配したデザインである。
おまけに韓国でのマンホール蓋のデザイン4点。
上平良二重原地区から野貝原山まで間の山字は城ケ谷であり、中世折敷畑山合戦があった時代に関係する地名のようである。この近くには小字城趾ケ谷がみられ242m峰山頂部に平地がみられることからここに陣地が設けられていたものとみられる。
城趾ケ谷の周辺には死人ケ原、小角ケ谷(コズミガ谷)の小字がみられる。宮内側にもコズミガ谷があり江戸期の地誌に「防州勢打負谷底へ切崩シ候処今ニ、コスミカ谷ト申ス」とあり、戦死者が谷底に小積みとなっていたのでこのような地名になったものとみられる。
国道433号線の極楽寺分れを過ぎて葛原方面に向っていたら車の前を一匹の猿が横切って4~5m先の木に登ってこちらの様子を窺っていた。
車を止めて2~3枚写真を撮りもっとよい画像をと少し車を動かしたら樹木の中に逃げられた。
玖島大町地区から砂谷鹿道地区に行く途中県道461号線沿いにある馬魂碑で、昭和53年(1978)砂谷愛馬会によって建立されたようである。
碑文によるとこの付近は血とり原といわれているようで、獣医によって牛馬の健康観察をするとともに過労のための悪血とりや蹄の手入れや焼き鏝で膝頭の外側を焼くなど牛馬の治療をするところであったのであろうか。
玖島大町地区にある小さな谷筋を入ると小さな池が2~3ケ所あり、その上の茂った木の枝にモリアオガエルの卵塊が数多くみられた。
ここの場所では梅雨時期のこの頃になると毎年見ることができるようであるが、池の周辺には笹や雑木が胸高まで茂っており容易に近づくことはできない。
旧筒賀村の役場庁舎で田舎の中では目立つモダンな建物で現在は安芸太田町の支所として使用されている。
昭和10年(1935)に完成したようで、玄関ポーチのアーチ型やその上部の装飾など特徴ある意匠となっている。
湯来温泉から筒賀方面に県道41号線を走っていると湯之谷温泉道、弘法大師とある大きな石碑二基みられる。
大正13年(1924)に藤本富一氏がこの奥地に湯之谷温泉を開設したようであり、40数年前に訪れた時には建物がみられたが、現在は山林化して場所がわからなくなっている。
吉水園近くの旧加計保育所で昔懐かしい石油発動機がずらりと並べてあり、煙を出しながらエンジン音を響かせていた。
昔、地域の農業実行組合で共同購入していた農業用の大型石油発動機があり各家を廻って籾摺りをしていたのを思い出した。
加計の町並みを歩いていると街灯看板に昨日紹介した吉水園の吉水亭がデザインされた洒落た街灯が設置されている。
道路にあるマンホールの蓋にはモリアオガエルがデザインされており、加計のシンボルがデザインされたものが各所にみられる。
湯来町菅沢の民家土蔵にある文字蔵飾りで今まで見たことの無いようなものであり「貨殖」と表示されていた。
今まで見たものは福・宝・寿など繁栄を願うものであったが貨殖とは財産をふやすことということでありなんとリアルな表現である。
永原地区にある新宮神社で通称杉の森神社と呼ばれ、大久保新宮神社を分祀したものと伝えられているようである。
当神社には応永16年(1409)の紀年銘がある神像一対が祀られており市の重文に指定されているようである。