昨日紹介した宮ノ串地区にある岩国市美川総合支所庁舎でなんと庁舎の周囲には玉垣がみられ、庁舎は河内神社拝殿ぎりぎりに建てられている。錦川沿いの旧美川町は平地が少なく山が迫っており、昭和30年(1955)に美川村が発足した時に河内神社の境内に庁舎が建てられたようである。
本年4月1日に美川総合支所は廃止となり美川コミュニティセンター内に美川支所が設置されるようなので、庁舎は取り除かれるかもしれない。
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廿日市と山代地方(現在の岩国市北部)との関わりは昭和時代も続いており、広電廿日市駅前から本郷経由で岩国市美川町宮ノ串地区までバスが通っていたようで、昭和18年(1943)まではマキノ自動車が運行していた。
昭和18年(1943)に広電バスに統合され、本郷~宮ノ串間は昭和23年(1948)に省営バス(後の国鉄バス)に路線譲渡したようである。ネタ切れ気味なのでこの路線のつれづれを紹介していきます。
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岩国市美川町藤ケ谷にある速田神社であるが木造の両部鳥居は倒壊、本殿も崩壊しており拝殿も長くは存続できないであろう。藤ケ谷集落はかつて10数軒あったようであるが、現在高齢者2名のみの居住であり集落消滅はさけられないであろう。
江戸期の地誌には藤ケ谷に速田社がみられ明治3年(1870)に速田神社と改称したようである。江戸期には山代地方に9ケ所の速田社がみられるので古い時代には廿日市と山代地方の関わりが深かったことが窺われる。
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岩国市美和町阿賀にある速田神社で古い時代に上平良の速田神社(現在速谷神社)が分祀され祀られたものとみられ、江戸期には6月の十七夜や御鳥喰飯神事などが記されており、厳島神社との深い関わりが窺われる。
下画像は美和歴史民俗資料館に展示してある速田神社の神輿で、江戸期の地誌に神輿三基とあるのでその内の一基とみられる。
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先日、命の洗濯のため吉賀町木部谷地区にある間歇泉で知られている木部谷温泉に行き、間歇泉をみて茶褐色の濁り湯に久しぶりに浸かった。
浴槽には茶褐色の濁り湯、浴槽縁や床には苔状の当温泉固有の緑色藻がこびりついており、潔癖性の人は濁り湯、緑色藻などをみると敬遠するかも知れない。
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山陽自動車道高架下の側道から時折紹介している長野川の架橋工事間の改良工事が始まったようである。
予定地内には工事の遣方杭が各所に設置されており、昨日から重機で田んぼの肥え土を取り除く工事が行なわれていた。
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折角の山口であるのでよく知られている瑠璃光寺を参詣した。ここ瑠璃光寺はなんと中世に当市の洞雲寺と繋がりがあったのである。
下画像の瑠璃光寺の正法眼蔵は洞雲寺に伝えられていたものであるが、享禄2年(1529)に洞雲寺から瑠璃光寺に寄進されたようである。詳細は廿日市の文化第20集を参照してください。
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昨日所要で山口市に行きいつもの放浪癖がうずき出し防府市奈美地区にある珍しい草葺き屋根の民家を訪ねた。
このような造りの民家はかつて九州地方の農家でみられたクド造りのようであり、複雑な屋根で雨仕舞いの難しい民家である。下画像はすぐ近くの民家でかつてはこのような民家があったようである。
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江戸期の西国街道は越峠垰(コイトウダオ)を通っていたが、明治期になって旧街道に変わって串戸から地御前に向う新道が建設された。新道は国道とされ幹線道路となって串戸の町並みが形成された。
串戸町並みでひと際目立つ商店の事務所建築であった建物で、玄関上のリボンレリーフが特徴的であり、また窓上縁飾りの角渦巻き文様も洒落たデザインである。
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上平良地区にある大歳神社の手水鉢で昭和15年(1940)10月に築造されているが現在は使用されていない。
この手水鉢は大きな石から長方形に加工されたものであるが、後方下部の角は加工中に誤って欠けたものだろうか。うまく目地合わせの加工をしている。
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原地区にある立善寺の鐘楼基壇は石造りで明治42年(1909)3月に築造されている。
基壇の石積み目地は綺麗に合わされており上部の縁石の見付けは薄く下面は凸アール型に加工され斬新なデザインである。角の留め部分は45度で合わされ鉄製のチギリで止められている。
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上平良地区にある休耕田であるが長年手入れを怠ったものとみられ隣接の竹薮から竹が進出して竹林になっていたようである。
竹の上部が切り取られているが竹の根が張り巡らされているので春には竹の子が出てくるのではなかろうか。
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JR山陽本線の越峠垰(コイトウダオ)掘割り部分で、線路の向う側にガイドレールが途切れて4ケ所の石段がみられるが何のために設けられているのであろうか?石段を降りても線路敷であり4ケ所もあるのは・・・
当ブログ主が七尾中学生のころ越峠垰掘割り部分は両側が山であり寂しい所で、この付近の線路で自殺が多く恐る恐る見に行ったことを思い出した。
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廿日市招魂社に「芸備銀行廿日市支店」と刻された玉垣がみられるが、芸備銀行廿日市支店は現在の広島市信用組合廿日市支店の地にあった。
昭和8年(1933)8月に下画像の芸備銀行廿日市支店が新築されており、昭和25年(1950)に広島銀行廿日市支店と改称し、その後広島市信用組合に移譲され同組合廿日市支店の新店舗新築により取り壊された。
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廿日市招魂社に「宇品造船所廿日市製作所」と刻された玉垣がみられるが、この廿日市製作所はどこにあったものであろうか。昭和16年(1941)7月28日に同製作所産業青年報国隊(隊員数108人)が結成されているのでこの頃に軍需工場として操業したものと思われる。
かつて廿日市税務署と廿日市保険所の間の広い道路入口に大きな門柱があったような気がするがここが正門であったのだろうか?
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