宮島西蓮地区を流れているドンドン川で石積みの砂防堰堤より下流域は整備された急勾配の小さな川であるが、かつては小滝の続く谷川で大雨の時にはドンドンと音を立てて流れていたのではなかろうか。
砂防堰堤の上流側には滝がみられ明治期ころには細布滝と呼ばれていたようである。
先月末、速谷神社の注連縄づくりの途中までだったが昨日拝殿の大注連縄の飾り房を取り付けるなど最後の仕上げをして拝殿前に架けた。
この他境内にある斎館、儀式殿、注連柱、境内社稲荷神社にかける大小5本の注連縄づくり、飾り房づくりなど手分けをして新年に向けての準備の手伝いをした。
上平良二重原地区の市道沿いの山斜面に築造されているブロック積みの擁壁の目地に苔が生えて緑の苔目地となっていた。
この付近の山斜面は北東向きであり日当たりがわずかなのでこのように目地に苔が繁茂したものとみられる。一昨日の中国新聞にコケの観察を20年も続けている方の記事があったがこの苔は何という種類の苔であろうか。
先日、速谷神社境内に建立されているもので一番古い石燈籠を紹介したが、これを寄進した「肥前国松浦平戸住人、谷川助左衛門尉成勝」について調べてみた。
平戸市史をみると江戸期平戸の有力町人の中に歴代または一族とみられる谷川姓のものが数多くみられ、オランダ商館商業取引者や捕鯨組主などに関わっていたようである。
谷川助左衛門は長年平戸町の町役人や町年寄などを務めていた有力町人であったが、遠く離れた地の当神社にどのような経緯で寄進したものだろうか。厳島神社に寄進された石燈籠などには同人の名は確認されていないようである。(下画像:復元オランダ商館2011.9.18撮影)(長崎県立図書館:文献教示、広島県立図書館:閲覧)
宮島紅葉谷の紅葉見物に行くのが少し遅かったようで、多宝塔に行くと紅葉ならぬ松枯れがみられた。
宮島の各所で松枯れが起きているようで経塚(清盛塚)のある経ノ尾では大きな松の木が何本か伐採されて細切れにした材木が山積みにされていた。
JR宮島フェリーの新造船である「ななうら丸」で、昭和62年(1987)2月に就航した先代の「ななうら丸」が老朽化してきたため新しく建造されたようで11月から就航しているようである。
宮島に行くときは「みやじま丸」「みせん丸」が運航していたが、帰りには「ななうら丸」「みやじま丸」が運航していた。下画像は先代の「ななうら丸」
新聞報道にもあったが宮島口地区港湾整備事業の第2工区の工事が完了して新桟橋の供用開始されている。
新桟橋は従来のJR宮島フェリー・宮島松大汽船切符売り場があるターミナルから少し離れた沖合にあるために長い連絡通路・連絡橋には仮設の上屋が設けられているが新桟橋には現在上屋はない。(下画像:広島県ホームページより)
洞雲寺の東墓地にある桜尾城々主であった桂元澄夫妻墓碑で、元澄は永禄12年(1569)7月5日に没しており墓碑(上画像)基礎には「南無阿、大江元澄、弥陀仏」と刻されている。
隣接した夫人の墓碑(下画像)は元西墓地にあったようで、墓碑基礎には「慶長弐〇丁酉、一月正輪大姉、〇〇春廿七日」と刻されており、元澄の後妻志道広良女の墓碑である。
先日、西広島バイパスの平良第2号トンネルを通っているとトンネルの各所にコンクリートがひび割れ剥離して鉄筋が露出している所もあり応急修理がしてあった。
西広島バイパスは昭和49年(1974)に開通しているので前年頃に築造されたものとみられ40数年経過している、コンクリート構築物も高齢化してきているようである。
広電宮島線架線の古レールを使用した鉄骨電柱で以前にどれもが同じ規格で作られたものでなく4タイプに加工されていると紹介したが5タイプ目の異なったものがみられた。
宮内駅近くにある架線電柱電柱で上り線側の電柱は今まで見たことがないタイプの作り方がされていた。両側の古レールのウェブ部分にガゼットプレートを溶接しアングル材をタスキ掛けに溶接したものである。
広電廿日市駅の上り線ホーム裏側の市道境と新しく出来た廿日市駅通線の踏切より東側線路用地と市道境にコンクリート製の建設省と刻された標柱が小間隔で十数本みられる。どうみても広電用地と市道(設置された当時は町道か)の境杭のように見られるのであるがなぜ建設省なのだろうか。
この標柱はコンクリート製で古い時代に設置されたようにみられるが建設省は昭和23年(1948)に建設院から改称しているのでそれ以降に設置されたもののようである。
JR廿日市駅舎工事と北口広場の工事はすでに終わって供用開始されているが、現在南口広場整備の工事が行われているようである。
既設の自転車置場は取り壊し中であろうか。街路廿日市駅通線の予定地内にはまだ建物があるが看板表示によると駅前広場整備事業の工期は来年3月末日のようである。
速谷神社の儀式殿前にある石燈籠で刻銘によると萬治3年(1660)に奉納されており境内に建立されている石燈籠の内で一番古いものである。
江戸期に奉納された石燈籠はすべて地元の住人によるものであるが、この石燈籠は刻銘に「肥前国松浦平戸住人、谷川助左衛門尉成勝」とあり、遠く離れた地の住人がどのような経緯で当神社に寄進したものであろうか。