原地区にある伊勢神社はウォーキングコース途中にあるので度々参詣しているところである。境内に建立されている狛犬は大正11年(1922)1月に寄進建立されている。口を開けている阿形の狛犬の顔面から前足にかけて角ばって彫られているのが特徴的である。本殿前の狛犬は玉を抱いたもので昭和8年(1933)3月に寄進建立されている。
原地区にある伊勢神社はウォーキングコース途中にあるので度々参詣しているところである。境内に建立されている狛犬は大正11年(1922)1月に寄進建立されている。口を開けている阿形の狛犬の顔面から前足にかけて角ばって彫られているのが特徴的である。本殿前の狛犬は玉を抱いたもので昭和8年(1933)3月に寄進建立されている。
原地区にある民家土蔵の蔵飾りで、旭日と長寿の象徴である霊亀の像が彩色漆喰細工で表されているものが国実地区と川末地区にみられる。下画像は同じような題材のものが安芸太田町筒賀地区でみられた。
江戸期、文政8年(1825)の芸藩通誌には福島社について「里俗福島明神と称す、何神なるを知らず、藩公子白杏君、おもへらく、貞観の節婦、榎本福佐売を祭るならんと、頼惟柔に、其ことを記しめ給ふ・・・」とあり、広島藩主浅野慶熾の弟浅野長懋の下問により福佐売神社と称されるようになったようである。これにより昨日紹介した西国街道からの参道が築造されたものとみられる。
原地区にある広島新四国八十八カ所の第六番霊場である国実山妙恵院・大心寺で、昭和55年(1980)頃の第六番霊場は上平良地区にある平楽寺であったがいつの時代かに変わったようである。広島新四国八十八カ所霊場は大正7年(1918)に開創されたようで、昭和48年(1973)に弘法大師御誕生1200年を記念して復活再興されたようである。
地御前2丁目の旧国道脇に建立されている壱里標で広島市の元安橋東詰めにある里程元標から4里(約15.71km)の里程標で、明治18年(1885)に建立されている。地御前市民センター前の三差路角には「右広島道」と刻された道しるべ碑があり、明治9年(1876)に建立されている。
厳島神社社殿、大願寺、多宝塔などの歴史的建造物群の中にある宝物館は伝統的な木造建築を模した鉄骨鉄筋コンクリート造りの建物である。この宝物館は多くの社寺建築の設計を手掛けた大江新太郎の設計、清水組の施工で昭和9年(1934)に竣工している。この宝物館の各所に昭和初期の建築手法や工法などが伺える貴重な建物である。 「広島県の近代化遺産に詳述」
厳島神社の客神社本殿北側で千畳閣下にある一風変わった龍宮造のような文庫は寛政8年(1796)に柱立てをしたようで、名山蔵とも云われて和漢の書籍を蔵していたようである。内部には奥壁に壇を設けて孔子像を祀っていたようで景教との関係をも感じさせる建物とされているようである。
厳島神社社務所の道路向かいにある三翁神社は明治元年(1868)の神仏分離令以前は三王社(山王社)と言われていたようである。当社の鳥居はあまり見たことがないような木鳥居に銅板を張り付けたものであろうか、天保13年(1842)の厳島図会にも継ぎ目のある鳥居がみられる。江戸時代の後半のある時期に銅板張りの鳥居が再建されたものであろうとされており、明治30年(1897)に鳥居上部の島木が修繕されているようである。
厳島神社社殿の後方で御手洗川沿いに校倉造の宝蔵がある。校倉造というと正倉院を思い出すが、校倉造は全国で31棟あり、県内には府中町の多家神社宝蔵と三次市の熊野神社宝蔵があるようである。壁体を形成する横架材を校子というようで、厳島神社宝蔵の校子は不等辺五角形のようである。
先日、知人から明治時代に日本でタイルが作られ始めた頃の陶製タイル2枚を貰った。(上画像)日本のタイルの源流で、明治時代に焼き物産地である愛知県瀬戸で焼かれたようで、大きさは24cm×24cmで厚みは2cm位の大きなものである。後に西洋から導入された新たなタイル製造法による硬質陶器タイルとなって本業敷瓦は無くなったが、現在レトロな復刻本業敷瓦が製造されているようである。下画像は以前から所持していた本業敷瓦である。