hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

五木寛之「ふりむかせる女たち」を読む

2009年09月09日 | 読書2
五木寛之著「ふりむかせる女たち-忘れえぬ女性(ひと)たち」角川文庫9559、五木寛之自選文庫(エッセイシリーズ)、1995年1月発行を読んだ。
もともとは「ベル」という雑誌に連載されたエッセイで、「忘れえぬ女性(ひと)たち」という題名で1998年10月に集英社文庫から刊行されたものだ。

五木寛之がまだ「青年のしっぽをくっつけていた頃」、外国で出会った印象的な女性達について述べた24章からなる。いずれの女性も、厳しい環境の中で、せつないほど凛としていて、魅力的だ。おかしな表現かもしれないが、”矜持”があると言いたい女性が多い。
5枚の写真がはさまれているが、若々しい五木さんがかっこよい。


「マンハッタンの雪の夜に」
・・・いきなり受話器を宙に投げるようにしてカッカッとヒールをならしてその場を離れてゆくフェイ(・ダナウェイ)の後ろ姿には、指を触れれば地がしたたりそうな鋭い切れ味が感じられました。
 あんなふうに鋭角的な歩き方のできる女性は、おそらくアメリカ、それもニューヨークの女性だけにちがいない、と、思わせられるシーンでした。


私も、今からちょうど20年前にニューヨークへ出張したとき、朝の通勤時の女性の大股でかっ歩する姿にビビッタものでだった。おまけに、すれ違うときの強烈な香水の香りに参ったのを思い出した。


もう一つ、ニューヨークの地下のレストランのカウンターで隣り合わせた老婦人の話が印象的だ。彼女は、「私も作家なのよ。・・・まだ一冊の本も出版してないけど・・・」「子どもたちが大学を出て、それぞれちゃんと独立してやって行けるようになったもんだから、それから書きはじめたのよ」・・・「さあ、そろそろ帰ってタイプを打たなきゃ。夜おそくまで寒い部屋で仕事を続けるのって、いい気持ちね。作家であることの充実感をおぼえて、人生ってすばらしいわ、とつぶやいたりするの。だって、わたしには目標があるし、それに向かって努力する力がまだ残っているんですもの」と言う。そして、五木さんは書く。
まだ一冊の本も出していないけど、自分は作家なのだ、と、何のためらいも、てらいもなく言い切るその老婦人に、ぼくはアメリカ人の或る良き一面をかいま見せられたような気がしたものです。
彼女がその後、どんなふうに働いているかはしりません、でも、雪の晩、かじかむ指に息を吐きかけながらタイプを打ちつづける老無名作家のイメージは、ぼくを勇気づけ、もっとがんばらなくては、と、自分に言いきかせる力を持っているのです。彼女はいまごろ、どんな物語を書いているのでしょうか。



「チボリの夜」
ベルリン生まれのリリー・マルレーンの歌で有名な女優マレーネ・ディートリッヒはナチスに反発し、アメリカへ渡たり、ナチス・ドイツと戦う連合軍兵士を慰問したのでドイツでは裏切り者扱いされた。
五木寛之がコペンハーゲンで、彼女のショーを最前列で見た。ディートリッヒが反戦フォークソング「花はどこへ行った」をドイツ語で歌った。歌い終わると、彼女は頭をたれてスポットの中で動かない。不気味な短い沈黙の後、すすり泣きの声があちこちで起こる。そして、次第に大波のような拍手に変わる。
沈黙の時のおびえた十代の少女のようなディートリッヒの顔に、その時走ったよろこびの色を五木さんは忘れなれないという。



この本の原題「忘れえぬ女性」は、ロシアの画家クラムスコイの名作絵画「忘れえぬ女」を思い出させる。馬車の上から冷たく、傲慢な顔で見下ろす謎めいた女性を描いた絵で、いかにも五木さんがすきそうな絵だ。



五木寛之は、1932年9月、福岡県生まれ、旧姓松延。生後まもなく朝鮮に渡り、1947年に終戦のため日本へ引揚げる。早稲田大学第一文学部露文学科に入学し、中退。放送作家、作詞家などで活躍。1965年の岡玲子と結婚し、五木姓を名乗る。ソ連・北欧へ新婚旅行に行く。1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、1967年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、1976年「青春の門・筑豊編」で吉川英治賞、2002年菊池寛賞、2004年仏教伝道文化賞を受賞。
なお、五木玲子は露文科の同窓生だが、後に医師となった。近年、版画を製作し、「他力」など五木寛之の作品の挿画として用いられているほか、自身の作品も刊行している。



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

私は、五木寛之の本は好きでいくつか読んだが、最近は、仏教関係の人生訓じみた話が多く、敬遠ぎみだ。しかし、この本は昔の本だから、かってのかっこよい五木寛之が読める。昔の五木さんを読んだことのある人はもちろん、「単なるおじいさんだな」と思っている若い人にも、外国へ行くことは想像もできなかった時代だということを心得たうえで、読んでみて欲しい。
それにしても、当時は、ロシア、東欧、北欧の情報はほとんど入ってこなかった。それだけでも新鮮なのに、そこでかっこよく振る舞う五木さんにはあこがれたものだ。

「ハンブルグの陶器店で」
外国へ出ると、とたんに見栄っぱりになるのは、やはり育ちからくる貧乏性なのでしょうか。マイセンは高いんだぞ、と、おどかすように言われると、つい高いがどうした、と前後の見境なく反発するのは、恥ずかしい限りです。
 結局、ぼくはそのコーヒー・カップを持って店を出る破目になってしまいました。・・・トラベラーズチェックはすっかり薄っぺらになり、旅の前途は不安に満ちたものとなってしまいました。


これもよくわかります。恐縮ですが、私も五木さんと同じです。貧乏性なのが、光栄に思えます。


「バルセロナの大和撫子」で、五木さんは言う。
ぼくは日本人として、すばらしい日本女性が次々と異国の男性にされわれてゆくのを、心やすらかに手をこまねいて見ている気はしません、そういう時は、なぜか急に愛国者になってしまうのです。



2008年3月16日のこのブログ「フリーマントルへ」で私も書いている。


それにしても、いつも思うが、素敵な日本女性はみんな外人さんにもっていかれてしまう。なんとかならないものか。私は一人だけ確保しているが、それ以上は無理なのだ。
「日本人女性のパートナーを見ると、2タイプのどちらかだ。一つはやさしいが、お金を稼げない人。もう一つは、お金は稼ぐが、厳しい人だ」と言っていた人がいた。中庸の日本人男性が一番です。


コメント
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