麻布十番にあるお寺に墓参りに行った。我が家のお寺については、2007年1月24日のこのブログ「墓参りへ」に、山の上の木々に囲まれた静かなお寺だったのが、周辺のビルで景観が台無しになったことを書いた。
蛇足だが、私の墓への思いは、2006年8月25日のこのブログ「自らの死に方と残された家族の思い」に書いた。
3年以上ブログを続けていると、たいていのことは、ブログ内検索してみると、なんのかの形で既に書いてあることが多い。考えが狭い範囲に限られていることをあらためてはっきり知らされて落ち込む。
墓参りの後、麻布十番大通りの、もともと魚屋という魚可津で昼飯とした。
金目鯛の煮付け定食が1000円は安い。金目鯛は厚みがあって、スーパーでも一切れ500円でも買えないだろう。この店は初めてだが、気に入った、安くて上手い。
帰り道は、相変わらず人気の豆源本店前を通り、
最近とんとご無沙汰の、創業210年の永坂更科を素通りする。この店は、だいぶ前に元祖更科を標榜していて、近くの店から裁判を起こされて、結局元祖であることの証明ができなかったのだろう、総本家と明記している。美味しいが、少なくて高い。
吉祥寺に戻ると、駐輪場が長蛇の列。吉祥寺は自転車の街なのだ。
以下、麻布十番商店街HPの「赤い靴の女の子 きみちゃん」より抜粋して書く。2007年2月3日のこのブログ「日本の歌百選+赤い靴の女の子の話」に書いたものとほぼ同じ。
当時北海道テレビ記者だった菊地寛さんが「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めた。
母「岩崎かよ」は再婚相手の鈴木志郎と北海道の開拓地へ入植するが、厳しい環境から当時3歳の岩崎きみちゃんをやむなくアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出す。鈴木志郎は結局札幌の小さな新聞社に職を見つけ、野口雨情と知り合う。ちょうど幼子を亡くした野口雨情は、岩崎かよから女の子を外人の養女に出した話を聞き、「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」と話した。ここから、赤い靴の女の子の歌が生まれた。後年、母「かよ」は、赤い靴の歌をよく歌っていたという。
しかし、きみちゃんは船に乗らなかった。ヒュエット夫妻の帰国時、きみちゃんは結核に冒され、長い船旅が出来ず、麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院に預けられた。そして、明治44年9月15日の夜、幸薄い9歳の生涯を閉じた。せつない話だが、母は最後まできみちゃんは外国で幸せにくらしていると信じていたことがせめてもの救だ。
1989年2月麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てた。像が出来たその日の夕方、誰かがきみちゃんの足元に18円を置いた。以来、1円、5円、10円という小さな浄財の積み立ては、毎年世界の恵まれない子ども達のために全額ユニセフに寄付され、2009年3月までで1千万円を越した。
蛇足だが、私の墓への思いは、2006年8月25日のこのブログ「自らの死に方と残された家族の思い」に書いた。
3年以上ブログを続けていると、たいていのことは、ブログ内検索してみると、なんのかの形で既に書いてあることが多い。考えが狭い範囲に限られていることをあらためてはっきり知らされて落ち込む。
墓参りの後、麻布十番大通りの、もともと魚屋という魚可津で昼飯とした。
金目鯛の煮付け定食が1000円は安い。金目鯛は厚みがあって、スーパーでも一切れ500円でも買えないだろう。この店は初めてだが、気に入った、安くて上手い。
帰り道は、相変わらず人気の豆源本店前を通り、
最近とんとご無沙汰の、創業210年の永坂更科を素通りする。この店は、だいぶ前に元祖更科を標榜していて、近くの店から裁判を起こされて、結局元祖であることの証明ができなかったのだろう、総本家と明記している。美味しいが、少なくて高い。
吉祥寺に戻ると、駐輪場が長蛇の列。吉祥寺は自転車の街なのだ。
以下、麻布十番商店街HPの「赤い靴の女の子 きみちゃん」より抜粋して書く。2007年2月3日のこのブログ「日本の歌百選+赤い靴の女の子の話」に書いたものとほぼ同じ。
当時北海道テレビ記者だった菊地寛さんが「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めた。
母「岩崎かよ」は再婚相手の鈴木志郎と北海道の開拓地へ入植するが、厳しい環境から当時3歳の岩崎きみちゃんをやむなくアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出す。鈴木志郎は結局札幌の小さな新聞社に職を見つけ、野口雨情と知り合う。ちょうど幼子を亡くした野口雨情は、岩崎かよから女の子を外人の養女に出した話を聞き、「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」と話した。ここから、赤い靴の女の子の歌が生まれた。後年、母「かよ」は、赤い靴の歌をよく歌っていたという。
しかし、きみちゃんは船に乗らなかった。ヒュエット夫妻の帰国時、きみちゃんは結核に冒され、長い船旅が出来ず、麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院に預けられた。そして、明治44年9月15日の夜、幸薄い9歳の生涯を閉じた。せつない話だが、母は最後まできみちゃんは外国で幸せにくらしていると信じていたことがせめてもの救だ。
1989年2月麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てた。像が出来たその日の夕方、誰かがきみちゃんの足元に18円を置いた。以来、1円、5円、10円という小さな浄財の積み立ては、毎年世界の恵まれない子ども達のために全額ユニセフに寄付され、2009年3月までで1千万円を越した。