大井玄著『「痴呆老人」は何を見ているか』新潮新書248、2008年1月、新潮社発行、を読んだ。現在「痴呆」の代わりに「認知症」の語が使われるが、著者はあえて「痴呆」の言葉を残している。
著者の調査結果によると、
そこで、著者は、
「ぼけ」は知力低下ではなく、周囲の人々とうまく「つながり」を保つことができない不安やストレスによって引き起こる「うつ状態」が表面化したものだと述べる。
痴呆は老化による記憶障害に始まる。
「外界で見るもの、聞くもの、触れるものが現実を構成している、とヒトは考えている。だが、脳は、その知覚することを過去の経験に基づいて組み立てている」
言葉と記憶の機能が衰えることにより、世界とのつながりが失われて行く。それによる不安が「情報」よりも「情動」の優位を招き、見た目の痴呆を起こす。つながりを求めて、過去の幸福な時代の記憶に逃げることで安心する。それが、はためからは、とんでもなくボケてしまったようにみえる。
偽会話は論理的に意味がなくとも、情動的には有意義だ。
「偽会話」だが、楽しい情動の共有は心理的効果が大きいという。確かに、コミュニケーションとは何かということを考えさせられる。「コンニチハ」は意味ないが、効果は大きい。「理解する」は必ずしも大切ではない、むしろ積極的に理解せず、やさしい声音でうなずく方が良い。
後半に入ってくると、哲学的になり、仏教の「唯識」、「アーラヤ識」「マナ識」などで深層意識を説明する。(私には理解不能)
さらに、アメリカ型自立個人主義に転換しつつある日本は、地域や家族のつながりが絶たれた高齢者には辛い社会になってきているなどの指摘がある。
大井玄(おおい・げん)
1935年生まれ。東京大学名誉教授。東大医学部卒業後、ハーバード大学公衆衛生大学院修了。
東大医学部教授などを経て国立環境研究所所長を務めた。
近著に本書のほか、『環境世界と自己の系譜』など。
現在も臨床医として終末期医療全般に取り組む。
エッセイ:医療法人「和楽会」の大井玄先生のコーナー
私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)
冷静に、そして十二分の愛情を持って、ケアの立場から認知症の人の考え方、原因を追求している。
認知能力の衰えていない人(一応、正常な人とする、私はもはや自信がないが)から見た世界が正確で正しくので、認知症の人に、あなたは間違っていると指摘してはならないという。確かに、正常な人でも、個人個人でとらえる世界は異なっており、どれが正しい世界だと決め付けることはできない。程度こそ違え、その意味では認知症の人も同じで、多くの人の認識とずれがあり生活上の不便があるだけなのだから、人格を否定するようなことを言ってはならない。かえって混乱を深めてしまう。
著者の大井玄氏は東大医学部卒・ハーバード大学大学院修了のエリート医師で、帰国後、アルバイトで長野県佐久市の「ぼけ老人・寝たきり老人」の宅診に関わるようになる。悲惨な痴呆老人たちと出会い、決して治せない無力感に襲われ、自信を失い、急性の抑うつ反応を起こしている自分を見い出す。8年間のアメリカ留学で確立した競争主義的な自己アイデンティティや能力主義的な世界観が激しく揺さぶられる。
しかし、「先生にきてもらって調子がよくなった」という患者の存在によって救われ、医療のあり方に目覚めて自ら癒された。
目次
はじめに
第一章 わたしと認知症
なぜ怖がられるのか/ぼけと「痴呆」/佐久平での宅診/急性抑うつ反応/「申し訳なさ」と癒し/精神症状と人間関係
第二章 「痴呆」と文化差
異質なものへのラベル/沖縄の「純粋痴呆」/世間的イメージの誤解/「一水四見」という文化差/「生かされる」と「生かされている」だけ/アメリカ人にとっての自立性喪失
第三章 コミュニケーションという方法論
ゲラダヒヒの平和社会/偽会話となじみの仲間/「理解する」は大事ではない/笑顔はなぜ大切か/ブッシュ大統領の「痴呆老人」的反応/個人史をたずねる/体の位置と敬語/相手の世界へのパスワード
第四章 環境と認識をめぐって
彼らの原則/環境と環境世界/見ているもの、ではなく、見たいもの/コトバで世界を形成している/最小苦痛の原則/「思いこみ」を支える深層意識/思いが生む虚構現実/現実を構成する経験/現実は「事物」でなく「意味」/外向きの世界仮構
第五章 「私」とは何か
二つの「私」/《Me》と「Mine」/《私》と目先の利益/がん患者と無常の自覚/「私」を統合する/自己とは記憶である/「つながり」への情動/『蜘蛛の糸』の不安/ほどけていく「私」
第六章 「私」の人格
相手の数だけ人格がある/『24人のビリー・ミリガン』/社会病理を映す多重人格/生きるための言語ゲーム/若返り現象/住みやすい過去へ/暴流のようなエネルギー/「いのちが私をしている」/実体的自我は存在しない
第七章 現代の社会と生存戦略
生命と年齢の関数/長く伸びたグレイゾーン/上手なつながり/「病気」の増殖/苦痛を病気化してしまう/自由と不安/言語習得の心理ステップ/日本特有のひきこもり/失神するほどの無力感/自分vs.世界/自立とつながりの自己/甘える理由/生存戦略の大転換のなかで/キレる理由/自立社会の呻き声
最終章 日本人の「私」
つながりの心性/班田収授の精神/江戸の循環型社会/強権と個人的自由/心と私心/「自己卑下」と先祖の智恵
参考文献・註記
おわりに
著者の調査結果によると、
「ぼけ老人」の約20%は正常か軽度の知力低下があるだけで、大部分の方は「うつ状態」と思われました。逆に「正常老人」の10%近くで、中程度から重度の知力低下が見られた。
そこで、著者は、
「ぼけ老人」は老人自身の問題というより、周囲との関係による場合が多いようです。意地悪な人間関係の下では「ぼけ老人」は早々に発生するが、温かく寛容な人間関係では、知力が相当低下しても「ぼけ」とは認知されにくくなる。
「ぼけ」は知力低下ではなく、周囲の人々とうまく「つながり」を保つことができない不安やストレスによって引き起こる「うつ状態」が表面化したものだと述べる。
痴呆は老化による記憶障害に始まる。
なにしろ直前の記憶が失われる、あるはずの物がない、ないはずの物がある、やったことをやってないと言われ、やってないことをやったと責められるのです。そこでまず生ずる情動は不安といらだちの混じったもので、すぐ怒りや悲しいにも転じます。
「外界で見るもの、聞くもの、触れるものが現実を構成している、とヒトは考えている。だが、脳は、その知覚することを過去の経験に基づいて組み立てている」
言葉と記憶の機能が衰えることにより、世界とのつながりが失われて行く。それによる不安が「情報」よりも「情動」の優位を招き、見た目の痴呆を起こす。つながりを求めて、過去の幸福な時代の記憶に逃げることで安心する。それが、はためからは、とんでもなくボケてしまったようにみえる。
偽会話は論理的に意味がなくとも、情動的には有意義だ。
「主人なんてやっかいなもんです。でもいないと困るし・・・」
「そうそう、うちの息子が公認会計士になりましたんで忙しくてね」
「あら、いいじゃないとっても。浴衣を着ればステキにみえるよ」
「〇〇さん辛かったろうに。いつも△△さんって言ってましたよ」
話は快調に進んでいるようでも論理のつながりはなく、・・・。
「そうそう、うちの息子が公認会計士になりましたんで忙しくてね」
「あら、いいじゃないとっても。浴衣を着ればステキにみえるよ」
「〇〇さん辛かったろうに。いつも△△さんって言ってましたよ」
話は快調に進んでいるようでも論理のつながりはなく、・・・。
「偽会話」だが、楽しい情動の共有は心理的効果が大きいという。確かに、コミュニケーションとは何かということを考えさせられる。「コンニチハ」は意味ないが、効果は大きい。「理解する」は必ずしも大切ではない、むしろ積極的に理解せず、やさしい声音でうなずく方が良い。
後半に入ってくると、哲学的になり、仏教の「唯識」、「アーラヤ識」「マナ識」などで深層意識を説明する。(私には理解不能)
さらに、アメリカ型自立個人主義に転換しつつある日本は、地域や家族のつながりが絶たれた高齢者には辛い社会になってきているなどの指摘がある。
大井玄(おおい・げん)
1935年生まれ。東京大学名誉教授。東大医学部卒業後、ハーバード大学公衆衛生大学院修了。
東大医学部教授などを経て国立環境研究所所長を務めた。
近著に本書のほか、『環境世界と自己の系譜』など。
現在も臨床医として終末期医療全般に取り組む。
エッセイ:医療法人「和楽会」の大井玄先生のコーナー
私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)
冷静に、そして十二分の愛情を持って、ケアの立場から認知症の人の考え方、原因を追求している。
認知能力の衰えていない人(一応、正常な人とする、私はもはや自信がないが)から見た世界が正確で正しくので、認知症の人に、あなたは間違っていると指摘してはならないという。確かに、正常な人でも、個人個人でとらえる世界は異なっており、どれが正しい世界だと決め付けることはできない。程度こそ違え、その意味では認知症の人も同じで、多くの人の認識とずれがあり生活上の不便があるだけなのだから、人格を否定するようなことを言ってはならない。かえって混乱を深めてしまう。
著者の大井玄氏は東大医学部卒・ハーバード大学大学院修了のエリート医師で、帰国後、アルバイトで長野県佐久市の「ぼけ老人・寝たきり老人」の宅診に関わるようになる。悲惨な痴呆老人たちと出会い、決して治せない無力感に襲われ、自信を失い、急性の抑うつ反応を起こしている自分を見い出す。8年間のアメリカ留学で確立した競争主義的な自己アイデンティティや能力主義的な世界観が激しく揺さぶられる。
しかし、「先生にきてもらって調子がよくなった」という患者の存在によって救われ、医療のあり方に目覚めて自ら癒された。
目次
はじめに
第一章 わたしと認知症
なぜ怖がられるのか/ぼけと「痴呆」/佐久平での宅診/急性抑うつ反応/「申し訳なさ」と癒し/精神症状と人間関係
第二章 「痴呆」と文化差
異質なものへのラベル/沖縄の「純粋痴呆」/世間的イメージの誤解/「一水四見」という文化差/「生かされる」と「生かされている」だけ/アメリカ人にとっての自立性喪失
第三章 コミュニケーションという方法論
ゲラダヒヒの平和社会/偽会話となじみの仲間/「理解する」は大事ではない/笑顔はなぜ大切か/ブッシュ大統領の「痴呆老人」的反応/個人史をたずねる/体の位置と敬語/相手の世界へのパスワード
第四章 環境と認識をめぐって
彼らの原則/環境と環境世界/見ているもの、ではなく、見たいもの/コトバで世界を形成している/最小苦痛の原則/「思いこみ」を支える深層意識/思いが生む虚構現実/現実を構成する経験/現実は「事物」でなく「意味」/外向きの世界仮構
第五章 「私」とは何か
二つの「私」/《Me》と「Mine」/《私》と目先の利益/がん患者と無常の自覚/「私」を統合する/自己とは記憶である/「つながり」への情動/『蜘蛛の糸』の不安/ほどけていく「私」
第六章 「私」の人格
相手の数だけ人格がある/『24人のビリー・ミリガン』/社会病理を映す多重人格/生きるための言語ゲーム/若返り現象/住みやすい過去へ/暴流のようなエネルギー/「いのちが私をしている」/実体的自我は存在しない
第七章 現代の社会と生存戦略
生命と年齢の関数/長く伸びたグレイゾーン/上手なつながり/「病気」の増殖/苦痛を病気化してしまう/自由と不安/言語習得の心理ステップ/日本特有のひきこもり/失神するほどの無力感/自分vs.世界/自立とつながりの自己/甘える理由/生存戦略の大転換のなかで/キレる理由/自立社会の呻き声
最終章 日本人の「私」
つながりの心性/班田収授の精神/江戸の循環型社会/強権と個人的自由/心と私心/「自己卑下」と先祖の智恵
参考文献・註記
おわりに