森於菟(もり・おと)著『父親としての森鴎外』ちくま文庫、1993年9月、筑摩書房発行を読んだ。
鴎外の長男でありながら、先妻の子であった森於菟は、後妻の茂子からうとまれ、祖母によって育てられる。寂しい育ち方をし、厳しい祖母に、中学を2年早く卒業するなど鴎外と同じように英才教育を強いられた。しかし、後に日本の解剖学の権威となるなど能力も高かったのだろうが、温厚な人柄で、偉大な鴎外に比べ常に自己を卑下して書いている。
その於菟が折に触れて書いた人間としての鴎外と、嫁姑をはじめ鴎外一家の争いの記録だ。鴎外は、家族を子供扱いしながらも、時に都合よく避けたり、思いやりを持ったりして接している。
100年以上前の時代なので、家長の立場は現代とはまったく違っているが、ヒステリックな後妻を愛しながら、なんとかやり手の母や、先妻の子、於菟と生活を共にするのに苦労する鴎外の日常が浮かび上がる。そのなかで、軍医として最高位に上り詰め、その上、数多くの偉大な文学上の実績を残し、徹底的論争にも参加した鴎外はまさに偉人だ。
鴎外の住む観潮楼に集まる人々が凄い。佐々木信綱、上田敏、小山内薫、与謝野寛、晶子、北原白秋、吉井勇、石川啄木、木下杢太郎、伊藤左千夫、斎藤茂吉、永井荷風などの名前がある。鴎外が傑出していて、しかもこのときまさに文学が興隆する時代だったためだろうか。現在、どこかの誰かのところに、100年後にこれほど世に知られた人々が集まっていたと驚嘆されることがあるとは思えない。
一方では、この本にも書かれているが、ドイツ留学中の彼女が日本まで追いかけて来た話や、先妻と離婚後に人に知られることなく愛人とも言える女性を持っていたことや、さらにこの本には出てこないが、小倉時代にも女性がいて、いずれの女性とも、東京へ帰るとき、あるいは後妻、茂子との結婚の際に、見事に人知れず面倒も起こさず別れていることなどから、時代が違うとはいえ、鴎外の人柄に反感を持つ人もいるだろう。著者は、「あの時代に生きた知性も教養も低く、まず一通り善良で相当に美しい気の毒な人なのである」と言っているが、ウーマンリブの時代を超えた我々には、違和感があり、遠い世界の話のように感じる。
森於菟(もり・おと)
1889年東京生まれ。母は鴎外の先妻・赤松登志子。
1913年東大医学部卒業。1918年東大理学部卒業。
台湾・台北大学医学部長を経て、1967年死去
初出:1969年12月筑摩叢書159として刊行
私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)
特に鴎外に興味のある人にはおすすめだが、なにしろ100年ほど前の家庭の人間関係を、70年近く前に思い出して書いたものなので、時代感覚についていけない人も多いだろう。色々な機会に少しずつ思い出して書いたものを集めているので、同じ話が何回も出てきたりして、全体としてもまとまりに欠ける。
しかし、あの偉大な鴎外が、家族問題で悩み、苦労しているのを具体的事例で実感できるのは面白い。嫁姑のいずれの悪口もけして口にせず、したがって、どちらからもよく思われず、最後には敷地内別居を図るなど苦労がにじみ出ている。成人した於菟とも勤め先で会うようにしていたのが、後妻にバレて、しばらくおとなしくしていると於菟になげくなど、これが鴎外かと思ってしまう。一方では、そんな境遇を本当はなんとも思わず、楽しんでいるようにも見えるのだが。
私個人としては、鴎外ファンであるうえ、「観潮楼」に思い出があり部分的に楽しく読んだ。私が生まれたのは本書中に散見される谷中三崎町あたりのようであるが、3歳になるかならぬかで引っ越してしまい、記憶にはない。小学生になってから観潮楼のある団子坂上の知人の家に良く行った。なにやら話し込んでいる家人を置いて、近くをぶらつき、道路の向こう側の偉い文学者の家だったという観潮楼をよく覗き込んだことを覚えている。数年前、約60年ぶりに、谷中や団子坂上を訪ねてみたが、様変わりしていることもあり、記憶と結びつかなかった。ただ、あんなに急で上からみると怖いと思った団子坂がそれほどの坂ではないことが解った。ただし、登ると息は切れた。
鴎外の長男でありながら、先妻の子であった森於菟は、後妻の茂子からうとまれ、祖母によって育てられる。寂しい育ち方をし、厳しい祖母に、中学を2年早く卒業するなど鴎外と同じように英才教育を強いられた。しかし、後に日本の解剖学の権威となるなど能力も高かったのだろうが、温厚な人柄で、偉大な鴎外に比べ常に自己を卑下して書いている。
その於菟が折に触れて書いた人間としての鴎外と、嫁姑をはじめ鴎外一家の争いの記録だ。鴎外は、家族を子供扱いしながらも、時に都合よく避けたり、思いやりを持ったりして接している。
100年以上前の時代なので、家長の立場は現代とはまったく違っているが、ヒステリックな後妻を愛しながら、なんとかやり手の母や、先妻の子、於菟と生活を共にするのに苦労する鴎外の日常が浮かび上がる。そのなかで、軍医として最高位に上り詰め、その上、数多くの偉大な文学上の実績を残し、徹底的論争にも参加した鴎外はまさに偉人だ。
鴎外の住む観潮楼に集まる人々が凄い。佐々木信綱、上田敏、小山内薫、与謝野寛、晶子、北原白秋、吉井勇、石川啄木、木下杢太郎、伊藤左千夫、斎藤茂吉、永井荷風などの名前がある。鴎外が傑出していて、しかもこのときまさに文学が興隆する時代だったためだろうか。現在、どこかの誰かのところに、100年後にこれほど世に知られた人々が集まっていたと驚嘆されることがあるとは思えない。
一方では、この本にも書かれているが、ドイツ留学中の彼女が日本まで追いかけて来た話や、先妻と離婚後に人に知られることなく愛人とも言える女性を持っていたことや、さらにこの本には出てこないが、小倉時代にも女性がいて、いずれの女性とも、東京へ帰るとき、あるいは後妻、茂子との結婚の際に、見事に人知れず面倒も起こさず別れていることなどから、時代が違うとはいえ、鴎外の人柄に反感を持つ人もいるだろう。著者は、「あの時代に生きた知性も教養も低く、まず一通り善良で相当に美しい気の毒な人なのである」と言っているが、ウーマンリブの時代を超えた我々には、違和感があり、遠い世界の話のように感じる。
森於菟(もり・おと)
1889年東京生まれ。母は鴎外の先妻・赤松登志子。
1913年東大医学部卒業。1918年東大理学部卒業。
台湾・台北大学医学部長を経て、1967年死去
初出:1969年12月筑摩叢書159として刊行
私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)
特に鴎外に興味のある人にはおすすめだが、なにしろ100年ほど前の家庭の人間関係を、70年近く前に思い出して書いたものなので、時代感覚についていけない人も多いだろう。色々な機会に少しずつ思い出して書いたものを集めているので、同じ話が何回も出てきたりして、全体としてもまとまりに欠ける。
しかし、あの偉大な鴎外が、家族問題で悩み、苦労しているのを具体的事例で実感できるのは面白い。嫁姑のいずれの悪口もけして口にせず、したがって、どちらからもよく思われず、最後には敷地内別居を図るなど苦労がにじみ出ている。成人した於菟とも勤め先で会うようにしていたのが、後妻にバレて、しばらくおとなしくしていると於菟になげくなど、これが鴎外かと思ってしまう。一方では、そんな境遇を本当はなんとも思わず、楽しんでいるようにも見えるのだが。
私個人としては、鴎外ファンであるうえ、「観潮楼」に思い出があり部分的に楽しく読んだ。私が生まれたのは本書中に散見される谷中三崎町あたりのようであるが、3歳になるかならぬかで引っ越してしまい、記憶にはない。小学生になってから観潮楼のある団子坂上の知人の家に良く行った。なにやら話し込んでいる家人を置いて、近くをぶらつき、道路の向こう側の偉い文学者の家だったという観潮楼をよく覗き込んだことを覚えている。数年前、約60年ぶりに、谷中や団子坂上を訪ねてみたが、様変わりしていることもあり、記憶と結びつかなかった。ただ、あんなに急で上からみると怖いと思った団子坂がそれほどの坂ではないことが解った。ただし、登ると息は切れた。