須賀敦子著『ミラノ霧の風景』白水Uブックス1028、1994年9月白水社発行、を読んだ。
裏表紙にはこうある。
20代から30代にかけて13年間のイタリア生活を60才になってから追想したエッセイ。
濃い霧のミラノ、菩提樹の花の香りのペル-ジャ、海から突風が吹く詩人サバのトリエステ、町全体が劇場化したヴェネチア。イタリアの町の匂いと、特徴ある友人との触れ合い、エピドード、それらの多くが既に失われてしまった哀しみを持って淡々と語られる。
初出:作品の大半は1985年12月~1989年6月、日本オリベッティ株式会社の広報誌『スパツィオ』に連載された。さらに加筆し1990年に単行本として白水社から刊行された。
私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)
まず冒頭の霧の描写に引きこまれてしまった。風景としての霧、霧の朝の物音、車に立ちはだかる霧の「土手」などミラノの生活の中に溶け込んだ霧が懐かしさとともに語られる。
思い出は削ぎ落とされ純化する。町の様子も研ぎ澄まされ、付き合った人の描写も一歩置いてよりくっきりと描かれる。驚くような出来事も、悲惨さも哀しみも淡々とした語り口で、かえって心を打つ。
確かにこの時代にヨーロッパに滞在することは特別なことだっただろう。そして、彼女が接した人々も個性的で優れた人だった。だが、語られるエピソード、人物については、50年も経った今では間違いなくそのまま時の流れの中で埋もれてしまうものだろう。それが、なぜ、こんなにも私の心を打ち、行ったこともないイタリアの、会ったこともない人たちを懐かしく、切なく思えるのだろう。
このギスギスした日本に住む私も、出会うなんでもない日常の事柄、心優しいがどうということない出会った人たちに光を当てて、こんなエッセイが書けるはずなのかもしれない。仮に私に須賀さんほどの感受性、文章力があればなのだが。
本の紹介がところどころ出てくる。たまたま読んだ本が2冊あった。
パトリック・ジュースキント『香水』は池内紀訳に惹かれて読んだ。また、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』は、知人に勧められて読み、魅せられて、須賀さんのこの本を読んだのだ。
須賀敦子の略歴と既読本リスト
以下、私のメモ
ナポリのアパートメントのテラスからはカプリ島やサンタ・キアラのゴシック建築が見え、部屋は現代的なシャレた室内装飾だった。しかし、満足に使えるコンセントがなく水まわりは水はけが悪く、毎夕ゴミを持って階段を5階登り降りしなければならなかった。しかし、慣れればパンを焼く間はプラグを手で支えていればよいし、水が無くなるのを待てば良いと思えるようになり、テラスからの眺めを楽しめるようになった。
著者に親切で、才気溢れ冗談好きのコルシア書店の編集者ガッティが、徐々に片隅に追いやられおずおずと憂鬱で、偏屈になって行き、やがてアルツハイマーになる過程が哀しい。数年ぶりにホームで会ったガッティはさっぱりとした顔でもらったアメをうれしそうにほおばる。そのあかるさに、もはやイライラさせることないガッティに、著者はうちのめされるのだった。
昔、ガッティのレジスタンス仲間だった銀行家の次男が小学生の頃から書店によく来ていて、ガッティは大変可愛がっていた。その彼が精神科医となり今はガッティを親身に診ているという。
ホームの待合室のようなところに、男の看護人に付添われて出てきたガッティは、思いがけなくさっぱりとした顔をしていた。年齢を跳びこえてしまった、それは不思議なあかるさに満ちた顔だった。私の知っていた、どこかおずおずしたところのある、憂鬱な彼の表情はもうどこにもなかった。山ほど笑い話の蓄えをもっていて、みんなを楽しませてくれたガッティも、もちろんアルビノーニのガッティも、その表情のどこにも読みとれなかった。私を案内してくれた友人が次々とポケットから出すキャンディーを、ガッティはひとつひとつ、それだけは昔と変わらない、平べったい指先で大事そうに紙をむきながら、うれしそうに口にほうばり、なんの曇りもない、淡い灰色の目でじっと私を見つめた。ムスタキのかわりにレナード・コーエンをくれたガッティ、夫を亡くして現実を直視できなくなっていた私を、睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ、と私をきつくいましめたガッティは、もうそこにいなかった。彼のはてしないあかるさに、もはや私をいらいらさせないガッティに、私はうちのめされた。
そんなとき、サバの名が、ふとだれかの口にのぼった。マスケリーニ(現代彫刻の先達)は、生前の詩人と親交があったようだった。私はいっしょうけんめいに詩人のことを聞きだそうとしたのだが、彼ら、とくにマスケリーニの口調には、きみたち他国のものにサバの詩などわかるはずがないという、かたくなな思いこみ、ほとんど侮りのような響きがあった。また、他の客たちの口にするサバも、トリエステの名誉としてのサバであり、一方では、彼らの親しい友人としての日常のなかのサバであった。そのどちらもが、私をいらだたせた。私と夫が、貧しい暮しのなかで、宝石かなんぞのように、ページのうえに追い求め、築きあげていったサバの詩は、その夜、マスケリーニのうつくしいリヴィング・ルームには、まったく不在だった。こっちのサバがほんとうのサバだ。寝床に入ってからも、私は自分に向ってそう言いつづけた。
(ここの所、好き! 猛烈に好き!)
あとがきはこのウンベルト・サバの詩《灰》で始まる。
ひそかなふれあいの、言葉にならぬ
ため息の、
灰。