ハン・ガン著『回復する人間<エクス・リブリス>』(2019年5月20日白水社発行)を読んだ。
白水社の宣伝文句は以下。
李箱文学賞、マン・ブッカー国際賞受賞作家による珠玉の短篇集
痛みがあってこそ回復がある
大切な人の死や自らの病、家族との不和など、痛みを抱え絶望の淵でうずくまる人間が一筋の光を見出し、ふたたび静かに歩みだす姿を描く。
『菜食主義者』でアジア人初のマン・ブッカー国際賞を受賞し、『すべての、白いものたちの』も同賞の最終候補になった韓国の作家ハン・ガン。本書は、作家が32歳から42歳という脂の乗った時期に発表された7篇を収録した、日本では初の短篇集。
略
大切な人の死や自らの病気、家族との不和など、痛みを抱え絶望の淵でうずくまる人間が一筋の光を見出し、再び静かに歩み出す姿を描く。現代韓国屈指の作家による、魂を震わす7つの物語。
「明るくなる前に」
かつて職場の先輩だったウニ姉さんは6年前の弟の死をきっかけに世界各地を旅する放浪の人になった。久しぶりに再会した彼女に、私は抗がん剤治療を受けていると語り、そんなことよりインドの話をしてよと迫る。彼女は、インドでは死体が外で燃やされていたと語る。
人を燃やすときいちばん最後まで燃えるのが何かわかる? 心臓だよ。夜に火をつけた体は一晩じゅう燃えてるんだ。明け方行ってみたら、心臓だけが残ってて、じりじり、燃えてたの。
……
そのとき初めて、ウニ姉さんみたいな女性を書きたい、と思ったのだろう。
そしてデング熱で……。
「回復する人間」
あなたは、直径1センチ少々の二つの穴を見つめている。
足を挫き韓方医院でお灸を据えたら酷い火傷になった。火傷跡が細菌感染を起こし、病院でレーザー治療をする。そもそもの発端は姉の葬儀で足をくじいたことだった。疎遠だった姉は1週間前に死んだ。あなたは問う。どこで何を間違えたんだろう。2人のうちどちらが冷たい人間だったのか。
助かりましたね。
あなたの左の足首の穴の中の、灰白色の組織のまん中に、シャープペンシルの芯で突いたほどの赤っぽい点が一つできたのをみて、医者がそう言うのをあなたは知らない。
訳者あとがきにこうある。
著者も足首に火傷をしてことがあるそうで、何か月もその部位に感覚がなかったが、初めてそこが痛んだときに医者に「これで治ったのですよ」と言われ、「ああ、回復ってこういうことなんだ」と実感したという。痛みがあってこそ回復がある。これこそが、本書を貫く大きなテーマである。
「エウロパ」
イナは悪夢を見ると言った。その悪夢の中に僕は入ったことがない。彼女と一緒に暮らしていないから、悪夢を見ている様子を見たこともない。
僕はどこまでもイナの友だちで友達以上の何かであったことはない。性的志向を隠す僕はイナにとって姉妹。
ミュージシャンのイナは歌う。
エウロパ、
凍りついたエウロパ
あなたは木星の月
私の命の果てまで生きても
あなたには触れない。冷たいエウロパ
僕は女装してイナと共にソウルの繁華街を散歩する。
「フンザ」
辺境を旅してきた青年が一番印象深かった土地はフンザだと言った。千年前に滅亡したフンザ国の遺跡でパキスタンの東北の山間部にある。まったく協力しない夫のもと、2歳の子供の育児と仕事で孤独で絶望的な31歳の女性は、なぜか見知らぬフンザを想う。
「青い石」
私は昔遠い世界へ去ったあなたに語りかける。あなたは血が止まらなくなる病気で日常生活に困難を抱えていた。
「左手」
ソンジンの左手はある日突然勝手に動き出す。仕事のミスをしつこく説教する上司の口を左手がふさぎ、大騒動になる。学生のとき好きだったソネを見かけ、彼女の店に行く。帰ろうとしたとき、左手は彼女の頬に触れ、そして……。翌日職場へ出てもコントロールできない左手のおかげで、早退させられる。最後には左手が彼に反抗し……。
「火とかげ」
交通事故で左手が使えなくなった女性画家ヒョニョン。自分には絵しかないと使い過ぎた右手も悪くなって、筆を持つことも、ほとんどの家事もできなくなってしまった。基本的に繊細で優しい性格の夫も、仕事と家事ですり減ってしまった。友人のソジンからの電話で、彼女が映っている写真が店に飾ってあると伝えて来た。店を探し、少しずつ思い出す中で、撮影した男性のことを思い出すが、……。
私の評価としては、★★★★★(五つ星:お勧め)(最大は五つ星)
あくまで雰囲気だけだが、村上春樹の小説、とくに『ノルウェイの森』と似ている。喪失感、失われた思い出での語り口。しかし、描写ははるかに繊細で、今にも壊れそうな危うさが漂い、文才が際立つ。大長編はどうかわからないが、少なくとも短中編では村上春樹より面白いし、何か伝えたいことも感じられる。
今少しハン・ガンに付き合ってみようと思う。
斎藤真理子
1960年、新潟市生まれ。明治大学文学部史学地理学科考古学専攻卒業。
1980年より韓国語を学び、1991~92年、韓国の延世大学語学堂へ留学。
2015年、パク・ミンギュ『カステラ』(ヒョン・ジェフンとの共訳、2014年、クレイン)で第1回日本翻訳大賞受賞
以下、ネタバレで白字(訳者の斎藤真理子さんによる(Web河出))
著者の教えに基づいて解釈するなら、1章は現実であるが、2章は、「私」から彼女へと生の譲渡が成就した段階なので、現世であって現世でない。そこでは姉が「私」を生きている、または「私」が姉によって再び生きられている、ともいえる。そして3章では再び叙述の主体が「私」の目に戻る。姉と自分の生が両立することは不可能であると悟った「私」は、ソウルへ戻って、姉に惜別の挨拶を送る儀式を行う。母に贈る衣裳を焼くことが儀式である。そして「私」は、彼女が吐き出した息を思いきり胸に吸い込みながら、再びこの生を生きていくことを誓う。
訳者は、これらは作者の意図であっても、読者を限定する可能性があることから、訳者あとがきには書かなかったという。私も、確かにその通りだと思った。