尾籠(びろう)な話で恐縮だが、トイレの紙の話を少々。
子供の頃住んでいたのは東京の山の手だが、トイレは和式で汲み取り式だった。
臭くないように使用後は、板につまみのついた木製のカバーを便器にかぶせる。
ときどき、裏口から人が入って来て、トイレの外にある円形の蓋を開け、ひしゃく(柄杓)で汲み取っていった。母が、汲取り券という紙の回数券を男の人に渡していた。
やがて、石油のタンクローリーのようなバキュームカーが来てポンプで汲み取ってもらうようになった。
トイレには竹で編んだ籠が置いてあって、中に20cm位に切った新聞紙が積み重ねてあった。
そのままでは硬いので、これをよく揉んでから拭くのであるが、揉みすぎると破れてしまう。今考えると、多分お尻は黒くなっていたのだろう。
やがて、トイレが水洗になった頃だろうか、新聞紙がちり紙(塵紙)に代わった。水洗と言っても天井に近いところに水のタンクがあり、そこから垂れている鎖を引いて水を便器に流す水洗式和式トイレである。
ちり紙とは、鼻をかんだり、お尻を拭いたりするための専用の紙で、薄くいかにも安そうな粗末な紙があらかじめ20cm位に裁断して売られていた。
柔らかくするためただ単に薄くしたようで、密度が均一でなく、ところどころ向こう側が透けて見えるのもあった。それでも、何枚か重ねて揉んで柔らかくした記憶がある。やがて、品質があがり、薄くて柔らかいものに代わった。はじめからシワシワになっているより柔らかい化粧紙と呼ばれるものもあったが、トイレには使わず鼻紙にしていた。
庶民の家でも多くのトイレが洋式になる頃、紙はロールのトイレットペーパーになり、ちり紙は姿を消した。ティッシュの箱からティッシュペーパーをパッと取ると、次のティッシュペーパーが顔を出し、次々、パッパッと紙を取り出すTVのCMで、クリネックスが有名になり、あっというまにティッシュが普及し、鼻紙も消えた。
1980年に温水洗浄便座が発売され、1982年には、戸川純の「おしりだって洗ってほしい」のCMが話題で普及が進んだ。現在普及率は6割に達するという。ただし、熱風で乾燥させるには時間がかかり、依然トイレットペーパーも利用されている。(商品名:TOTO「ウォシュレット」、INAX「シャワートイレ」など)
便利は人間を軟弱にさせる。ウォシュレットを常時使っていると、海外滞在時に紙で拭くとお尻がヒリヒリしてかなわなくなった。そこで、海外用に電池で動く携帯型のトラベル・ウォシュレットを購入した。しかし、使わなくてもヒリヒリするのは最初の1週間ぐらいで、面が(面じゃないが)すぐ厚くなって使わなくてもすぐ何ともなくなった。いちいち面倒で海外に持参しなくなった。トイレに紙がなく、縄でもぶら下がっている東南アジアの奥地にでも滞在するときには持参するだろう。
もともと余談だが、さらに余談
昭和天皇だか、大正天皇だかの別荘を見学したときに、畳の部屋の真ん中に木製の椅子があった。お尻のところに穴が開いていて、天皇陛下のトイレだった。椅子の下に箱があり、毎日使用後に医者が成果物を調べて健康診断すると聞いた。
平安朝時代のトイレ(樋箱、おまる)が出てくる芥川龍之介の小説があった。こんなような内容だったと思う。
「ある男性が苦しくてこのままでは死んでしまうほど美しい女性に恋焦がれる。恋しい身には彼女のどのふりを見てもより恋心が増す。苦肉の策で、彼女の排泄物の臭さを嗅げば百年の恋もさめるだろうと、忍び込んで、おまるの中をのぞいた。
なんと、香水をたらしていたので得もいられぬ香りがした。男性は、悶絶した」