hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

仕事の優先順位どう決めてますか?

2006年12月05日 | 会社生活
私が会社で働いていた頃は、朝出社すると、処理すべき案件の山にうんざりしたものである。メールのフォルダは処理種別に分離するよう工夫してあった。フォルダごとに眺めたり、ざっと読み飛ばしたり、ポイントだけ読んだりして、メールの山の中からアクションをとらないといけないものを分離する。サーバーのフォルダにアクセスしファイルを取り寄せたり、電話をかけたりするともう1時間は経っている。あとは電子手帳と連動しているパソコンのTo Doリストへ追加、整理し、未処理案件の重要度1のものを摘出する。それでも、期限の切れているものも含め、ずらずら並んでいる。

飛び込みの仕事をかわしながら、処理していくと、すぐ昼休みになり、会議や、外出が入れば、もう夜になっている。
そして、あれもこれもと手を出して、ちっとも案件の待ち行列は短くならず、かえってより大きくなってしまった案件などもあり、結局欲求不満のまま、満足感のないまま、夜遅くなって退社することになっていた。

何かの本で、マイクロソフトの副社長が次のように言っていたと書いてあった。
「朝会社に出るとやるべき仕事が山ほどある。まるで、消防ホースから水を飲むようで、とても全部はできない。そこで、今日やることを3つだけピックアップする。そしてそれだけはどうしてもやる。あとはやれればやる」

この副社長の話を読んでからは、朝決めた3つの案件を、緊急のどうしてもやらざるを得ない案件をのぞいて、何よりも優先して片付けるようにしてきた。そして、たいていの日は、多くの未処理案件の山を残しながらも一応満足して退社することができた。

問題は数多くの案件の中から何を選ぶかだ。一番精神衛生上良いのは、努力すれば簡単に処理でき、成果がきれいに見える案件を優先することだ。しかし、それでは難しい案件がたまり、全体の仕事が進まなくなる。
コミュニケーション能力に問題のある私の場合は、何が難しい案件かと言うと、自分だけではできないで、いやがる他の人と交渉して妥協させなければいけない案件が一番いやで気の進まない案件だった。これは最優先すべき案件である場合が多いのだが、どうしても後回しになってしまう。
次に難しいのは、従来になく新しいと他人に感じさせるアイデアをひねり出すことだった。これは基本的には楽しい仕事だが、どうしても何も浮かばず、時間がどんどん迫ってくるときの苦しさ、あせり。研究開発の宿命ではあるが、掃除で回ってくるおばさんを見て、身体を動かせば確実に処理できるあんな仕事がうらやましいと思ったこともある。

そこで、その日のTo Doリストの中から自分の最もやりたい案件を2つ選び、もう一つは全体の仕事を進めるのにもっともキーとなる案件を選ぶ。そして、これら3つの案件を何が何でも今日中にやろうと、他の案件を振り払い、朝からスパートする。会議も何のかのと言ってなるべくサボる。

私の場合は、研究開発で、どちらかといえば、少人数での仕事が多かったので以上のようなわがままな進め方が許された。しかし、組織で仕事を進める場合も、やる気をひきだすためには、処理すべき案件の優先順位を個々人が決めるある程度の融通性があることが望ましいだろう。

Part図を基にしたスケジュール管理プログラムに基づき最も今全体の進行に必要な案件を片付けるのが、全体の仕事を進めるのにもっとも効率的であることは明らかである。大きなソフト開発のように多くの人の分担が明確で実行組織、計画がきっちりしている仕事は、多くの場合、線表もぎりぎりで余裕などないであろうから、その方法しかないだろう。その場合、個々人には、決められた案件の進め方の中の小さな選択の自由度しかないことになる。
しかし、関係者がもう少しルーズな関係で結ばれている仕事は、実行する人のやる気を考慮し、少しでもやる気を出させて、いや、やる気を損なわないように、進め方を工夫すべきである。人間の能力はやる気しだいで全く変わるのだから。

以下、蛇足。
有名だが、真偽不明な「80/20の法則」、「パレートの法則」と言うのがある。
100人のセールスマンがいると、たいていの場合、売上全体の80%は20%の人間、つまり20人、が売ったものだ。しかし、残りの80人を配置転換か、首にして、この20人だけにすると、その20%、4人だけが80%を売り上げて、残りの80%の人の売上はがた落ちになる。
人間は認められ、やる気になれば、どんどん潜在能力が発揮される。逆に言えば、やる気がなければ、能力は損なわれる。
しかし、だめ人間がいるから、優秀な人間が生まれると考えることもできる。その意味で、私のような人間も会社にとっては必要な人間だったのである。


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Always 3丁目の夕日を見て

2006年12月03日 | その他

映画公開時にも見たのだが、1日にTVで再度見て、また感動し懐かしさがよみがえった。
それにしても2005年公開の映画をもうTVで見られるのが、嬉しいような、残念なような。まもなく
続編が公開されるらしいので、その前編をあらかじめTVで、というパターンだ。

東京タワーが建設中だった昭和33年(1958年)は私が港区の高校へ入学した年だ。2階に上がるとすぐ近くに日に日に高くなっていく東京タワーが見えた。あの頃は、今日より明日は、明日よりあさってが、より豊かになるのが当然と思えた。

電器屋さんの店頭にあった街頭TV、山のような人ごみの中で汗びっしょりになりながら、悪役の外国人と戦う力道山を懸命に応援した。
町の商店街を走っていたダイハツ製のオート三輪のミゼット。記憶にあるのは、映画と違って中央にバイクハンドルのあるタイプだ。
蕎麦屋の出前持ちもざる蕎麦を高々と重ねて肩と右手で支え、左手で自転車のハンドルを持って得意そうに走り回っていた。
出てくるものすべてが、「そうそう、あったあった」と懐かしい。

ぶっきらぼうで乱暴な堤真一も最優秀助演男優賞を受賞しただけある演技だ。吉岡秀隆については、「北の国から」もまったく見ていないし、知らなかったので、映画の中の茶川竜之介の性格が本人そのものであるかのように思えてしまうほどの好演だった。「俺とお前は赤の他人なんだからな」と言いながら淳之介を抱きしめるシーンはお定まりとは言え、涙腺を刺激する。

まだまだ貧しいが希望が持てる伸び行く時代、その時代と共に成長した我々世代は幸せだったと思う。

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