交差点に隣接する雑木林が「限界集落のシンボル」と何故思ったのか、昨日の記事は曖昧だったので補足したい。農業を代表する「整然と田植えされた田んぼ」群の真ん中に突如「雑木林」が出現し、そこを通る道が集落に繋がる様子が、消えゆく限界集落を体現している様に思ったからだ。
集落「中組」は戦国時代から続いていたようで、その中の三つの地区は夫々に異なった歴史背景があると聞いている。私の実家のある「古城」は戦国時代の蜂須賀家が四国統一した後に当地に残った家臣一族の作った集落で、全家「池田」姓を名乗る。家系図によると源氏の流れだそうだ。
蜂須賀家が滅亡し徳川の世になった時に大洲藩主の許しを得て刀をおいて山中に住み、徳川時代が進むにつれ経済的に成功して平地に下りて現在の山裾に住むようになった。更に明治の代になって、一族の中に養蚕業で成功者が出て歴史の表舞台に出て来た。
一方、隣の「大河内」はそれ以前に九州の大友一族の家臣が移り住んだとされ、私が子供の頃に立派な庭と大きな家に住むお金持の集落だと聞いた。こちらの若者の一部は成人して外に出て行かず結婚して家族を作り限界状態になってないと感じる。小さな集落にも夫々に小さな歴史がある。
しかし、私の勝手な推測によると長い潜伏期間があった。所詮他所から来たものの集落で、徳川時代は大洲藩と分家した新谷藩が「教科書に載る表の歴史」を作っていた。明治になって初めて大名がらみ以外から経済的に成功したり、悪名高き大泥棒(!)がでて名が知られるようになった。
「雑木林」を見て私は柄にもなくセンチになってしまったようだ。波乱続きの集落の最後の姿を私は見ているのだろうか。生きて見ることはないだろうが。■
集落「中組」は戦国時代から続いていたようで、その中の三つの地区は夫々に異なった歴史背景があると聞いている。私の実家のある「古城」は戦国時代の蜂須賀家が四国統一した後に当地に残った家臣一族の作った集落で、全家「池田」姓を名乗る。家系図によると源氏の流れだそうだ。
蜂須賀家が滅亡し徳川の世になった時に大洲藩主の許しを得て刀をおいて山中に住み、徳川時代が進むにつれ経済的に成功して平地に下りて現在の山裾に住むようになった。更に明治の代になって、一族の中に養蚕業で成功者が出て歴史の表舞台に出て来た。
一方、隣の「大河内」はそれ以前に九州の大友一族の家臣が移り住んだとされ、私が子供の頃に立派な庭と大きな家に住むお金持の集落だと聞いた。こちらの若者の一部は成人して外に出て行かず結婚して家族を作り限界状態になってないと感じる。小さな集落にも夫々に小さな歴史がある。
しかし、私の勝手な推測によると長い潜伏期間があった。所詮他所から来たものの集落で、徳川時代は大洲藩と分家した新谷藩が「教科書に載る表の歴史」を作っていた。明治になって初めて大名がらみ以外から経済的に成功したり、悪名高き大泥棒(!)がでて名が知られるようになった。
「雑木林」を見て私は柄にもなくセンチになってしまったようだ。波乱続きの集落の最後の姿を私は見ているのだろうか。生きて見ることはないだろうが。■