曲淵庄左衛門が野木備前守を見事に討ち取ると、武田勢は「したりや したりや」と大歓声を上げて、勇を振るって松本勢に襲い掛かった
松本勢は是により、大江、山住、遠山、諏訪部、鈴木、小野、深須など三十二人が討ち死にした。
武田勢の市川梅印は間道より松本勢の左に回り、在家二十余軒に火をかけて鬨を上げて攻め立てれば、松本勢は後ろをとられてはたまらぬと、崩れて三十余町も引き下がって陣を敷き、小笠原の深志城に援兵を請う使者を走らせた。
これを追って敵前にて陣営を張った武田勢は軍議を開いた
小幡織部正が申すには「我らは初戦を勝利したが、ここは敵地である
一方の松本勢は敗れたと言えども、地理に明るく、敵情を伺うに既に深志の小笠原に援兵を求めたことは明白である
ここは直ちに攻め寄せて、援兵が来る前に一揉みに揉みつぶすのが上策である」と言えば、諸将みなもっともなりと賛同する。
武田勢は夜明けを待って短兵急に攻め寄せれば、ここを落されてなるかと松本勢も死にもの狂いに戦えば、双方の死傷者は数知れず
ここに仁科日置の城主、丸山肥後守の伯父、丸山筑前守は大剛無双の勇将で数度の高名をあげ、背の高さは六尺(180cm)虎の如き風貌で歩卒八十人を率いて、小笠原に味方して原加賀守の備えに向かうところを市川梅印、原の手勢がこれを取り込んで討たんと攻めかかる
丸山勢は包まれまいと手先を回して突き立てる、丸山は馬を引きまわして遮二無二切りまわれば、市川、原の勢の死傷数多くこらえきれずに引き下がる
丸山も小勢故、これを追わず引き下がった。
しかし疲れをしらぬ丸山筑前はただ一騎にて歩卒六人だけ引き連れて、再び武田勢の備えの近くまで攻め寄せた
そして小高い丘の上に馬を休めさせて、しげしげと武田勢の陣中を見回す姿は、甲州勢を侮る不敵な面構えにて甲州勢の中にも、これを不快に思う者あり
小幡織部正は、一子孫冶郎に陣を任せて軍議に出ていたが、孫治郎は不敵な丸山筑前を見て「悪しき敵の振る舞いであろうか、これを見過ごしては我らの名折れ、敵に侮られるは必至なり」と郎従遠藤弥一郎と従者五、六人を従えて丸山目指して馬を走らせた。
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