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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 121 釜山上陸

2023年01月11日 18時31分04秒 | 貧乏太閤記
今の秀吉にとって淀が、天に輝く星を取ってくれといえば、その努力の為に財をなげうつかもしれない、秀吉の心が動いて信雄は1万5000石の禄を賜って、秀吉のお伽衆となった、そして名護屋にも家臣を引き連れて参陣したのである。
 秀吉の命を受けた全国の諸将が一斉に肥前名護屋に向かって動き出した
街道と言う街道は大移動で身動きがとれぬほど混雑した、これには秀吉自身が困惑した、自分自身も1月早々に行くつもりが石田三成からの連絡で、「2月までは出立されぬように」と言ってきたのだ。

 前田利家も九州に発つことになり秀吉に挨拶にやって来た、その挨拶がてら秀吉の側室となっている娘、加賀の局に会い、それから大政所、北政所にも出立のあいさつにやって来た
「大政所様、政所様、お久しゅうございます」
「おお、前田さま、秀吉のわがままで難儀させますのう」大政所が満面の笑みで利家を向かえた、大政所「なか」は幾つになるのだろうか白髪頭も薄くなっている、70はとおに越えているかもしれない。
以前は小太りであったが、痩せたように見える、顔のつやも幾分なくなったように思えた、一方の政所「ねね」は若い時よりふくよかになり、顔も張りがあってはつらつとしている、そして天下人の奥方と言う風格もすっかり身に着いたようだ。
秀吉の女道楽に、若い時は悋気をおこして信長にたしなめられたこともあったが、あれ以来、秀吉の女性関係には一切口をつぐむようになった
そして逆に若い側室たちの相談相手になることを楽しみにしている風であった、側室の多くは娘のような年頃であったからだ
ただ淀殿は、淀城に住んでいて出てくることは無かったから、もはや政所は気にも留めていない風である
「九州の名護屋と言うところは田舎でありましたが、今は諸国の大名の半分がそこに集まり、与えられた地所に屋敷やら城塞やらを構えているので、それを見た商人や職人たちが九州、中国、大坂からも出向いて商いを始めたので、堺や博多を凌ぐにぎやかさだそうでございます」
「なんと、戦に嫌気を思いましたが、戦と言うものは世の中を潤すことにも役立つのですね、悪いことばかりではないのですね」
ねねは、利家の話を聞いて気づかされたと思った。
「そうなのです、儂も戦ばかりの人生でありましたが、城下町の整備にも力を尽くしましたから、今や尾山(金沢)の城下には金箔職人や漆職人、陶器職人などが軒を並べて技を競っております、そうじゃお土産を持ってきました」
後ろに控えていた家来が大きな包みを前に出した
「どうぞ、大政所様、政所様、広げてご覧ください」
「なんでありましょうか、ずいぶんと大きな」
「まあ、なんと美しい色の染め物でありましょうか」
それは加賀で盛んな無地染め梅染の着物で、大政所には黄土の染、政所には藍染
それに袖にワンポイントではあるが色違いの牡丹の絵が描かれている。
「これは珍しい、花が描かれた染など初めて見る」
「はい、これは今、染職人の者共が試作しているもので、梅染に絵柄を入れることはできぬかと日夜試行錯誤してようやく単色一輪を描くことができたのです、これからも試行錯誤を重ねて、いつかはお花畑のような絵柄の染を完成させるよう国をあげて応援するつもりでいまする、完成したら『加賀友禅』と名付けるつもりなのです」
「なんと前田さまのご立派なことよのう、秀吉も前田さまのように人様の役に立つことをすればよいが、戦で人を殺すことばかり熱心で・・・あんな子を産んでしまった儂が悪いのじゃ」
「大政所様、そう申されますな、太閤殿下は日ノ本から戦を無くされました、今は最後の生みの苦しみでございます、殿下とてやむにやまれぬ最後の苦しみなのです、今一歩で本当の平和がやってくるでしょう」
「そうかのう、そうならよいが儂の目の黒いうちに、そうしてもらいたいものじゃ」

 三月、秀吉は未だに大坂に居る、まだ街道は混み合っていると三成からの連絡だ、だが待ちきれぬ秀吉は大坂城で、朝鮮へ渡らせる第一陣の陣立てを考えて名護屋に送らせた

第一陣は九州、四国と毛利で編成されている
第一軍 小西行長、宗義智ほか肥前大名4家19000人
第二軍 加藤清正、鍋島直茂、相良23000人
第三軍 黒田長政、大友義統 11000人
第四軍 島津義弘ほか2家14000人
第五軍 福島正則、蜂須賀家正、生駒親正ほか3家25000人
第六軍 小早川隆景、立花宗茂他3家16000人
第七軍 毛利輝元30000人
第八軍 宇喜多秀家10000人
第九軍 羽柴秀勝、細川忠興12000人  合計159000人
このほかにも人夫として強制的に招集された農民なども多くいたという 
名護屋に集まった兵は30万にもなったが、それを朝鮮に送るには船が足りない
三成は、船を集めることに苦心したが解決できなかった
秀吉はまず小西、宗の第一軍19000の朝鮮上陸を命じた、天正20年3月12日
第一軍は壹岐を経て対馬に到着した、ここで秀吉からの次の命令を待っている
対馬は九州よりも釜山にやや近いところにある、肥前平戸の津から釜山は順調にいけば一週間で渡れる

 一か月近く対馬で準備を行った小西の第一軍は4月12日、ついに釜山沖にその姿を現した、その軍船は700艘、これを見た釜山鎮台の朝鮮兵はうろたえた
 日本軍が朝鮮半島に攻め込むのは初めてではない
神話の時代には14代仲哀天皇の皇后、神功皇后が、神のお告げにより神がかりとなって、男のように髪を結い揚げて先頭に立ち、朝鮮半島の新羅(しらぎ=シラ)、高麗(こうらい=コリョ)、百済(くだら=ペクチェ)に攻め込んだとされている。
21代雄略天皇の時は、百済からの要請で朝鮮半島に渡り、高麗と戦った
これは3世紀ころではないか、ここもまだ雄略天皇が崩御された齢は124歳とかだから神話の域を出ないが、同年代の朝鮮の焼物皿などが日本で多く出土しているという。
これ以後は、戦争はともかく半島との貿易や交流が盛んだったのは事実のようである。
4世紀後半からは百済から仏教が入り、天皇は飛鳥斑鳩などに寺院や五重塔などを建てた。 日本は朝鮮半島の三国時代から半島西南の百済と特に親しくしていたようだ。
38代天智天皇のときには歴史もはっきりしている、663年には唐と新羅の連合軍に襲われた百済を救うため出兵したが白村江(はくすきのえ=パクチョングァン)の戦いで大敗北している。
 逆に1274年、1281年の二度にわたりモンゴル族の元(げん)が博多に攻め込んできた、いわゆる元寇(げんこう)である、その兵士の大部分は「元」に
占領されて使役となっている高麗兵であった
二度とも日本は敵の飛び道具に苦戦したが「神風」が吹いて敵をほぼ消滅させた、それが台風なのか大嵐なのかはわからない。
これ以後、昭和の戦争で負けるまで、日本は神国で「神風」が守ってくれるという神話ができた。







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