神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 80

2024年04月24日 17時18分01秒 | 甲越軍記
 力を落した上州勢はいったん本領へと引き上げた。
信形は討ち取った首帳を晴信に差し出すと、晴信は信形に恩賞を与えた。

三月二十三日、甲府に於いて村上との戦で手柄を立てた諸将に恩賞を授けた。
一番に山本勘助、三百貫を加増して都合八百貫とされた。
討死した甘利備前の嫡子玉千代十五歳を召し出し、備前守の忠義を賞して玉千代の元服をこの場でただちに申し付け、左衛門尉の位階を与えられた。
さらに烏帽子を賜り、晴信の御諱(いみな=名前)を下されて晴吉とされた
甘利左衛門尉晴吉、甘利家の家督相続を認められた。

次に、横田彦十郎を召され、討死となった忠臣横田備中守の家督相続を認めた
さらに百五十貫の加増を下された。
そして続けて言うに「汝十六歳より五度の合戦に出て、その都度手柄を立てて来た、実父原美濃守から勇を受け継ぎ、養父横田備中守から武略を倣い、武力勇気共に備わったことまことに末頼もしいと思うぞ
今日より横田織部正と名乗るがよい」と賞された
彦十郎は大いに面目を上げた。
彦十郎が織部正となったので、同じ号である小幡織部正には尾張守を与えて小幡尾張守となる。

次に小山田備中を召されて「甘利備前が討ち死にしたあとも戦場を持ちこたえたること汝の功である」と賞して感情を与えた。
続いて加藤駿河守を召されて「城攻めの芦田、川上入道が城方に敗れ沼の中に追い込まれて総崩れの時、汝は早速に駆けつけて敵を城中に追い返した
これ抜群の功である」と言って、感状に国吉の腰の物を添えて下された。

同月二十五日には、戸石合戦で敗北した諸将を召し出され、まずは栗原左衛門を召して「汝は信州の降将、芦田、川上、勝沼を添えて城攻めをさせたが、村上の後詰を見て逃げ腰になり、城兵によって追い破られる見苦しき様は、いかなることか」と問い詰めた。
栗原が言うに「謹んで申し上げます、その日の先手は川上入道で村上が西より大軍で来たのを見て狼狽し攻め口から逃げ出したところ、これを見た芦田下野守が『ここを退けば敵は勢いを得て攻めかけてくる』と言ったが、川上はこれを聞かず逃げて来たので、某は後方にあって押しとどめようとしましたが、敵はこのときすでに勢いを得て攻め寄せてきました、必死で食い止めようとしましたが味方は既に総崩れとなっていたのです」と額に汗をして答弁した。

晴信は、川上、芦田、勝沼入道を召し出して栗原左衛門と対決させた
結果、川上入道が真っ先に先陣から逃れたことが明白になり、広瀬郷左衛門に命じて、川上入道を放し討ちの成敗(せいばい=殺すこと)を申し付けた。
放し討ちとは、その場で即座に討ち取ることで、これは太刀取り(執行役)にとって名誉なことである、なぜなら武芸の達人であることを主に認められたということだからだ。
討たれる者の中には抵抗する者がたまにあるが、それさえもさせぬほどの早業で行うのが太刀取りの腕前なのだ。

その昔、先代信虎の暴虐を止めようと諫言して、無残にも切り殺された馬場、山縣、工藤、内藤の忠臣の家族はこれを恐れて、他国へ散りじりに逃げていったまま行方が知れず、名家の家督は継がれることなくそのままになっている。
晴信は、それを深く嘆き、なんとしてもこの四家の再興を成さねばならぬと思っていた。
四家の親族に継がせようといろいろ考えていたが、幸いに晴信の旗本である教来石民部少輔景政は馬場の一家であった。
馬場伊豆守虎貞の名跡を継がせるために、教来石を改めさせて馬場美濃守信房と名乗らせた。

教来石民部少輔の家は、清和天皇の後胤六代の孫、経基の孫、摂津守頼光より四代の後胤、源三位頼政の後である。
頼政の父、兵庫頭仲政が初めて馬場を号した。
家紋は十六葉の裏菊である、馬場、大国、下妻などみな頼政の末裔である。

晴信が廃れた家を興し、絶えたる家を継がせたのは皆、仁政の成せること、いと頼もしきことかな。












自給自足生活も楽しからずや&近所付き合い

2024年04月23日 19時06分47秒 | 料理を作る・食べる
 栄光の未来を夢見ていたが、現実は貧する高齢者とは・・・
令和に入って貧人と富人の二極化が凡人でもわかるようになってきた
今週の「光る君へ」では、そこらを皮肉ったのかどうか? 京で疫病が蔓延する
道長は兄、当時の内閣総理大臣、関白藤原道隆に庶民救済を求めるが、「貴族には被害がない、賤しき者共など。ほおっておけばそのうち収まるだろう」と相手にしない。
道隆の娘を中宮としている一条天皇も「民の生活をかえりみず、(戦や大工事に湯水のごとく人と財をつぎ込んだため)隋の楊帝は悲惨な最期を迎えたと道長同様に民を心配しているが、それさえも無視、都は死人で溢れる。

またまた脱線!
74年の人生で「持つ苦しさ」と「何もない気楽さ」の両方を体験してみて
「持たない気楽さ」が数百倍良かったと思うこの頃
漁師の手伝いをするようになって新鮮な魚に不自由無くなり、友達や近所、親戚にも分ける
それに対して方々から野菜やデザート、米、肉などいろいろなお返しを頂いて、まさに自給自足の物々交換、買い物をしないで豊かな食生活ができるとは
これまた珍奇なことなり。
今は清貧に生きること、家族助け合って生きることなり。

今日も午前中に同級生の家に魚を届けに行ったら、道すがら商売をしていた時のお得意様Sさん(77歳くらい)にバッタリ会った
我が家からも見える高台の大きな家に住む、この地区に引っ越してきて初めて会った
「いやあ久しぶりだね」と話しかけてきて、互いの知人の話、畑の話など立ち話になったら「帰りに家で、お茶やっていきない」と誘われた
それで、同級生の家に魚を置いてすぐにSさんの家に行った
高台からは東、南一帯が広々と見える、風が気持ちよい外のテラスでお茶を頂いて、奥さんも交じって30分くらい、いろいろな話を楽しんだ。
それから家に向かったが、町内にはいったらMさん(80代半ば)が自宅で作っている野菜を見ていたので声をかけて、またしばし野菜談義
それから家に向かったら、隣の奥さん(80代半ば)が庭掃除をしていたので、またご挨拶
それから今朝富山の定置網漁師にもらったイワシを、Mさんと隣に少しずつ持って行った(二人共一人暮らし)
しばらくたったら隣の奥さんが自分の畑から摘み菜を持ってきてくれた。

今夜の夕飯係になって作ったメニュー

隣からいただいた摘み菜のお浸し


獲りたてでないと食べられないイワシの刺身


子持ち白カレイの旨煮


しめサバも作って、いったん冷凍にします。





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 79

2024年04月23日 11時15分53秒 | 甲越軍記
 甲州の御館武田晴信の合戦、当家の危急存亡の戦であったが、山本晴幸(勘助)の陣立ての妙に依って、敗戦を転じて勝利に導いた。
されども侍大将の討死もあり、諸方に配置した軍勢をしばし召し返した。
伊奈、木曽、小笠原は幸いに後詰を出さず、左馬之助信繁も塩尻より帰城した

その頃、上野国には上杉大夫憲昌(諸書では憲政)という人あり
関東八ヶ国の管領として代々武威を示していた。
しかし憲昌の代になると武威は次第に影を潜め、近年は北條相模守氏康は管領の指図を無視し、かえって管領の地に戦を仕掛けて侵略していく始末であった。
いかにして北條を討伐するかと頭を悩ませていたところに、信州上田の村上義清から使者が着いた。

使者が申すには「上野、信濃は国境を接している隣国であります、されど上野国の碓氷峠より西は武田晴信の領地となっております
このままにしておけば、武田が上野に攻め込み蹂躙するのは確かであります
われら村上、小笠原、木曽の信濃の者は同意して、近々武田を攻め滅ぼすこととなりました、ついては上杉家も我らに同意していただき上野より兵を進めていただきたい
武田を滅ぼした暁には上野の境まで上杉家の所領と為し賜え」

これを聞いて憲昌は小躍りして喜んだ「今、同意して武田征伐に加勢すれば、後に北條攻めの時には、信濃勢は後詰として働くであろう」と思い、信濃に兵を送ることを快諾した。
やがて武田が再び、戸石城を攻撃するとの報せが村上から届いた
使者の口上は「武田本隊が戸石に向かって小県に入ったら、碓氷峠より乱入すれば、軽井沢より西、小諸追分まで上杉家の領分となりましょう」

これを聞いて上杉憲昌は領国である上野(上野=群馬県)の主だった国人たち、箕輪城主長野信濃守、倉賀野越中守、同六郎、同淡路守、箕田五郎左衛門、上田又次郎、松本兵部丞、和田左衛門尉、新田、舘林、山上、白井、忍、深谷、五甘、沼田、厩橋、白倉、長松、松井田等に陣触れを出すと五千騎が碓氷峠に押し寄せた。

板垣信形は諏訪の郡代であったが、上野国人の抑えとして原美濃守と共に二千三百騎で引き受け、三月十二、十三日の両日の戦に向かい勝利した。
しかも十四日には戸石合戦で村上方の敗北を聞くと、上野勢は大いに力を落した。
そこに板垣勢二千三百が高きから地の利を得て夜討ちをかけて逆落としに攻め込んできたので、上野衆は右往左往して逃げ惑い、討たれる者多し。




参考
甲州(山梨県) 信州(長野県) 関八州(北関東、南関東全域)
関東管領(足利幕府から任命された関八州を治める最高責任者)
相州(神奈川県) 武州(埼玉県、東京) 上総・下総(千葉県・茨城県)
越後(新潟県) 越中(富山県) 上野・上州(群馬県)





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 78

2024年04月22日 15時23分33秒 | 甲越軍記
 晴信の旗本、新手の勢で村上の横合いからどっと「横槍」を入れると、思いもつかぬ方からの攻撃に村上本隊は総崩れとなった。
いかに大軍であっても、横槍には大敗を喫するものなり。
「今ぞ、追いかけよ、首はとるな追い打ちして捨てておけよ」晴信の下知で兵は奮い立たた
されども武田の兵は少なく、乱れた村上勢であるがそれに気づかず潮が引くように我先に逃げていく
討たれた者は少ないが、深田に追い込まれて身動きできぬ者、谷間に落下して命絶えるもの、あるいは馬が倒れ味方の馬に踏み殺される者
我さきに逃げ戻る

山本勘助はそのまま、戸石城に向かって進めば、城方と交戦していた加藤駿河守、芦田、川上、勝沼らこれに力を得て、城外の城方を攻め立てる
たまらず城方はまたも城内に閉じこもった。
味方衆は「逃げる村上を追い打ちせよ」「城を攻め落とせ」と勢いに乗じて勇気百倍となる

しかし勘助は本陣に行くと晴信に「今こそ急をもって、御引きあそばせ」と言った
晴信は直ちに「引き鐘を打て、全軍すぐに甲州へ戻るぞ」と真っ先に駆けだした
最後の勝利を得たといえども、僅か一刻の勝ち、全体を見れば味方十分の負け戦、大将軍すら討たれる危うき一戦であった
味方の微勢を村上が気づいて反転すればたちまち我らは全滅の憂き目

わずか九十五名の勢をもって敵を欺き、混乱に貶めた山本勘助の謀りは前代未聞の合戦であった

この日、味方の侍大将、甘利、横田を始め戦死した者、七百二十一人なり

(*このあと山本勘助が勝利したのは占星術や易を見てだと諸書に書いてあるが、大勢の命を預かる大将が八卦や占星術にたよるなどあり得ぬ話だ
諸葛孔明が南蛮を攻めるにあたり、そうしたと漢書にあるが、それは孔明が易にかこつけて迷信を信じる者たちを誘導しただけのことである
勘助が勝利に導いたのは、あくまでも理詰めの策であり、それは七つの証拠で証明されると書き
神武天皇が高千穂の峯より東征されて大和に向かった時、日を背中に背負って勝利したことは、今度の勘助の策略にも活かされている など3頁にわたって編者は力説している)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 77

2024年04月21日 12時06分51秒 | 甲越軍記
 今日も忙しくてアップが遅れました
朝5時からはドジャース戦、終わって9時半から支援センターの会議に出席
友だちからの相談に乗ったり、畑の苺苗をかまったり、それから魚を届けたりしてもうこの時間です、一日は短い。



 晴信は左右をキッと見渡し、「ここに至ってもはや予が旗本を率いて村上勢に攻め込み義清との一戦を試みて、味方が総崩れとなれば討死も仕方あるまい」
と言うと床几を離れて馬に乗ろうとした。

そこに山本勘助が御前にまかり出て言上
「いかにわが君、村上の大軍の前に甘利、横田も討ち死になされましたが、これも今この時までの事
これほどに崩れた味方ではあっても唯一勝利する方法があります」
それを聞いて晴信は
「いかに諸葛孔明であっても、このような状況の中で勝利するなどの方法は思いつくまい、ここに居たまま討死するよりは、村上の本陣に切り込んで屍を戸石の戦場に晒すほかはあるまい」と言った

勘助はそれを首を左右に振って否定しながら
「さしもの名将も御歳若くましますから短慮に走るのは仕方なき事
されども危戦を挑まず、身を全うして始終の勝利を肝要といたすことこそが古今良将の成すところであります
これほどの不利な戦にも勝利の一手はあります」
晴信は不審な思いもするが
「なにか謀略があると申すのか」
勘助曰く
「今、敵は西から東のわが本陣めがけて攻め寄せています、これは水の高きより低きに流れる勢いがあります
これを備えを転じさせて、敵の馬頭を南に向けさせます、そうすれば味方は敵の横合いより突っ込んで勝利といたすことができます」
晴信は「その理はわかるが、今の味方の乱れた様で敵の勢を南に向けさせるなど不可能であろう」

勘助はそれにも応えて
「しからば後備えの諸角豊後守の七十名と、某の預かる二十五名を合わせて九十五騎、お預け願えれば某に敵頭を南に向ける一計あり、敵が南を向けば、君は采配を振って自ら一気に敵勢の横腹を突き前たまえ、わが方の勝利は盤石です」
これを聞いた晴信は満足して豊後守を呼びだし
「汝の勢七十騎を勘助に与えたまえ」と申す、勘助は急ぎ馬に乗りいずれも幟小旗を指した九十五騎を率いて、下澤の方から戸石村を大回りして、村上勢の更に南に回っていった。

この時、村上を抑える部隊は甘利、横田の大将が討死、残った小山田も手傷を負い、それでも三度まで村上勢を撃退したが、米倉丹後守の兵と甘利、横田、小山田の残兵も討ち死に、傷者多く
村上勢は1万騎、「武田晴信は元より、武田の兵は一人残らず討ち取って甲州へ返すべからず」と、ひたひたと押し寄せてくる。

ところが南の方の山陰に武田の旗、数多なびくのが見えた
これぞ勘助の百騎であり、僅かな手勢を幟に小旗をなびかせて、いかにも一手の加勢のように見せかける
村上義清は、これをみて勘助の策にハマってしまい、「これは新手の敵の後詰
このままに進めば、後ろを南から回られて前後に敵を受けることになる、急ぎ南の敵を攻めようぞ」
ついには東に向けた軍を戻し、南へと矛先を変えて進み始めた

晴信は「この時ぞ、敵は勘助の謀りにかかり南へ向き始めた、もし確実に南に頭を向けた時こそ、我らの勝利の時なり、者どもこの機を逃すべからず」と勇み立つ

勘助は、この時、戸石村から斜めに本陣へと立ち返り「この時を失うべからず、小山田備中勢は二の手を詰めて、村上の本陣へ横槍を突き入れるべし」と下知する。
旗本勢は朝から一戦もしておらず「早く早く」と勇み立ち、諸角豊後、安間三右エ門、曽根内匠介、教来石民部、春日弾正等、籠中の鳥、雲を出でたるが如し、一同に攻めかかる。



ドジャース22試合終わって 感想

2024年04月20日 19時37分00秒 | 野球
 前半は8勝3敗 後半は4勝7敗 あきらかに調子が下降気味だ
ベッツ一人が気を吐いて打撃では総合的にリーグトップを走っている
大谷も前半は移籍後ホームランが出なくて焦っただろうが、第一号が出て一安心4号まで来た、しかし後半になって日本人ホームラン記録で松井の175本に並んでから、またホームラン欠乏症が始まった。
もっともホームランがないだけでヒットは順調に稼いで、打率も.360をキープしている。

このベッツと大谷の.350コンビの活躍があって、昨日まで開幕21試合連続の初回、ベッツ、大谷、フリーマンのMVPトリオの1~3番打線が三者凡退にならない記録が続いていた。
それが今日、ついに途切れた。 前半調子よかったフリーマンが、後半調子が上がった大谷と入れ替わりで調子を落としている
ついに.260あたりまで落ちてきた、きょうもまったくいいとこなし
大谷も打率は.360だが、タイムリー欠乏症に陥っていて得点圏打率は.050あたりで低迷している。
チームが逆転というチャンスに大谷に巡ってくることが多いのに、三振や凡打という結果が多い、だから打点も未だ11くらいで打率のわりに少ない。
ベッツは得点圏打率6割くらいというから、こっちは大谷の10倍チャンスに強い、しかも一番打者だから下位打線が火を噴くと、それに続いて走者を返す打撃をしていることになる。
今のドジャースでチャンスに強いのはベッツと四番のスミス捕手、打率は.356
ベッツ、大谷、スミスで新.350トリオだ、スミスと、フリーマンを入れ替えてもいいかもしれない。
髭ヘルナンデスも前半はホームランをかっ飛ばしていたが、後半はなりを潜めた

山本は2試合勝利投手の権利を、リリーフ陣の失敗で潰されてしまった
ドジャースはエンジェルスと違ってリリーフ陣は強いと思ったが、そうでもなかったようだ。
勝ち試合を救援失敗で負けてしまう試合が目立つ、これも後半負け越してる原因だろう、先発陣はわりと安定しているのだが。
前半戦の打線はずっと5点以上試合を続けてきたが、後半は得点力が落ちてきて、ついには完封負けまで喫してしまった。

まだ22試合だから、この先、強さが戻ることもあるだろうし、逆に連敗街道を突き進むかもしれない
現状で言えば①大谷の得点圏打率があがること②フリーマンの調子が回復すること③中継ぎ陣が踏ん張れること、この三条件が回復すれば勝ち星は前半並みに復活できる。

背番号84、23歳のパヘスは期待できそうだ、今日は2塁打を打ち得点も上げた
5,6番を任されれば層も厚くなるだろう、楽しみだ。





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 76

2024年04月20日 08時42分52秒 | 甲越軍記
 甘利備前守討死、これにより味方は崩れ去るかと思った時
横田備中、小山田備中が敵の五頭の軍勢の中に駆け込み火花を散らす
されども味方は入れ替わる兵なく、敵は十倍の大軍勢が入れ代わり立ち代わりで攻め寄せる
ついに横田備中守も鎧の隙間を突かれた槍傷三か所、鉄砲丸二か所に受けて乱戦の中に討死
小山田備中は大小三か所の傷を負いながらも、なおも奮戦する

このとき戸石城中では守備兵が遠眼に見れば「スワ味方の後詰の大軍がやってきたぞ、我らも城内より打って出て晴信本陣へ突きかからん」と勢い立ち
城門を開き二千三百騎いっせいに弾丸の如く走り出た。

戸石城を取り囲んでいた武田方の先鋒の信州勢。栗原左衛門尉、芦田、川上、勝沼入道の中に突きいれば、信濃勢は後方での戦に気を奪われていたところに前からの城中の兵突きかかり、一度に崩れてしまった。
我先に西へ逃げ惑い大沼の中に追いやられた

これを見た城攻めの第二陣加藤駿河守、手勢三百余騎をもって城方の伸びた真ん中に突きいれる
城方は予期せぬ敵の出現で乱れた、それを見て芦田、川上勢も再び取って返し、城兵を打ち破った
城兵は思わぬ伏兵に戸惑い、再び城中に逃げ帰り門を閉じた
ここはひとまず勝利したものの、主戦場の武田方の不利に影響することは無い

晴信は本陣にあって戸石城周辺の戦を見ていたが西の方より、次々と注進の使者がやってきて
「すでに村上は目に余る大軍で攻め寄せ、甘利備前守お討死、横田備中守お討死、小山田備中守は手傷を負われながらも米倉丹後守と勢一つとなって奮戦中
しばらくは持ちこたえましょう」
晴信はついにここに至って進退窮まる、戸石城の者どもも引き上げたとはいえ、ますます村上方の有利を見て、再び打ち出でる様子在り
武田晴信、風前の灯火 危急なり。