神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

初春の高原 林の中を歩いてみた

2024年04月19日 20時16分15秒 | 散歩道
 昨日は東飯綱高原へ行って、のんびり数時間を過ごした
晴予報だったが、黄砂もあって一日中、青空は出てこなかった
1000mの高原は肌寒かったが、カメラを持って歩いた
ところがメモリーカードが挿入されていなくて、使えないというおそ松
それでスマホでの粗い写真しかない

まだシーズンオフで誰もいない林の中を一人で歩いたので、熊とかが薄気味悪かったが、林の魅力が勝った、川の流れなんかもあって気持ちよい
トレッキングコースになっていて道も案内板も整備されているから、どってことは無いんだけど、ビビリなんだよな。




歩いていると、鳥が近い、幾種類か見られた
最近は特に鳥の写真を撮りたいと願っているので、鳥に敏感になった
今日もヒヨドリに会った、ウグイスも鳴いている
あああ カメラ・・・残念







「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 75

2024年04月19日 08時06分02秒 | 甲越軍記
 このような危機に会っても晴信は少しも動揺せず、また左右の旗本もこの主にして、この将あり少しも騒がず毅然として敵の攻撃に備えている。

村上方は先陣を五隊に分けて、楽岩寺右馬助、井上九郎光興、須田大炊(おおい)綿内左内左衛門、牧島玄蕃允、その後ろは村上の本陣である。
先陣が遮二無二に攻め込んで、晴信本陣が崩れたら村上義清本隊が一気に攻め込んで晴信を討つと言う、思い切った布陣である。

先陣は早くも鯨波(とき)の声を上げて攻めかかる、まずは甘利備前隊、鉄砲を撃ちかけるが村上方は盾を並べてじわりじわりと攻め寄せてくる
村上先陣の五頭に加え、足軽大将小島五郎左衛門の隊も押し出しついには六頭揃えて攻め寄せる
寄せる村上勢は晴信の首取らねば更科に戻ること無し、守る武田勢もここで敗れれば甲州に戻ること無しと互いに思えば、互いに引かずの乱戦となる
されども村上方は大軍、討てども討てども波の如く次々に攻め寄せる。
中でも小島五郎左衛門は黒塗りの陣笠に耳を金にて覆輪とり朱を以て篠の紋を散りばめ、白糸縅の鎧、鉄の金物を打ち、大尺の馬にまたがり三尺九寸の太刀、熊の皮の尻鞘、大声で先頭に立って味方を励ます天晴なる勇士

ここは北は大沼、南は泥田で水が満々として入れば抜けることができない、ただひたすら正面の甘利、小山田隊を滅ぼすしか攻め口はない。
大軍が一度に付け入ることは不可能、ついに小島は馬から飛び降り、大身の槍を以て甘利勢の中に飛び込み、たちまち六、七人を突き殺す
さらに鬼人の如く目をカッと見開いて周囲を見渡し、またも当たるところから突き殺せば、ついには甘利、小山田勢は崩れて一町ほど引き退く

このとき、この場に居合わせた甲州勢の検視役、横田備中守、その子横田彦十郎は馬上より味方諸士の剛臆を見分していた
彦十郎は今年二十ニ歳、実は原美濃守虎胤の嫡子、備中守の養子となった
天文九年、甲州小荒間の戦で十六歳の初陣に功名を挙げ、今年に至るまで五度の功名を挙げた若者である

いま味方が崩れようとしているのを見て、馬から飛び降りて敵の中を押し分けて、小島五郎左衛門めがけて斬り入ろうとするのを、小山田備中が追いかけて馬上から「彦十郎、我らの役目は旗本として遣わされた検使である、もし検使たる我らが討ち死にでもしたら誰が味方の剛億を見て伝えるのか、検使は戦功見分が役目ぞ」と言えば
彦十郎は「厳父の申されることもっともなれど、時と場合というものがあります
もしここで味方の前線敗れて敵が本陣に切り込み、万が一大将軍討たれたならば、我らの見分は誰に伝えるのですか
味方が総敗北となる事態に安穏として見分などしていられましょうか
もし味方が勝って、我らが見分の職をおろそかにしたと咎められたら、父子共に切腹いたせばよいだけのこと
我において国家の大事を見ぬふりする気は毛頭ありません」と言い捨てて敵中に姿を消した。
備中守はこれを聞いて「負うた子に浅瀬を教えられ渉る」とはまさにこのことである、と言うと彼もまた槍を持って敵中に切り込んだ。

彦十郎は、思いのままに槍をふるって味方を倒す小島五郎左衛門に近づき、槍を合わせた。
いずれも剛勇の士なれば声も立てずに槍を突きあったが、横田の槍先が小島の二の腕に傷を負わせた
小島の槍に負い目を見た彦十郎は「今ぞ」と組み付き押し倒し首を掻かんとしたが、小島もしたたかに組み敷かれながらも右手指しを抜いて、彦十郎の草刷りを引き上げて刺そうとするところ「やさしき奴が振るまいよ」と彦十郎は言って、小島の小刀を取り上げ素早く小島の首を切り落とし、軍配と共に取り上げて仲間(ちゅうげん)に預けて本陣へ走らせた。
横田もまた槍傷、刀傷を四か所受けて朱に染まりながら、更に敵を求めて進みゆく

足軽大将の小島五郎左衛門が討たれて色めき立つ戦場で、甘利備前守は「検使までもが命のやり取りをする事態において、我もこうしてはおられぬ」と良き敵を求めて馬を走らせると楽岩寺の手勢に遭遇して、鬼人の如く、阿修羅のごとく切りまわって討った敵の数は知れず
太刀は曲がり、それを鞍に当てて押し曲げもどし、また敵を討つ
流石に疲労の色濃くなり、暫し馬を止めて休んだところに敵は鉄砲を撃ちかけると胸板を銃丸が貫き、ここに武田家を支えて来た重鎮甘利備前守は馬上から真っ逆さまに落ちて死んだ。




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 74

2024年04月18日 21時10分50秒 | 甲越軍記
 天文十五年となり、晴信は二十六歳になった
前年に諏訪頼茂が滅び、信州降参の大将、芦田下野守、相木市郎兵衛、依路、平沢らは武田方となり、この上は村上義清を攻め滅ぼすべしと策略を巡らせた。

信州小県郡(ちいさがた)戸石と云うところがある
この城は村上義清と小笠原長持の相持ちの城で、村上より薬師寺右近の舎弟、同弥次右衛門が千三百を率い、小笠原からは長澤右兵衛大夫を大将に千人、両家合わせて二千三百が籠っている。
これらは時々、武田方の海野へ兵を出して放火などを繰り返していたから、三月上旬に戸石を落すべく軍議を重ねた。

村上、小笠原とは別に伊那谷には伊奈衆が割拠していて、村上、小笠原に同心して武田と敵対しているから、いつ彼らが後詰となって横槍を入れてくるかわからない
その為、左馬之助信繁を大将にして、穴山伊豆守、小山田左兵衛尉、小幡織部正虎盛、金森若狭守を以て、下諏訪に向け塩尻口を押さえ伊奈衆、小笠原、木曽に備えた。
また板垣駿河守を大将にして、原美濃守を添えて碓氷峠に向けた、これは上野の上杉修理大夫憲昌(憲政)が村上勢に合力するという動きが見えるからだ
そのほかにも要所要所に兵を置いたので、晴信の手勢は四千百七十人で甲館を出発した。

三月十四日には戸石に到達して、まず栗原左衛門尉に、信州の降将、芦田、相木、川上入道、平沢らに千五百を与えて城の一番攻めに向かわせた。
芦田らは今日が武田方としての初陣であるから、なんとか手柄を立てようと鉄砲を撃ちかけて追手に押し出していった
城方も落とされまいと、魯の上から石を落したり矢を射かけて抵抗した
戸石に武田勢が押し寄せたと聞いて、村上義清は七千六百余騎を引き連れて後詰に向かった
さらに信州の諸勢力が二千騎加わり、総勢凡そ一万騎となった
楽岩寺左馬助、小島五郎左衛門を先鋒として西の方より押し寄せて来た。
晴信は、その押さえとして小山田備中、息子の同名彦十郎父子と甘利備前守を向かわせ。その間に城を攻め落とす策に出た。
しかし甘利らの勢は村上の一万に対して九分の一に満たない小勢である
しかし武田の軍法、「小敵を見て侮らず、大敵を見て恐れず」という
甘利らは本陣から僅か八、九町しか離れていない場所で陣を構えた
左右の沼地と水田を小楯として西に向けて盾を押し並べて、その後ろに鉄砲を並べて、村上の後詰に備えた。
晴信の本陣は城から五町ほど、その勢は僅か二千六百余騎、幹道の真ん中に床几を置いてそこに座した。
旗本を左右に配して、後方一町に諸角豊後守が七十騎でしまり備えとなっている
この危うき事は大山に卵を投げるが如しなり、西には村上の一万騎、東には戸石城の二千三百が後詰と合体するまでの間は、何が何でも城を守ると思い、堅固に防衛を固めている。
そして西からの援軍が武田勢を押しつぶせば、その時には城門を開いて二千の城兵、一気に晴信本陣へ切り込んで大将首を上げる算段である。


忙しさMAX

2024年04月18日 08時37分21秒 | yottin日記
 この3日間は、いろいろ続いてとうとう昨夜はブログを書く時間が無くなってしまった。
15日は夜中に虫歯が痛んで、朝一に歯医者へ行って治療してもらい、16日は花見で、つー君と二人で幹事になって、買い出しやらシート、クーラーボックスの調達、そんなで10時から17時まで、お花見で一日が終わった
家に帰ったら「手伝ってほしい」と船長から電話が来て、17日は早朝4時起きで港へ行った
午後2時までびっしり仕事をして、家に帰って風呂を沸かして隅々まで洗って、お出かけの支度
18時からは、先日の祭りでの手作り品販売の打ち上げを中華料理店で行った
始めてゆく店だったが、中華のコースは本格的な品が次々に出て、どれも素晴らしく美味しかった
花粉症や歯のこともあって、写真を一枚も撮らなかったのは不覚だった
しかし、久しぶりのアルコールだったが(家でも飲まないので)結構調子よく飲めて、二次会も参加して、カラオケも5曲ほど歌ってきた。
帰宅したのは23時、すぐに寝て今朝は5時起き
昨日もらってきた「まかない」の魚、(あんこう、ひらめ、かれい)の下ごしらえをしてから、今日はこれから、また長野へドライブするので息子と私の弁当を作ってから、昨日の大谷のHDDを早回しで見て
今ようやくブログを書いた。 そしてこれから長野へ行ってきます
戻ったら、また魚を料る仕事が待っている。
まあ天気が良いから、いいだろう。 黄砂がずいぶんやってくるらしい
今朝の日の出は、晴天なのに霞んでいた。
「では いってきま~す」




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 73

2024年04月17日 05時42分26秒 | 甲越軍記
 諏訪頼茂は、晴信の心籠った対応に喜び、これで小笠原、村上が攻め込んできても武田の強い絆が救ってくれることを確信した。

晴信は密かに仲間頭荻原弥右衛門を呼び「汝、頼茂の傍に寄って隙を見て刺し殺すべし」
荻原は次の間に去って、それから短刀を懐に隠して料理、菓子を持って給仕の体で頼茂に近づいた
そして頼茂が横を向いた刹那、懐の短刀で「えい!」と胸に一刺しすると、頼茂は匕首を抜いて荻原に切りつけたが、荻原はそれを奪って額から真向に切りつけたので頼茂はたちまち息絶えた。
騒がしさに気づいた諏訪頼高と従士十余人は匕首を抜き、荻原を討たんと切りかかった。
されどもここは甲府の館、多勢に無勢で武田の士に取り囲まれて、次々と討ち死にした、頼高一人が傷を負いながらも抜け出て、諏訪の供の者たち三百の中に逃れて、諏訪を目指して落ちのびた。

晴信は舎弟、左馬之助信繁を呼び「汝、直ちに諏訪へ向かい速やかに攻め落とすべし」と申し付けた。
信繁を大将に、板垣駿河守信形、日向大和守昌時を副将に三千七百騎をもって、信州諏訪に攻め寄せた。

諏訪の城では逃げ戻った頼高によって、頼茂だまし討ちが伝えられ、城中の女、子供はただただ恐れ泣き叫ぶばかりであった。
頼茂に男子なく、今年十六の娘があるばかり、頼高はもはや小笠原、村上とも敵対した上は城に籠っても勝ち目なし、城を出て戦うのみと三千騎を率いて、普文寺村と云うところに陣を張って待ち構えた。

武田勢、間もなく普文寺村に着き備える、その先陣は板垣信形、敵味方互いに矢石を飛ばして火ぶたが切られたが、板垣と言えば引くことを知らぬ荒武者ばかり、短兵急に攻めつける
諏訪勢も今日を最後と思えば、誰一人引かず戦場は手負い死亡数知らず
頼高は武田勢を切り破り、武田信繁の首を冥途の土産に持ってゆかんと、自ら三間槍を手に武田勢の中に飛び込んで、当たるを幸いに突きまくると諏訪の兵もこれに倣って打ち込めば、武田方は五、六町も押し込まれて下がった
頼高は敵の下がるのを見て、一息ついてから戦おうと小高い丘に馬を乗りあげているところに、武田の士、長坂左衛門尉という者あり
この人は、一昔前の戦、海尻の戦で勇無き振る舞いを行い、勘気を被って浪人となっていたが、なんとか帰参したいと思い槍を携えて戦場を見渡していたところ、小高い丘に名のある体の諏訪武士を認めて、これぞ天が与えた機会と丘を上っていった

長坂が近づいても、まだ頼高は気づかず、槍を繰り出すと緩めた兜の間から深々と背から胸まで突き抜けて、たちまち頼高は馬からどっと落ちた
頼高の仲間(ちゅうげん)らは驚いて長坂に切りかかったが、一人を槍で突き殺すと、残った仲間は一目散に坂を逃げ下りた。
長坂は頼高の首を取って、高々と差し上げると、諏訪の士が頼高の討ち死にを叫んだ。
これを聞いた諏訪の者たちは、これまでと散り尻になって逃げ去った
甲州勢が今日の戦いで取った諏訪方の首は三百二十余級という。
長坂が敵の大将、諏訪頼高の首を武田信繁の前に差し出すと、信繁は満足の表情となり、長坂はついに帰参を果たした。

その勢いのままに、諏訪の城へ攻め寄せると、もはや兵の姿はなく女子供ばかりであったから忽ち武田の手に落ちた。
女、子供を全て捕えて甲府へ連行した、板垣は直ちに諏訪の郡代を任せられた
連れ帰った諏訪の女たちの中でも、頼茂の娘は容貌尋常の美しさを超えていたので晴信は直ちに妾とした
その後、この妾は武田(諏訪四郎)勝頼を産む。

武田晴信、古今になき英雄であるが、諏訪頼茂をだまし討ちにして滅ぼしたことは一代の不義である。
だまし討ちにするのは「兵は詭道なり」と言って戦国では珍しいことではないが、諏訪頼茂は伯母婿である、しかも和睦して心許しているのに、まだ和議の血判も乾かぬうちに、これをだまし討ちするとは匹夫と言えどもやらぬ卑怯この上ない振る舞いである
さらに従妹である姫をさらって妾にして子を産ませるなど、天下の豪傑と賞される者の行えることではない、是晴信の生涯の汚点なり。




お花見 間に合った

2024年04月16日 19時50分40秒 | yottin日記
 今日は同級生とのお花見、14名ほどいるベストメンバーも何やらかにやらあって、結局、男4人、女2人の6人参加だった。
この頃はメンバーも自分か連れ合いのいずれかが不調で欠席することが多くなった
参加した6名だって、夫婦で健康なのは2人だけで、あとは何かとあって、それでも参加してくれて感謝、感謝!。
もうお互い先が見えてきて「この次ね」なんて言葉がいつむなしくなるかわからない。
出来るときにしておくのが、後々の悔いが残らない唯一の方法。

さて二年前に初めてメンバーの花見をして、今回が二回目
一回目は16日で、ほとんど花が散った後だったが、今日は花びらの舞はじめ、枝にはまだまだ花がついていてよい風景だった。



ここは標高100mの広い運動公園で、桜並木もあちこちに全体で100m以上は広がっている
今日初めて「メジロ」を見た、見たと言うより友達が「あれがメジロ」というから、そう思っただけで、実際は桜の高いところを「ちっちっつ」と可愛い声で鳴いたり、飛んだりしているだけで、顔なんか全然見えなかった。
カメラも油断して18-55mmだったので、どうにもならなかった。
それでもメジロが居ることがわかって、改めて散歩がてら写真を撮りに来ようと思った。







6人だけということもあって、楽しい時間を過ごしながらいたから12時半から17時近くまで、ずっと居た。
朝は激しい雨、昼までも雨が降っていたが、花見を始めたら上がって青空も見えて暑くなった。















「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 72

2024年04月16日 09時40分50秒 | 甲越軍記
 月日は早く、すでに天文十四年となった
正月の年始賀儀において、左右に居並ぶ重臣らを前に晴信は
「予は既に信州四家の輩と戦を続けてきたが、一度として敗れることなく来たのは、これ全て汝らの軍忠のおかげである
中にも諏訪頼茂はわが伯母婿であるが、父信虎の頃より不仲となり幾度も戦火を交えて来た、予の代になって頼茂が心を入れ替えて我らに従えば、村上、小笠原、木曽を滅ぼすことは容易となるであろう
故に諏訪へ使僧を使わせて和睦しようと思うが、どうであろうか」と言った

すると山本勘助が進み出て「この義は甚だ道理に叶っております、隣国の戦に手間取る間に、誰ぞが帝都に旗を入れたなら後悔しても後の祭りとなりましょう」
と言えば、一座の皆がこれに賛同した
晴信は早速、恵林寺の惟高、法成寺の策玄、栄昌院の大益和尚を召されて和議の事を話すと「かかることの取り持ちは我らの仕事ゆえ、お任せくだされ」と快諾して信州諏訪へ向かった。

諏訪信濃守頼茂は、このとき諏訪、伊奈(伊那)二郡の主として武略に優れた人であった、しかし信虎の傍若無人の振る舞いに「極悪非道の振る舞い、一族としても見逃すことできぬ」とついに義絶して相争う敵味方となってしまった。
しかし僅か二郡の主の為、一家だけでは信虎に抗えず、幸い小笠原、村上、木曽の諸侯みな信虎と敵対していることを幸いに、手を組んだ。

武田家は内紛あって信虎が駿河に追われると、武田の家督は若き晴信に移り
頼茂は今こそ信州四家力を合わせれば、いとたやすく武田家を滅ぼすことができると勇み立ち、天文七年の韮崎合戦から撚場、野辺山、蔦木の合戦と今年に至るまで八年の戦を続けたが一度も武田に勝つことが出来なかった。
戦の度に良臣を失い、今は後悔の念に襲われ和議の事さえ考えていたところに、武田家より三人の使僧が訪れて和議を勧めたので、まさに渡りに船と、大いに喜び、頼茂からも和議の使者を送り、以後水魚の交わりとなることを神文を送る。
三月二十三日には、武田左馬之助信繁が晴信の名代として諏訪に行き、頼茂と伯母に対面した。
小笠原、村上、木曽はこれを知って大いに怒り、連合の兵を諏訪に攻め上ると言う、これを聞いた頼茂はわが家だけで支えられるものではないと、さっそく武田に援軍を求めた。

四月二日、頼茂は諏訪頼高を伴って甲府にやって来た
晴信は大いにこれを喜び歓待した、頼茂も同じように喜んだ
五日には大蔵大夫を招いて猿楽を興行させ、膳には山海の珍味を並べて饗応の宴を催した。




思いがけない出来事 先生がびっくり!

2024年04月15日 18時54分14秒 | 病気と健康
 昨日は夜更かしをして寝たのは23時半
違和感を感じて目が覚める、時間は深夜1時だった、寝てさほど過ぎていない
奥歯が不快感、痛くはないが2日前から同様な兆候はあった
うがいをして寝たが、2時半にまた目が覚めた、それから痛みが始まって、最初は「ず~~~ん」だったが、そのうちに「ズキンズキン」に変わって、もう寝られない「こりゃ虫歯だ」何十年ぶりの虫歯の痛み
昔なら一家に一箱、富山の薬売りの配置薬が置かれてあったが、今はドラッグストア乱立で家にはおいてない。
歯が痛めば「ケロリン」粉を歯や歯茎に塗って応急痛み止めしたものだった。
ともあれ今の我が家には、そんなのが無い、まだ真夜中で朝まで寝ないで我慢か・・・「!」
口内炎の塗り薬があった、効くか効かぬかわからないが歯茎に塗って見た
そしてアイスノンをタオルで巻いて頭の下に敷いて寝た
10分も立たぬうちに寝入った。

朝起きて8時から大谷登場、ところがまたしてもロスは雨、大谷が移籍してからもう三度目の雨(二度目?)、雨ゼロに等しい球場と言うのにいったい
そして雨と言うと、山本の勝利が消え、そして今日はダルビッシュの勝利が消えた、ところがタナぼたではないがリリーフの松井が4人ぴしゃりで2勝目をゲット、ドジャースは負けた。
大谷はダルビッシュに3の0で今日は1安打という試合だったが、雨で1時間半遅れて、歯医者とダブって生中継は見られず残念だった。

レントゲン後、麻酔をかけて奥歯の患部を削って、神経を抜いて今回はお終い
花粉症中なのでくしゃみ出ないか心配したが、朝薬を飲んでいったので大丈夫だった
そのかわり眠い、先生が「麻酔きいてますか? 痛みないですか?」と聞いているが、私は別の患者に聞いていると思って返事をせず目をつぶっていた
先生が突然「起こします、きみすぐにうがいをしてもらって」と慌てた
何事かと思ったら、先生は私に「大丈夫ですか? 痛くないですか?」とまた聞き返したので
(ああ! 私に言ってたんだ)と初めて気づいて「ああ私ですか? 大丈夫ですよ、全然痛くないですよ」と答えた
「麻酔が効きにくい場所ですから」と先生
いくら呼びかけても私が目を閉じたまま返事をしないので、失神でもしたかと思ったらしい
そりゃあ失礼しました。

明日は花見なのでアルコールを飲めるかどうか、ちょっと心配。



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 71

2024年04月15日 08時32分05秒 | 甲越軍記
 その後、源五郎は信州のゆかりある寺院に住んで、雑役をして暮らしていたが、(このまま仏門修業をして僧侶となれば、父の菩提を弔いながら一生を過ごすのも孝道である)と考えてみたが
「一子出家すれば、九族天に生ず」(子が一人僧となれば、その一族は皆、極楽に生まれ変わることができる)ということであるから出家するのも良いが
「待てよ!」天地には自然の陰陽在り、東あれば西、北あれば南、父あれば子、君あれば臣、夫あれば婦あり、これみな一対ずつであり一つとして欠けたるものはない
人においては男女を一対として、天地がある限り人が産まれ、「三歳具足せり」(出家者が守るべき戒律)とも言う
出家の道は、「男女の交合を第一の煩悩として、自分の心をまずは清らかにして仏の心に至る修業に励むべし」などと言うが、それは凡夫の世から見れば陰陽雌雄の一対の道から外れた一本立ちの欠けた道であろう
世界の人の全てが仏門に入り、一人残らず仏法を信じたならば七十年を待たずして人類は消滅する道理である
天下に人が無くなれば、そこは畜生道に墜いるだろう、それならばあえて尊信の道を選ばずと思い、ついには寺を去った。

道中、つらつらと思いを巡らし「人として尊きは天子なり、天子はその種あり
諸侯は、その家系あり、庶人は賤しく、庶人の内には士農工商の四等があり、士は、その第一にあり、ゆえに我は士となってこの名を轟かせる働きをして、わが家名を再興させるのが父への孝行となるであろう」
天下を見渡せば、武田晴信公は当世若手の名将といい、わが本国の君である
さればこの大将に仕えて身を起こすべしと、十六歳の三月に甲府に参り
人を頼んで、まずはお小人から始めようと動き始めた。
しかしこの地には縁もゆかりも頼る人もなく、むなしく甲府の町をさまよい歩くだけであった
しかし己の才覚を信じ、立身出世を夢見ていたから何かの機会もあろうかと、したためた一通の願書はいつも懐に入れて歩いていた。

そんな四月のある日、武田晴信公は雲雀(ひばり)を獲ろうと自ら小鷹を伴って小人数にて外出した
その日の夕暮れ時、帰還する晴信の前に源五郎が道端にて平伏して、これを待っていた、そして晴信が通りかかると一歩前に進み出て、願書を高くさし出した
晴信は不審に思い「あれは訴人のようだが、訴状をここに持ってまいれ」と原美濃守に命じた
馬上にて、その訴状らしきものを読むと、それは仕官を求める願書であった
晴信はこれを読んで、ご機嫌斜めからず喜びの表情となって
「あれなる者は、父は豪富の民であったが遺産の田畑を捨て去り、家産を争わざるとは公平直実の者と見た、人物に見どころあるから召し抱えよ
農民であるから武芸のことなど知らぬであろうが障りはない、戦国の今であれば武芸は知らずとも事足りる、剣術は平和な世になって切るべきものが無くなり、その切り様の形を覚えるだけのことで何の益もない
戦場へ出て初めから切り覚えれば、これぞ真の修練である、予の近習として召し抱える」
源五郎は思いがけぬ光栄に、ただただ身が打ち震えることも忘れて歓び、忠勤して御恩に報いる決意をしたのであった。

これを見た士の中に様々な批評が起った
ある者は「このような事は武田家始まって以来の事である、たった今、出会った百姓を近習に取りたてるなど聞いたことがない」と
後にこれを聞いた晴信は「汝ら源五郎を傍に使うことをとやかく言っているそうだが、しかれども後々に驚くことが起るであろう」
この時、天文十一年、晴信は二十二歳、源五郎は十六歳の時のことである。
その後、しばらく源五郎の出番はなく過ごしたので、例の士たちは「やはり何も起こらぬではないか」など誹謗中傷を繰り返していたが、果たして今度の合戦での源五郎の目覚ましい活躍を目の前で見て、あらためて晴信の先見の明に舌を巻いたのであった。

甲府に戻った晴信は早速に、新たなる仕置きを行い
まず佐久、軽井沢から上州に抜ける要所の内山城には飫富兵部少輔を代官として置き、小諸には小山田備中守、岩尾城には村上勢の抑えとして真田弾正忠を置かれる。 此度の小山田との戦の勝利は山本勘助の奉公始めの勲功なり。



久しぶりの手作り海鮮丼

2024年04月14日 19時05分35秒 | 料理を作る・食べる
 家族の誕生日で久しぶりに包丁を握った
海鮮を食べるのもずいぶん久しぶり、この周りはずっと野菜と豚肉の生活
魚をスーパーで買うのも何かねー とはいうが漁場が点在するわが町では、スーパーと言えども侮るなかれ
バイヤー次第で魚屋並みの新鮮魚はある、優秀な鮮魚バイヤーとも付き合いがあったから「あのスーパーは大丈夫」なのも知っている。
あとは鮮度確認だけ、照明に騙されないためには「魚の黒目が輝いているか」
「魚の表面が乾いていないか」「腹が黄ばんでいないか、痩せていないか」が基準になる。

買ってきた食材 地元の真鯛 以下下ごしらえ終了後写真



地物ヤリイカ

地物 あじ

地物 あまえび(これは水揚げ2日位たっている でも甘みは2日目が一番)
小さく安いのを買って、身は指で簡単に押し出せる 大きいのは高い
小は、これで350円

アジ、マグロ

鯛は湯ぶりして皮つき、  養殖ブリ

ヤリイカの卵とゲソは湯がいて、おつまみ これが最高の珍味

頭と骨、薄腹は割って「潮汁」

完成 ごはん1合たっぷりの海鮮丼 お腹いっぱい