神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(234) 甲越 川中島血戦 61

2024年10月26日 17時57分07秒 | 甲越軍記
 かっては村上義清に与力していた楽岩寺右馬助、依右近進、和田、布下の地侍は村上没落後、信玄に臣従した
しかし義清への忠心は失せず、近年村上を助けている上杉謙信の義侠心に義勇を感じて、密かに謙信に寝返った。

天文二十三年六月、謙信は信州川中島に打ち出て、善光寺の東山に陣を張る
これを聞いた信玄も信州に馳出て、茶麿山に陣を敷く
同九日、謙信は信玄の陣に使い番を送って「明日、川中島に出て、清野宿を放火する」と伝えた。

翌十日に謙信は一万三千の軍勢を率いて清野に向かった
信玄は清野宿の放火を防ぐために、馬場民部少輔に三百五十騎に歩兵三千五百を添えて清野から高畑に至らせ、筑摩川を前にして陣を敷かせた
この陣は山本道鬼の秘中の陣形で必勝の罠を仕掛けた陣備えである

謙信は高見より、この陣形をじっと探り、その破りがたきことを悟ると、敵の四倍の勢でありながらも掛け合わず、静かに陣を引いた
信玄は、これを聞いて「さすがに謙信は明晰なる名将なり」と感じ入る
謙信は清野宿を焼くことならず残念に思い、虚空蔵山の城を攻めるとまたしても武田陣に伝えた
甲州勢の飫冨、馬場、小幡を始め諸将はこれを聞いて「謙信め血迷って自ら死地に入るとは、これこそ天の恵みなり、一人残さず打ち滅ぼす機会である」と勇み立つ
しかし信玄は思慮を巡らし「謙信ほどの智将がみすみすと死地に赴くとはあるまじきことなり、必ずや秘策を持ってのことである、さもなくば我らに知らせるなどあり得ぬ」と言って、越後軍の後追いを深く禁じた。
そして近頃何かと様子に不審在る、楽岩寺、布下らを飫冨、馬場、小幡に目を離さぬように申し付けて不審な動きないかと見張らせた

謙信は秘策を見破られて仕方なく虚空山から引き上げて、信玄の本陣の茶麿山の麓を、武田勢の姿無いに等しく、悠然と通って善光寺の彼方へと去った

その夜半、間道を通る怪しき者を飫冨の兵が捕らえた、これを尋問すると密書が見つかり、楽岩寺ら四将が武田勢が謙信を追って虚空山城の後詰に行ったのを見て後方から攻め立てて、越後勢と挟み撃ちにする謀りが明らかになった
信玄の胸騒ぎは誠に的を得ていたのであった
信玄は、この四将に切腹を命じた。

謙信は善光寺に五日間滞留して、四将の使いを待ったが現れず、事が漏れたと気づいて越後に兵を返した
信玄もまた、甲州へと帰って行った。


ネコ騒動 終わりのつづき

2024年10月26日 08時12分45秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん
 ネコの親子も大騒ぎの割にはあっさりと捕獲されて一件落着
今日になって実感がわいてきた、ほっとした気持ちが断然強い
こうしてかけがいのない命が三つ救われた
おそらく4~5匹は産んだに違いない、でも母親とここまでいたのは二匹だけ
命強い子猫だけが生き延びた、そしてこれからは家の中で天寿全うできる
こうしたことが何だか誇らしく思える、命を救ったことが嬉しくてしょうがない
ハッピーな気分だ、検査の結果、いずれもエイズ、白血病、感染症なし、母ネコだけワクチンを打った、子猫は体力を見てからだからもっと後になる

子猫を守り続けた母ネコ、少しホッとしたかな


母ネコ似のたくましいお兄ちゃんと、シャイな妹の三毛猫

もう蜘蛛の巣や埃だらけの、真っ暗な冷たい無人の小屋や縁の下でひもじい思いをすることも無いんだよ

長生きしてくれよ!
我が家の猫になる確率はゼロに等しいが一応名前は考えたのです、
母ネコは「サン」サンキュウのサン、太陽のサン、お兄ちゃんはラッキー、妹はハッピーって考えたんだけどね。
もし、この子らが保護に失敗してどこかに隠れてしまったら、哀れな野良猫になっていたのだ、薄汚れて痩せこけて、寿命も家猫の半分以下だろう、助けることが出来て本当に良かった、嬉しい。



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(233) 甲越 川中島血戦 60

2024年10月25日 17時10分19秒 | 甲越軍記
 戦が落ち着くと武田の本陣では首実検と論功行賞が行われた
信玄は馬場、小幡、小山田の先備えの諸将を賞した
されど戦はまだ続いており、甲州の虎、相州の龍は睨み合ったままである。

そうした緊張するところに、駿州臨濟寺の雪斎和尚と善徳寺の長老が戦場に訪れた
そうして北條氏康、武田信玄に向かい「隣国が干戈を交えるとは愚かなリ、北條も武田もわが今川家とは好み深い家同士である、今川から見れば肉親同士の戦であって、到底見逃せない」と言って調停に割って入り、ついには戦を辞めさせて、三家の和睦をも成立させた。

信玄の嫡子、太郎義信はすでに義元の娘との婚約あり、今川義元の息子、氏真を北條氏康の娘婿と定め、氏康の嫡男、氏政を信玄の娘婿とすることが約され、そして三方に引き上げて行った。

この度の戦では、馬場民部少輔景政、先駆けとしての軍功華々しく、今川家より慇懃の書を賜わる
また小幡入道父子の働きめざましく、のちに信玄が駿河を得た時、加嶋において百貫の地を小幡又兵衛に加増した。

弘治二年に三方同時にお輿入れあった、そのとき武田信玄はかって北条家に解き放った原美濃守入道清岩を所望する
氏康は深くこの勇士の返還を惜しんだが詮方なく甲州へと送り出した。

さて、越後では長尾景虎が去年、関東管領上杉憲政から管領職と上杉の姓、そして憲政から諱を賜り、上杉弾正少弼政虎入道謙信と名乗った
そして憲政に頼まれて相州に兵を出し、北條氏康としばしば合戦に及んだが、留守の間に、信玄は小笠原を滅ぼして、北條、今川と共に三国同盟を結んだ
これによって、駿河、遠江、相模、甲州、中信濃から北信濃にかけて一大敵対勢力国家が完成した

されども、剛勇無双の謙信は少しも怖れず、相模の陣を引き信濃に打ち出て信玄との一戦をもくろむ
重臣の長尾政景、宇佐美定行、千坂対馬、加地安芸、竹俣三河、三宝寺などの古老と明日の相模退口の評議を行っているところに、柴田因幡守治時十五歳が謙信の側にいたが進み出て
「この備えは甚だ不都合ではありませぬか、お歴々の皆様方もこれに同ずるとはいかがでありましょうや」と、恐れもせず申せば、謙信は大いに怒って
「くちばしの黄色い小倅が、歴戦の古老が定めた手配りを難ずるとはけしからぬ」と雷鳴の如し
すると因幡守は、畏まって少し後ずさりをして頭を地につけて申すに
「されば、某を今の今より、お暇を取らせ賜え、拙者はすぐに小田原に走り氏康の先鋒となって越後衆の退口へ攻め寄せましょう
このような備えの越後勢であれば、難なく切り崩して酒匂川よりこの方にて謙信公を討ち取るでありましょう」とこともなげに申す

謙信はしばし考えてから「その方の申す事は至極当然なリ、因幡守、器量抜群なり、明日の殿軍はそなたに任せよう」と言えば、因幡守は大いに喜び、手勢を引率して、少しの隙も無く殿軍を勤めれば越後勢は少しの危うきも無く相州を去る。



地球環境と魚の激減

2024年10月25日 06時07分12秒 | ニュースネタ
昨日は新湊へ鳥を探しに行っている間にネコの親子はあっさりと捕獲された
鳥は期待通りにはいかず、水鳥を少し見た程度
渡り鳥が少しずつ姿を見せて来た。




渡り鳥を見ると秋を通り越して冬の近さを感じる

昨日のKNBラジオでは魚津水族館の元館長が魚の激減を語っていた
特に鮭の激減が激しく、その原因はやはり地球温暖化だそうだ
我々はローカル的に地元の河川に鮭が帰ってこなくなったと言っているが、その原因はベーリング海など北洋にまで及ぶ

各地で稚魚の放流を行っているが、日本海、太平洋の海水温が上昇していて、稚魚は北洋に行く前に近くの海で死んでしまうらしい
また帰ってくる成魚も暑い海の為、故郷の川までもどれないらしい

さらにベーリング海では固有のカラフトマスと少ない餌の取りあいになっているという
海の温暖化は鮭だけでなく我々の口に入る多くの魚を減らしている
すでに台所の魚の半分は養殖である、これからの魚は多くが養殖魚になるのは仕方がないという。

海洋汚染、海水温上昇は人間の金もうけのためのエゴである
もはや人類はセーフティ装置が故障してしまっている
海、大気を汚染させて極地の氷を大量に溶かし、海洋温暖化物質を垂れ流し
まだ足りずに、世界の最高峰の叡智であるはずの大国のトップが、平気で核兵器の使用を口にする

広島、長崎の原水爆禁止団体がノーベル平和賞をもらったが、「そんなの知らん」とばかりに今日も人殺し戦争は続いている

また人間が狂ってきた、愚かな人間どもの共食いが始まる。




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(232) 甲越 川中島血戦 59

2024年10月24日 20時04分39秒 | 甲越軍記
 小田原の先備え、松田尾張守、笠原能登守の勢より大剛の者と思しき武者六騎出でて、細道を半町ほど進み、小高き丘に登り「伴五郎大夫、松村七左衛門、殿原靱負、志村太八郎」と名乗りて威を張る

これに答えて、武田方より小幡山城入道の一子、又兵衛二十一歳が名乗りを上げる、数々の戦で手柄をあげて得た感状は十一通の勇士
敵の六将の振る舞いを見てただ一騎にて駆け寄り、槍を引き絞って丘をはせ登ると同時にたちまち志村太八郎を突いて落し、五騎の敵と渡り合う
ただ一騎にて右に左に切って回り、追いつ追われつ馬躍らせて戦えば、小幡の中間、熊井孫四郎、藤右衛門が駆けつけて主を助けて戦う
又兵衛は虎の如く吼えて露ばかりの隙も無く、伴五郎大夫、殿原靱負を相次いで馬から下に突き落とす
松村七左衛門は驚き、鞭をあげて引き逃れるところ、又兵衛は飛鳥の如く飛び掛かり、揚げ巻き付けの板から斜めに肩まで突き抜き、また三人を討ち取れば、又兵衛の中間、熊井、藤衛門も残る二人を討ち取る。

小田原方の松田、笠原三百余騎は轡を並べてどっと攻めかかる
山城入道はこれを見て「又兵衛を討たせるな」と叫び、三百騎の真ん中へ諸鐙を合わせてわめいて入る
馬場民部少輔も「小幡父子を救え」と馳せ出れば、北條志水、大道寺の勢は松田、笠原を助けて討ちかかり、打ちあう太刀の光、電光の如く
鬨の声は天まで突き抜け、馬場勢には鵄(とび)大弐、早川豊後、金丸弥左衛門
小幡の組には、友松将監、加野権之助、安井、熊井戸らが攻め寄せる

小山田弥三郎勢は大道寺の勢に割って入り、無二無三に切って懸かる
大道寺勢はこれにこらえきれず乱れる、馬場の勢も笠原勢に食らいつき激しく戦えば、笠原勢も崩れ去る
これにより、松田、北條の勢も雪崩の如く崩れて刈屋川を渡って逃げる
北條の小将大橋備中、桑原左衛門尉は川中に留まって「取って返せや者ども」と下知するところに、小幡入道が追い迫り、川中にて大橋に組み付いて揉みあいながら水中に転げ落ちて、なおも上になり、下になって激しい死闘を繰り広げる、小幡は三か所の傷を負いながら、ついに大橋を取り押さえて首を掻き切り、采配を添えて首を本陣に送る
小幡又兵衛も遅れてやってきたが、桑原左衛門が引くところに刈屋川の向こう岸で追いつき、名乗りかけて行けば、桑原も取って返し、互いに勇猛な壮士なれば互角の力と技量、激しい戦いは撃っては引き、引いては突き太刀の目釘も折れるほどなり
ついには双方、太刀を投げすてて素手で組みあい、金剛力を出して力を競えば、やや又兵衛が力に勝り、桑原を下に敷いて首を掻き切り、これまた首と采配を本陣に引き渡す。






ネコ騒動 つづき

2024年10月24日 06時28分46秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん
 あの日は16時頃、久しぶりにフーテンの寅ネコがやって来たので、裏口から出て買い物に行こうと車に近づいたら、目の前の草むらから母ネコと子猫が出て来たので驚きました
初めて見るネコの親子、子猫はまだ2か月くらいでしょうか、その時は母ネコが三毛で、子猫が白と茶などで三匹子猫が居たと思ってましたが、昨日確認したら、母ネコは白に灰色、子猫は三毛と白に黒の二匹で、合計三匹
最初の一目は当てになりませんね、一目ぼれと同じで翌日には「え~?」となることも

さて、一昨日の16時に発見して、昨日保護団体の二人が午後15時過ぎゲージを持って訪れたのですが、昨日は朝から彼女らが来る前までは姿を現さず、どうしたものかと心配していましたが、ようやく母ネコがでてきてどこかに出かけて、子猫も少しだけ出てきました
そして団体の人が来たとき、ちょうどに母ネコが帰ってきました
少しも怖れず、その人たちの足元を通って隠れ家に行き、近くに置いた餌を見つけて母も子も交互に食べていました
その時は罠ではなく、餌付けで安心させるためでした、けれどあまりに猫たちが逃げないので、こっちも気を許して、あわよくば手の中に入ってくるような気になって側にいすぎたようです
母ネコは悠々としながらも警戒を怠っていなかったのです、相手が一枚上手でした。

夕方からゲージを三つ仕掛けて、彼女らは帰りました
夜から激しい南風が吹きまくり、わが家も二階が揺れるほどでした
朝も相変わらず激しい風、7時半にまた保護団体のSさんが来てゲージを確認、隠れ家もチェックしましたが、もぬけの殻
夜のうちに警戒した母ネコが子猫を咥えて、どこかに移動したようです
ついに姿を見せず、午後からは雨も降って来た
これでは一からやり直しだが、可愛そうではあるが家の前に居なければ、ちょっとホッとしたのも事実、探し回る義務は無いのですから
とはいえ、やはり保護してやりたいのも事実、子猫がカラス、ハクビシン、ヘビ(青大将)などに襲われる可能性もありますからね
野良猫のまま、育ってほしくないし、三毛猫は雌しかいないから確実に子を産む、また野良猫が増えるでは困りますから
ネコは一年で大人になって子を産むから、早期に保護が必要です
結局、私も探し始めて、近所の皆さんにも協力をお願いしました(目撃情報)
Sさんも写真を取ったので、捜索願いのチラシを作るので地域の回覧板に入れてもらってくださいと言ったので、了解しました。

ところが夕方Sさんが歩いていたら、偶然近くの家の物置にいるネコ親子を発見しました
事態は動き、かといっていきなり捕まえるとか、ゲージを目の前に設置しても、またどこかに逃げられるのが関の山
ここは雨も降っているし、じっくり作戦で行くしかない
とりあえずは、またゲージ無しの餌付けで安心させるしかない、腹が減ればまた最初の餌場に戻ってくる可能性もある
子供の居場所がわかったから、母ネコを先に捕まえても子猫の保護はできます

それで私が、物置の持ち主宅に行ってお願いしました
「物置に見に行かないでください」「追い出すようなことはしないでください、迷惑をかけますが、野良猫が増えればますますたいへんなことになるので、4,5日かかりますが保護活動に協力お願いします」と頼んだら心よく引き受けていただきました
いつの間にか、私も保護団体の人間になった気分に・・・
とは言え、抗がん剤投与中で免疫が落ちているから伝達係くらいにして、ネコには近づかないようにしています。

天気は今は雨模様、ネコは雨に弱いから雨の日はだめですね
明日からは回復傾向なので、そこから捕獲勝負ですかね、早く保護したい
ネコエイズとか白血病とかも怖いですから、早いうちに・・・・・。

フーテンの寅ネコは、近くでそんなことがあるのも気にせず今日も来て行きました、家を二軒持っているので余裕ですね、ネコカフェとは、うまいところを見つけましたね、まさにフーテンの寅さんです




これは飼い猫のようですね?












「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(231) 甲越 川中島血戦 58

2024年10月23日 20時10分54秒 | 甲越軍記
 武田信玄は小笠原を滅ぼして武威はますます高まり、謙信が信濃に攻め寄せた時の要害として、信州川中島の内、清野の館に城を築いた
山本勘助が縄張りをして僅か八十余日で普請を終わらせて、これを海津の城と名付けた。
小山田備中守昌辰が城主となり、二の曲輪に市川梅印与左衛門尉を入れ、小室の城には春日弾正を置いた。

同年極月、甲州にある浄土宗法を説いて人に勧めれば、法華信者の多くも浄土宗に帰依した
これにより法華宗の僧徒は大いに怒り、同二日には浄土宗の寺に押し掛けて宗論に及ぶ
原美濃守虎胤は法華宗の宗徒であり法華宗に肩入れして、浄土宗の寺を焼きはらい僧の衣を脱がせて追い払う
信玄は、これを聞くと大いに怒り、「その罪軽からず」と言えども、数回にわたって忠義の戦に励み手柄を立てる美濃守を死罪に問えず、所領を没収して、馬場民部少輔、内藤修理正、飫冨兵部少輔に護送させて相州小田原に送った
北條左京太夫氏康は弓矢の知識を得たと大いに喜んで、原を召し抱えて厚遇した。

天文二十三年、北條氏康は、今川義元と仲たがいして合戦に及んだ
義元は尾張の織田上総介とも度々戦に及んでいたので、相州、尾州の東西から敵を受けて難儀していたので、甲州の武田信玄に助成を頼んだ。

信玄は三月、これを受けて軍勢を富士の大宮通から厚原に打って出る
加島の柳島に本陣を置く
北條氏康は、嫡子氏政と共に出陣した、先陣の松田尾張守、笠原能登守、北條常陸介、志水、大道寺らを率いて天香久山に旗本を置き池熱の川端に本陣を据える。

甲州勢は先陣に馬場民部少輔、小山田弥三郎の組
勇将の十五騎、足軽七十五人を合わせて七百余人、真っ先に備える
両軍、たちまち火花を散らして縦横無尽に駆けては打ちあう

ここに甲州を追われた原美濃守は、小田原にありて北條に仕えていたが、紺糸の鎧に半月の経五尺ばかりなる前立てうちたる冑の真向に、原美濃守平虎胤入道清岩と象嵌を入れたるを猪首に着てまだらの馬に乗り馬を歩ませる

小幡山城入道の隊に向かって、にっこりと打ち笑い、そちらへは攻め寄せず、小山田弥三郎信茂の陣に向かって切って入る
小山田は、これを見て「あれなるはいかにも原美濃守に相違なし、馬上の骨柄、鎧着の見事さ、備え表への潮合といい、まことに天晴なる勇将なり
誰ぞ見習って高名せよ」と言えども、誰一人として、原に馬を向ける者がなかった

小山田に借り陣をしていた進藤何某という浪人は高名を表さんと、一騎駆にて原美濃守に名乗りを上げて撃って懸かる
美濃守はニコっと笑い、「やさしき進藤が振る舞いかな、閻魔の廟に訴えよ」と太刀を抜いて打ってかかり、受つ流しつつ打ちあうに美濃守は渾身の一撃を進藤の冑の吹き返しから首の骨にかけてしたたかに切り入れる
さすがは進藤、この傷にも耐えて弱りながらも死に物狂いで美濃守に切りかかるのを美濃守は二撃、三撃と撃てば、進藤はたまらず落馬した

原に続く武州の住人、太田源三郎は進藤の首を掻かんと馬から飛び降りるのを原は声をかけ「この者は甲州にて我が元へも度々出入りした者である、命あるならばそのままにして助けるべし」
二人は馬を並べて、早々と引き上げれば、その姿は天晴一騎当千の勇士と見えたり。








大谷がドジャースが楽しみ&衆院選挙

2024年10月23日 07時17分08秒 | 野球
 夜中から激しい南風が吹いて窓ガラスをガタガタとうるさく鳴らす
それは朝になってもおさまらず、まるで春の嵐のようだ
ありがたいことに温かい、ネコの母子も寒い思いはせずに済んでいる。

今週もワクワクが止まらない、もちろんドジャース対ヤンキースの大勝負の事だ
MLBが特別好きだったわけでもない、結局は特出した日本人メジャーを応援するわけで、当然ともなって所属チームのファンになる
それはチームメンバーを覚え個性を知るからだ
既に何十名もアメリカに渡ったがMLBで不変の活躍をする日本人選手は、早々いるわけではない
私の場合はドジャースの野茂で始まり、あとは長年イチローを応援し、今は大谷と、まだ三人でしかない
松井や松坂、黒田、ダルビッシュ、マー君など活躍した選手も大勢いるが、私の目に叶ったのは最初の三人だけである。
だから応援球団もドジャース2回、マリナーズ、エンゼルスの三球団だけだ
落ち目になったイチローさえ応援しない、とにかく絶頂期が長い選手を絶頂期だけ応援する、大谷はまだ年月が浅いが充分な実績を残し、この先どれだけ活躍するかわからない未知数だ

私は日本のプロ野球でもアンチ巨人で、いくらV9と言えども応援しなかった
私はずっと国鉄スワローズを応援していた、もちろん大エース金田正一だ
あの弱小チームで300勝を挙げて20年連続20勝、奪三振も素晴らしく、真っ向からストライクゾーンに速球を投げ込んでいく勝負師の姿に感動した
もちろんその時代には王、長嶋というこれまたスーパースターのライバルがいたから、なおさら面白かった、巨人は嫌いだが、王、長嶋は好きだった
強い者が好きなのだ、それが弱いところに居るのは尚更だ
大坂の陣の真田幸村のように弱気に味方して強気をくじく姿が素晴らしい
エンゼルス時代の大谷もしかり
巨人が嫌いなのだから、当然メジャーでもヤンキースは応援しない
だからドジャースがヤンキースに勝って世界一になれば最高なのだ
「くたばれヤンキース」という有名な言葉がある、あまりにも強すぎるから出る言葉、大相撲の北の湖がそうだった、そして朝青龍、白鵬もそうだった
だが大鵬や貴乃花にはそういう言葉はでなかった
日本人の美意識にすっぽりとハマっている力士だったからだ
イチローや野茂、大谷もまったく同じだ
日本人の勤勉実直誠実さが滲み出ている名選手だ。

今週のもう一つの楽しみは衆院選挙、自民党の苦戦が毎日伝えられている
この頃は投票前調査、出口調査で開票前に当選確実が出るので、面白くもなんともない、接戦のところだけが最後までワクワクする
私にとって選挙もワールドシリーズ同様にワクワクを与えてくれる娯楽番組である
与党だろうが野党だろうが、今の政界はさほど日本を変えてはくれないだろう
関心は物価高をどう鎮めるか、労働者の所得をどれだけ引き上げてくれるか、弱者をどこまで応援してくれるか、中国、韓国、北朝鮮、ロシア、アメリカに対してどのスタンスで、どこまで外交交渉をやる力があるのか
あとは高齢者の年金を少しでも豊かにしてもらいたい、そして卑屈外交をしなくても戦争をしないで、世界の中で影響力を持ち、世界の平和を守る政治家が望ましい。


ステッペンウルフSteppenwolf/ワイルドでいこう! Born To Be Wild (1968年)


散歩道 ネコ騒動

2024年10月22日 17時56分30秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん
 外出しようと玄関を出たら迎えの草むらの中から三毛猫成体が出て来た
白の中に明るい茶色が混じっている三毛猫だ
その後ろから、同じような白基調の子猫が二匹、ついて出て来た
どう見ても野良猫としか思えないが、みな野良猫とは思えないきれいな毛並みで、顔も可愛い




これは困った
ネコの命、知らぬ顔が出来ない私・・・困った
年齢的に飼うこともできず、抗がん剤で免疫低下だからかまうこともできず
困った
フーテンの寅ネコ(カート)、pee子もそうだったが、助けずにはおかれないのが私の弱点だ


車を走らせながら何か方法はないか考えた
これから寒くなる、子猫は一か月くらいか、けっこう元気で飛び跳ねているから今ならなんとかできる


女房殿はネコ道については私より詳しいから相談した
結果、保護猫団体に相談することにした
女房殿は、そんな関係三団体に顔見知りが居るので、そのうちの一人Sさんに相談した、彼女は保護猫団体の理事をやっている


まずは今夜、ネコの居場所にエサと水を置いて、明日食べてあれば、そこにいるし、食べてなければ移動している
保護団体は50km先の町に在るので、無駄足はできないので、まず確認
そこに居ついているならば、捕獲機で保護して病院で検査や去勢する
それから譲渡先を探すことになるそうだ



ただ、保護者が我が家になるので、知らん顔というわけにはいかない
これはとんだ災難
「じゃあいいです」と言いたいところだが、ネコが可哀そう
せめて冬は屋根の下で暮らさせてやりたい、貰い手があれば尚更良いが
とにかく可愛い子猫なのだ
今日は夕方に団体の方が二名やって来た、母ネコは落ち着いていて逃げる様子はないが警戒している
子猫は無邪気に遊んでいる、おとりの餌をやったら親は子が食べるまで見張りをして待ってから、自分が食べ始めた、ネコながら立派な母性本能
親とは言え、まだ1歳から2歳くらいだという
明日は早朝から保護活動を開始するそうだ。



夕暮れの散歩道、日が暮れるのもどんどん早くなる。

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(230) 甲越 川中島血戦 57

2024年10月22日 06時39分33秒 | 甲越軍記
  小笠原大膳大夫長時は桔梗が原の戦に敗れて、深志の城に逃げ籠り、敵が寄せ来れば城を枕に討死との覚悟を定めて、最後の決戦に備えた
翌十日には武田勢が深志の城に攻め寄せて来た
しかし信玄は、すぐには城攻めをせず十重二十重に取り囲んで、日夜鬨をあげて勢いをなし、城兵を休ませず疲労困憊に追い込んだ。

やがて晴信は、花形民部左衛門、河野丹後守を城中に送った
そして小笠原に申すには「武田、小笠原は元は兄弟の家と言えども矛盾に及び干戈を交えることとなった、いかに武の倣いと言えども我は骨肉の小笠原を攻め滅ぼすこと士卒を殺すこと忍びず、長時が城を明け渡せば、我らは無用の殺生に及ばず」と申せば
長時は「運が尽き、弓矢折れて城を枕に討死するは武の本意であるが、累代の武士を意地のために殺すのは忍びない、恥を凌いで晴信の申し出を承る、城兵を助けるならば速やかに城を明け渡す」と言って、互いに証文を交わして、長時は諸士を率いて城を出た。

信玄は城に日向大和守昌時を城代として入れて、長時に幕下として我に属するならば少しの所領を与えようと三度にわたり説いたが、長時は心中(同肉を食らう悪逆非道な悪人に従ういわれはない、このような不義の者にはいずれ天罰が下るであろう)と思い、信玄の誘いに乗ることなく信州を去り、摂州(大阪)芥川に至り、一族の三好修理大夫長慶を頼り、二十四年にわたり住んだ、三好家が織田信長によって滅んだあとは、永禄十二年北越へ至り、上杉謙信入道を頼り十六年の滞留をして、天正十二年、謙信の養子景勝、景虎の御盾の乱に巻き込まれたのち陸奥に至る
会津黒川に於いて、家人坂西という者に害されたことは、まことに惜しむべき
享年70という。

*yottin補足 深志の城というのは現在の松本城ではなく、松本城から東に入った山城の林城の事である、美ケ原へ向かう里山辺集落付近にある双胴の山城である。