引き続き下河原線と101系にまつわる写真や証言などを収集しているのですが、競馬の大きなレースが開催された日に東京や千葉から乗り入れたとされる直通電車の待機場所に関する興味深い情報を発見しました。これについては本稿の後半でご紹介しますが、これと少し関係する写真をまず載せていきたいと思います。
武蔵野線にその任を譲って下河原線の旅客営業が終了したのが1973年(昭和48年)3月31日。それから6年後の1979年に廃線跡を歩いていました。貨物営業は1976年(昭和51年)まで続いていたそうなので、鉄道としての機能廃止から数えると3年後で、まだ線路や架線柱がかなり残された状態でした。
フィルムカメラ時代で学生の身分となれば撮影枚数も限られます。もっと撮っておけよと当時の自分に言いたい気持ちを抑えて下図の地点から見た当時の下河原線の様子をご覧いただきます。撮影は1979年の春と思われますが詳細な日付は不明です。なお、地点⑥のみ、スキャンしたはずの写真もデータも行方不明になってしまったのでナシです。本当は今回のテーマに直結する貴重な写真なんですけど・・・。
(出典:国土地理院地図(電子国土Web)をベースに、下河原線ルートや撮影地点を加筆)
【地点①】
京王線との立体交差地点を南側からとらえた写真で6000系が通過しようとしています。右手が府中駅方向で、当時京王線は盛土の上を走っていました。左手の柵には布団が干してあるなど日常風景が広がっていますが、右手の線路脇にはゴミが散乱していて廃線の悲哀も感じられます。
【地点①拡大】
写真を拡大してみます。奥の方ではトラックが乗り入れていて既に施設の撤去作業が進んでいるようです。ほぼ同時期に撮影されたと思われるブログをどこかで拝見しましたが、ちょうどこの撮影地点も線路が剝がされて道路整備が始まっており、まさにギリギリのタイミングで記録できたのだなぁと感じたものでした。京王線の向こうに見える印刷会社は今も営業しているようです。
【地点②】
掘割になった南武線を越える鉄橋を南側から撮影しています。非常に高さの低いプレートガーダー端で、すぐ下を南武線が走っていたように記憶しています。
【地点③】
撮影地点が曖昧ですが、コマの順番からみて恐らく都道18号(鎌倉街道)と交差する踏切跡と思われる道路を北側から撮影しています。前方に多摩川対岸の丘陵が見えます。
【地点④】
分岐点です。左が東京競馬場前駅方向ですでに線路は撤去され、舗装はされていないものの写真のように地元の人の散歩道として使われているようでした。右が貨物線だった下河原駅方向で遠方に中央自動車道の高架橋が見えています。分岐器が一切撤去されていて、旅客営業廃止後も貨物線として活きていた様子がうかがえます。
【地点④拡大】
貨物線方向を拡大してみると中央道を越えた先まで架線柱が残っていることが確認できます。この区間はDD13が牽くミニ貨物列車の写真がよく出てくるので非電化と思っていたのですが、今回写真を改めて見返してみて架線柱の存在に気付きました。
【地点⑤】
東京競馬場前駅の跡地です。線路や架線柱などは一切撤去され舗装もされていますが、現在のような遊歩道としての整備はまだのようです。無邪気に走る女の子は、今では成人前後のこどもをもつお母さんになっているかも知れません。
【地点⑥】
先述のとおり写真紛失です。河原に出る手前の小道と交わる風景の中に架線柱の終端が写っていたはずです。ああ残念。。
【地点⑦】
多摩川の河原に出てきたところで菜の花畑の向こうの盛土が廃線跡です。水路を越えるような小さな鉄橋が確認できます。架線柱はなく非電化であることがわかります。もう少し左手に進むと下河原駅跡で恐らくまだ複数の構内線路が残っていたのではないかと思われますが、残念ながら記録はこのコマで終わっていました。
ということで今から44年前の下河原線の廃線跡をご覧いただきましたが、冒頭に書いた興味深い情報とは次のとおりです。
「中央高速付近より河原に向かって(左の荷はサントリーのビール瓶の山、この置き場は今も健在)。大きなレースのとき、101系がここに留置されていたことがありましたね。」
※「倶楽部旅鉄」(旅と鉄道風景ーJIJIのフォトログ)様の投稿記事より引用
なんと、東京(や千葉)からの直通電車(101系7連)がサントリー武蔵野工場脇の貨物線区間で待機していたというのです。東京競馬場前駅方向への分岐点を越え、さらには中央道をも越えた先まで架線が張られていた理由が分かりました。
当時の航空写真を使って日本ダービーの日を再現してみました。サントリー武蔵野工場(の倉庫エリア?)の脇には東京から満員の競馬ファンを降ろしたばかりのオレンジバーミリオンの101系7連、東京競馬場前駅の閑散時は使わない2番線には千葉からはるばるやってきたカナリアイエローの101系7連が待機しています。そして1番線に到着したラッシュ用の101系5連からは、これまた大勢の競馬ファンが新聞片手に改札口を目指しています!
(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス(1974年12月21日撮影)に加筆)
と、まあこれは妄想なので鵜呑みにしてはいけませんが、101系電車がここまで入線していたことは確かなようです。航空写真をみると小さな水路様のものが何本か横切っていることは確認されるものの、踏切は無いようなのでこうした裏ワザが出来たのでしょう。あと、休日なら貨物も休みだったでしょうし。
興味は尽きない「下河原線を走った101系」証言集。皆さまも何か小耳に挟んだ情報・写真などあればお寄せください。
武蔵野線にその任を譲って下河原線の旅客営業が終了したのが1973年(昭和48年)3月31日。それから6年後の1979年に廃線跡を歩いていました。貨物営業は1976年(昭和51年)まで続いていたそうなので、鉄道としての機能廃止から数えると3年後で、まだ線路や架線柱がかなり残された状態でした。
フィルムカメラ時代で学生の身分となれば撮影枚数も限られます。もっと撮っておけよと当時の自分に言いたい気持ちを抑えて下図の地点から見た当時の下河原線の様子をご覧いただきます。撮影は1979年の春と思われますが詳細な日付は不明です。なお、地点⑥のみ、スキャンしたはずの写真もデータも行方不明になってしまったのでナシです。本当は今回のテーマに直結する貴重な写真なんですけど・・・。
(出典:国土地理院地図(電子国土Web)をベースに、下河原線ルートや撮影地点を加筆)
【地点①】
京王線との立体交差地点を南側からとらえた写真で6000系が通過しようとしています。右手が府中駅方向で、当時京王線は盛土の上を走っていました。左手の柵には布団が干してあるなど日常風景が広がっていますが、右手の線路脇にはゴミが散乱していて廃線の悲哀も感じられます。
【地点①拡大】
写真を拡大してみます。奥の方ではトラックが乗り入れていて既に施設の撤去作業が進んでいるようです。ほぼ同時期に撮影されたと思われるブログをどこかで拝見しましたが、ちょうどこの撮影地点も線路が剝がされて道路整備が始まっており、まさにギリギリのタイミングで記録できたのだなぁと感じたものでした。京王線の向こうに見える印刷会社は今も営業しているようです。
【地点②】
掘割になった南武線を越える鉄橋を南側から撮影しています。非常に高さの低いプレートガーダー端で、すぐ下を南武線が走っていたように記憶しています。
【地点③】
撮影地点が曖昧ですが、コマの順番からみて恐らく都道18号(鎌倉街道)と交差する踏切跡と思われる道路を北側から撮影しています。前方に多摩川対岸の丘陵が見えます。
【地点④】
分岐点です。左が東京競馬場前駅方向ですでに線路は撤去され、舗装はされていないものの写真のように地元の人の散歩道として使われているようでした。右が貨物線だった下河原駅方向で遠方に中央自動車道の高架橋が見えています。分岐器が一切撤去されていて、旅客営業廃止後も貨物線として活きていた様子がうかがえます。
【地点④拡大】
貨物線方向を拡大してみると中央道を越えた先まで架線柱が残っていることが確認できます。この区間はDD13が牽くミニ貨物列車の写真がよく出てくるので非電化と思っていたのですが、今回写真を改めて見返してみて架線柱の存在に気付きました。
【地点⑤】
東京競馬場前駅の跡地です。線路や架線柱などは一切撤去され舗装もされていますが、現在のような遊歩道としての整備はまだのようです。無邪気に走る女の子は、今では成人前後のこどもをもつお母さんになっているかも知れません。
【地点⑥】
先述のとおり写真紛失です。河原に出る手前の小道と交わる風景の中に架線柱の終端が写っていたはずです。ああ残念。。
【地点⑦】
多摩川の河原に出てきたところで菜の花畑の向こうの盛土が廃線跡です。水路を越えるような小さな鉄橋が確認できます。架線柱はなく非電化であることがわかります。もう少し左手に進むと下河原駅跡で恐らくまだ複数の構内線路が残っていたのではないかと思われますが、残念ながら記録はこのコマで終わっていました。
ということで今から44年前の下河原線の廃線跡をご覧いただきましたが、冒頭に書いた興味深い情報とは次のとおりです。
「中央高速付近より河原に向かって(左の荷はサントリーのビール瓶の山、この置き場は今も健在)。大きなレースのとき、101系がここに留置されていたことがありましたね。」
※「倶楽部旅鉄」(旅と鉄道風景ーJIJIのフォトログ)様の投稿記事より引用
なんと、東京(や千葉)からの直通電車(101系7連)がサントリー武蔵野工場脇の貨物線区間で待機していたというのです。東京競馬場前駅方向への分岐点を越え、さらには中央道をも越えた先まで架線が張られていた理由が分かりました。
当時の航空写真を使って日本ダービーの日を再現してみました。サントリー武蔵野工場(の倉庫エリア?)の脇には東京から満員の競馬ファンを降ろしたばかりのオレンジバーミリオンの101系7連、東京競馬場前駅の閑散時は使わない2番線には千葉からはるばるやってきたカナリアイエローの101系7連が待機しています。そして1番線に到着したラッシュ用の101系5連からは、これまた大勢の競馬ファンが新聞片手に改札口を目指しています!
(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス(1974年12月21日撮影)に加筆)
と、まあこれは妄想なので鵜呑みにしてはいけませんが、101系電車がここまで入線していたことは確かなようです。航空写真をみると小さな水路様のものが何本か横切っていることは確認されるものの、踏切は無いようなのでこうした裏ワザが出来たのでしょう。あと、休日なら貨物も休みだったでしょうし。
興味は尽きない「下河原線を走った101系」証言集。皆さまも何か小耳に挟んだ情報・写真などあればお寄せください。
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