こんにちは。
前回は鹿児島市内のホテルに投宿するところまで当時の記憶をトレースしてみました。
今回はその翌日に回った鹿児島周辺の様子と、再び夜行で向かった北九州方面のスナップをご紹介します。
1980年(昭和55年)8月28日の早朝の鹿児島市中心部の様子。夜中に降った雨が上がり、薄日が反射する路面の中央をゆく市電を望遠でとらえています。
撮影場所の記載がなかったので左端に写っている「永田産婦人科」を頼りに調べたところ、西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)前から左手に伸びる県道が甲突川を渡る「高見橋」から市街地中心部方面を撮っていることがわかりました、駅に近いホテルに泊まっていたようです。
同じ場所をGoogleマップのストリートビューで表示してみました。市電軌道はセンターポール化され、車両も低床の1000形「ユートラム」と近代的な姿に生まれ変わっています。左手一帯も大きなビルに建て替わり、先の産婦人科はなくなってしまったようです。
市内観光を少ししたようで西郷隆盛像の写真なども残っていました。そしてこちらは鹿児島港の写真で「第二十折田丸」という船が写っています。調べたところ、折田商船が屋久島航路で運航していた船ということがわかりました。総トン数は353トン。現在運行されているフェリー「屋久島2」が3,392トンだそうですので時代の流れを感じます。
市電600形612号車と市営バスの後ろ姿をとらえたこの写真。左手に「ナヤ通り東口」、右手には「中町通り」と書かれたアーケードの入口が見え、市内随一の繁華街にある「いづろ交差点」の南東角から撮っているようです。右手に進むと老舗デパートの「山形屋」があり、現在この一帯の歩道は屋根付き歩道として整備されています。
市電の行先は「3伊敷町」とあり、鹿児島駅前からやってきたこの電車はこの交差点を右折し、天文館通、鍛冶屋橋を経て伊敷町まで結んでいましたが、この撮影から5年後の1985年(昭和60年)9月いっぱいで鍛冶屋橋~伊敷町間が廃止されたとのことです。
左後方に写っているバスは、当時関東ではほとんど見ることのできなかった西日本車体工業製のボディを架装したバスで、屋根部分がまるで蒲鉾のように見えることから「カマボコ」の愛称で呼ばれていました。ナンバープレートは写っていませんが、エンジンルームのメッシュの形状などから恐らく日産ディーゼル4R94型ではないかと思います。
続いての写真は伊集院駅の様子をとらえています。3番線から発車していく鹿児島本線の普通列車の最後尾はキハ47ですが、柱に隠れたその隣車両は車体裾がストレートで非冷房にも見えるので、キハ26又は55ではないかと思います。奥は鹿児島交通枕崎線のキハ100形。国鉄キハ07に範を取った流線型気動車で、朱色の塗色と相まって、初めて見た当時は強烈な印象を受けました。
上の写真では写っていませんでしたが、単体で撮ったこちらの写真で104号車であったことがわかります。駅舎に接したホームは2番線で、車両の裏手に1番線がありました。
キハ100形がたむろする加世田駅。ホームは未舗装、上屋は木造で、半円形のガラリや、柱と梁をつなぐ“方杖”が緩いカーブを描いているところなど、随所にモダンなデザインが見られます。加世田駅跡は現在バスターミナルになっており、一隅に「南薩鉄道記念館」が開設されてキハ100形も保存されているとのことです。
加世田の写真があるということは鹿児島交通に乗っているはずなのですがまったく記憶にございません(笑)。恐らくそのまま乗り通して枕崎へ向かったはずで、次の写真の裏には「指宿枕崎線より望む開聞岳」との記載があります。別名「薩摩富士」とも呼ばれるその姿は見事な円錐形をしているのですが、この時はあいにくの天気で、中腹から上はすっぽり雲に覆われていました。
そしてこの日の最後の写真は、指宿駅に進入するキハ58(不鮮明ですが152か?)を先頭にした4連の普通列車。これに乗って西鹿児島へ戻ったはずです。キハ58と腕木式信号機の組み合わせが泣かせますね。
この日の晩は再び夜行列車で北九州方面へ戻っているはずで、鹿児島本線回りの「かいもん」か日豊本線回りの「日南」のどちらかに乗ったはずなのですが、途中の写真も記憶もなく、手掛かりはつかめませんでした。
そして翌日の早朝に撮ったと思われるこの写真は撮影場所が「小倉」とだけ書かれています。被写体はエンジ色にクリーム帯の西鉄北九州市内線用1000形で、ブレていて車号がよく読めないのですが、1032A-Bの連接車ではないかと思われます。右端に第一勧業銀行すなわち今のみずほ銀行が写っており、タクシーのボンネットの向うにわずかに写っている電停の名前が「?町」と読めるので、魚町電停の南側から小倉駅方向を見て撮ったものであることがわかりました。それにしてもすごい雨に見舞われています(^^;
こちらは小倉駅4番ホームに停車中の南福岡行421系普通電車。F-16編成のようです。リバイバルではない正真正銘のローズピンク塗装ですが、さすがに車体裾の60Hz識別帯は巻かれていません。すき間風か雨対策か、貫通扉周囲がガムテープで目張りされています。
アルバムの最後は筑豊電鉄の筑豊直方駅でのスナップでした。先ほどの西鉄1000形を譲り受けた車両で、1022A-Bの連接車です。筑豊直方駅は高架駅ですが、これは将来の延伸に備え、国鉄線を越えるために高架駅とされたものだそうですが、結局延伸は実現しませんでした。
こちらは同じ1000形の中間に1両挟み込んだ3連接車体をもつ1055A-C-B編成です。前面に「3両連接車」と縦書きされた円形サボが掲げられています。ホームの雨水をかき出したのでしょうか、左のベンチ周りにはモップやらバケツが置かれています。この後も雨にはずいぶんと祟られました。
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前回は鹿児島市内のホテルに投宿するところまで当時の記憶をトレースしてみました。
今回はその翌日に回った鹿児島周辺の様子と、再び夜行で向かった北九州方面のスナップをご紹介します。
1980年(昭和55年)8月28日の早朝の鹿児島市中心部の様子。夜中に降った雨が上がり、薄日が反射する路面の中央をゆく市電を望遠でとらえています。
撮影場所の記載がなかったので左端に写っている「永田産婦人科」を頼りに調べたところ、西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)前から左手に伸びる県道が甲突川を渡る「高見橋」から市街地中心部方面を撮っていることがわかりました、駅に近いホテルに泊まっていたようです。
同じ場所をGoogleマップのストリートビューで表示してみました。市電軌道はセンターポール化され、車両も低床の1000形「ユートラム」と近代的な姿に生まれ変わっています。左手一帯も大きなビルに建て替わり、先の産婦人科はなくなってしまったようです。
市内観光を少ししたようで西郷隆盛像の写真なども残っていました。そしてこちらは鹿児島港の写真で「第二十折田丸」という船が写っています。調べたところ、折田商船が屋久島航路で運航していた船ということがわかりました。総トン数は353トン。現在運行されているフェリー「屋久島2」が3,392トンだそうですので時代の流れを感じます。
市電600形612号車と市営バスの後ろ姿をとらえたこの写真。左手に「ナヤ通り東口」、右手には「中町通り」と書かれたアーケードの入口が見え、市内随一の繁華街にある「いづろ交差点」の南東角から撮っているようです。右手に進むと老舗デパートの「山形屋」があり、現在この一帯の歩道は屋根付き歩道として整備されています。
市電の行先は「3伊敷町」とあり、鹿児島駅前からやってきたこの電車はこの交差点を右折し、天文館通、鍛冶屋橋を経て伊敷町まで結んでいましたが、この撮影から5年後の1985年(昭和60年)9月いっぱいで鍛冶屋橋~伊敷町間が廃止されたとのことです。
左後方に写っているバスは、当時関東ではほとんど見ることのできなかった西日本車体工業製のボディを架装したバスで、屋根部分がまるで蒲鉾のように見えることから「カマボコ」の愛称で呼ばれていました。ナンバープレートは写っていませんが、エンジンルームのメッシュの形状などから恐らく日産ディーゼル4R94型ではないかと思います。
続いての写真は伊集院駅の様子をとらえています。3番線から発車していく鹿児島本線の普通列車の最後尾はキハ47ですが、柱に隠れたその隣車両は車体裾がストレートで非冷房にも見えるので、キハ26又は55ではないかと思います。奥は鹿児島交通枕崎線のキハ100形。国鉄キハ07に範を取った流線型気動車で、朱色の塗色と相まって、初めて見た当時は強烈な印象を受けました。
上の写真では写っていませんでしたが、単体で撮ったこちらの写真で104号車であったことがわかります。駅舎に接したホームは2番線で、車両の裏手に1番線がありました。
キハ100形がたむろする加世田駅。ホームは未舗装、上屋は木造で、半円形のガラリや、柱と梁をつなぐ“方杖”が緩いカーブを描いているところなど、随所にモダンなデザインが見られます。加世田駅跡は現在バスターミナルになっており、一隅に「南薩鉄道記念館」が開設されてキハ100形も保存されているとのことです。
加世田の写真があるということは鹿児島交通に乗っているはずなのですがまったく記憶にございません(笑)。恐らくそのまま乗り通して枕崎へ向かったはずで、次の写真の裏には「指宿枕崎線より望む開聞岳」との記載があります。別名「薩摩富士」とも呼ばれるその姿は見事な円錐形をしているのですが、この時はあいにくの天気で、中腹から上はすっぽり雲に覆われていました。
そしてこの日の最後の写真は、指宿駅に進入するキハ58(不鮮明ですが152か?)を先頭にした4連の普通列車。これに乗って西鹿児島へ戻ったはずです。キハ58と腕木式信号機の組み合わせが泣かせますね。
この日の晩は再び夜行列車で北九州方面へ戻っているはずで、鹿児島本線回りの「かいもん」か日豊本線回りの「日南」のどちらかに乗ったはずなのですが、途中の写真も記憶もなく、手掛かりはつかめませんでした。
そして翌日の早朝に撮ったと思われるこの写真は撮影場所が「小倉」とだけ書かれています。被写体はエンジ色にクリーム帯の西鉄北九州市内線用1000形で、ブレていて車号がよく読めないのですが、1032A-Bの連接車ではないかと思われます。右端に第一勧業銀行すなわち今のみずほ銀行が写っており、タクシーのボンネットの向うにわずかに写っている電停の名前が「?町」と読めるので、魚町電停の南側から小倉駅方向を見て撮ったものであることがわかりました。それにしてもすごい雨に見舞われています(^^;
こちらは小倉駅4番ホームに停車中の南福岡行421系普通電車。F-16編成のようです。リバイバルではない正真正銘のローズピンク塗装ですが、さすがに車体裾の60Hz識別帯は巻かれていません。すき間風か雨対策か、貫通扉周囲がガムテープで目張りされています。
アルバムの最後は筑豊電鉄の筑豊直方駅でのスナップでした。先ほどの西鉄1000形を譲り受けた車両で、1022A-Bの連接車です。筑豊直方駅は高架駅ですが、これは将来の延伸に備え、国鉄線を越えるために高架駅とされたものだそうですが、結局延伸は実現しませんでした。
こちらは同じ1000形の中間に1両挟み込んだ3連接車体をもつ1055A-C-B編成です。前面に「3両連接車」と縦書きされた円形サボが掲げられています。ホームの雨水をかき出したのでしょうか、左のベンチ周りにはモップやらバケツが置かれています。この後も雨にはずいぶんと祟られました。
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相変わらず忙しいですな...笑
地方創生やらコンパクトシティやらで、この筑豊直方みたいに、これまでまず動かないだろうとみられていた塩漬けプロジェクトがあちこちで動き出す可能性がありますね。
「筑豊直方?どこかで聞いたような」と思っていたら、その記憶はこのブログ記事でした。
なんという30余年前と現在の話しをほぼ同じタイミングで目にするとは。なんという偶然なんでしょう!
すでに昨年度から調査に入ってたんですね。
情報ありがとうございますm(__)m
ついに、この高架が破られる時が来るようです。