友人が、私専用に、「ドクダミ化粧水」を作ってくれますが、原料調達は、自己責任ですから、我家の庭の片隅で採取します。
で、思いがけずも、花がカワイイので、玄関に、慎ましく活けました。以前、「玄関にドクダミを活けるなんて」・・・と言った事は忘れてください。
今日は、お隣宅のお葬儀である。
去年11月から今年5月迄、6か月間に、我が組だけでも、所謂、高齢者3名(母を含めて)を見送ってきた。
何か、後を追うように、次々とある葬儀に、不謹慎ながらも、次はどこだろうか・・・と、思ってしまうのだ、
ただ、我家を含めて、どのお宅でも、在宅か、在宅に近い状況で介護し、穏やかに送られたことは、ご本人も満足ではないかなと思っている。
私の偏見かも知れないが、どんなに至れり尽くせりの施設であっても、我家に勝るものはないと考えでいる。
だから、施設に預けることが悪いとは思わないが、「初めに施設あり」ではなく、「最終的には施設もあり」という選択順位の問題だとしたい。
先日、何の番組だったか、新聞記事だったか・・・米国における埋葬の仕方で、土葬が過半数を少し上回り、火葬も、そこそこ、過半数に近いと言うのだ。
民族的というより宗教的な理由だろうが、案外、火葬も一般的になって来たのだなと思った。
しかし、その火葬方法が、これは宗教とは違うような気もするが、焼却に際し、家族・親族は、一切、立ち会わないし、骨に至っては、拾うのでなく機械で磨り潰し、全くの粉状にして、家族に引き渡すのだそうだ(うろ覚えなので違うかも)。
確かに、日本での習慣と言えども、妹(43歳逝去)の時の「骨上げ」は、かなり辛いものがあったが、一つ、一つ、拾い上げることで、事実を受け止め、送り出す気持ちになって行った。
特に、父と母の場合では、出来る事はしてきたという、一種の満足感もあり、心で語り合う余裕もあったと思う。
姉は、母の頭骸骨に触れて、何に納得したのか頷いてもいた。
こと、文化の違い、宗教の違い・有無などで、摩擦が起きる度合いも多いが、まず、理解し、尊重し、譲り合えるゆとりが欲しいものと思っている。
きょうは、晴天で、陽も照りつけもせず、5月らしい爽やかな風が、穏やかに流れている。
こんな日に葬儀が出来るお隣さんは、日頃の行いが良かったのだろうと、しみじみ、感じている。
ゆったりとした一日だが、すこ~し、生産的な作業もする。
去年の朝顔のタネを蒔いて置いたのが、芽が伸びて来たので、植替え兼間引きをした。
とは言いながら、せっかく出たものを捨てられなくて、結構、残したので、この夏は、「朝顔屋敷」になるかもしれない。
(西洋朝顔) (和風(?)朝顔)