見もの・読みもの日記

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市場原理を離れて/下流志向(内田樹)

2007-07-11 23:36:39 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『下流志向:学ばない子どもたち、働かない若者たち』 講談社 2007.2

 近著『街場の中国論』が面白かったので、内田樹さんをもう1冊。2月に刊行された本だが、気づいていなかった。最近、やたらと出版点数の多い格差社会ものであるが、教育論と表裏一体となっているところに新味がある。

 著者は、子ども・若者層に「学びからの逃走、労働からの逃走」が始まっていると考える。学ぶ・働くという「努力をしない」のではない。むしろ彼らは、自覚的あるいは強迫的に「学ばない・働かない努力」をしているというのだ。

 その根本にあるのは、市場社会の普遍化である。子どもたちは、就学・就労によって他者に認められ、自立する以前に、「消費主体」として自己を確立してしまう。「学ぶことが何の役に立つの?」と、商品の有用性の説明を求めるのは、消費者として当然の権利だし、「そんなものは要らない」という拒絶の身振りを全身で示すことは、取引を有利に運ぶための交渉術である。

 市場原理(等価交換モデル)は、時間を捨象したところに成立する。交換の初めと終わりでモノの価値が変わる(あるいは、交換主体の価値判断が変わる)ことは、あってはならない。けれども、学びとは「学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考量される」ものであり、「学び始めるときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命」なのである。

 この一節、とても好きなので長く引用してしまった。いいなあ。そう、学びは運命なのだ。主体の変容を受け入れることなのだ。この胡散臭さに、私は大いに共感する。逆に、期待される学習効果が初めから計量されているようなプログラムは、所詮、語るに足らないニセモノだと思う。

 しかし、幼い頃から消費主体として訓練された若者は、そう感じないようだ。目に見える効果が保証されない”商品”に投資するなんて、全く理解不能らしい。それゆえ、教育サービスの提供者も、若者の消費者マインドに訴えるべく、「やりがい」とか「キャリアアップ」とかもっともらしい御託を並べて、学習効果のプレゼンテーションにつとめることになる。なんだか、とっても不幸な時代である。

 同様に、我々が労働を義務と感じる根底には、「働くことで、すでに受け取ったものを返さなければならない」という義務感があった。この問答無用の負債感を抜きにしては、どのような施策も意味を持たないと著者はいう。

 むかし、みんなが自立、自立と騒ぎ出した頃、河合隼雄さんが、自立しない生き方でもいいんじゃないか、みたいなことを言っていらしたのを思い出す。自分で選んだのではない運命によって、主体の変容を迫られること、それを受け入れることも、人間には大切な器量なのだ。ちょっと前の世代までは、そのことを、お伽話や文学、映画から学んだのであるが。

 補論。師に対する身振りを知っていることが、すなわち人の師となる資格である、という段にも感銘を受けた(黒澤明の『姿三四郎』から『スター・ウォーズ』に流れ込むテーマでもある)。でも、現代では、ひとりの師に出会うことも難しいというのが私の実感である。



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