見もの・読みもの日記

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夕映えの花/室町和歌への招待(林達也ほか)

2007-07-18 23:02:37 | 読んだもの(書籍)
○林達也、廣木一人、鈴木健一『室町和歌への招待』 笠間書院 2007.6

 本書を手に取ったのには、他ならぬ理由がある。以前にも書いたとおり、このところ、NHKの大河ドラマ『風林火山』にハマっている。ドラマの魅力はいろいろあるが、私が面白いと感じたことのひとつは、いい場面で和歌や連歌が挟まれることである。へえーそうか。この時代の武将たちも、こんなふうに日常的に和歌を詠んでいたのか、と新鮮な驚きを持った。

 本書は「あとがき」によれば、平成12年の冬から地道に続けてきた研究会の成果であるというから、こんな世間の動きとは全く無縁に成ったものである。しかし、もしかして、私と同様の俗な関心から手に取る読者がいるとしたら、それはそれで、日本文学史の中でもマイナーな分野に光が当たるのは、喜ばしいことだと思う。

 本書は応仁の乱以降を対象とし、43人の歌人の作品を1~数首ずつ取り上げている。私は、かつて学生時代に万葉~平安、院政期の和歌を学んだが、それに比べると、格段に読みやすい。平安和歌はオーラルが基本で、「わが背子が衣はる雨」なんていうのは「ころも張る」と「春雨」の二語を瞬時に耳で聞き取らなければいけない。だから表記も仮名書きを主とせざるを得ない。これに対して、本書の和歌は、縁語・掛詞をほとんど意識せずにすむので、漢字交じり書きで済む。これだけで、現代人には、かなり取っ付きやすい。表記のせいか、漢詩の述懐に似てるなあ、と思うことが多かった。

 印象に残った歌人は素純。駿河の今川氏の客分となり、歌道を指導し、今川氏親(義元の父)と共に『続五明題和歌集』を編んだのだそうだ。作品に「秋の空 風待つ頃の うたた寝に 涼しく通ふ 宵の稲妻」がある。室町和歌は、夏~初秋の自然描写に清新な佳品が多いように思う。春と秋の興趣は、前代までに読み尽くされたということか。大内政弘の「風送る 後ろの簾 巻き上げて 行くや涼しき 夜半の小車」も好き。木戸孝範の「潮を吹く 沖の鯨の わざならで 一筋曇る 夕立の空」もいい。以上、いずれも武家歌人である。

 閑話休題。7/15の『風林火山』第28回「両雄死す」では、上田原の戦いで、板垣信方(千葉真一)が壮絶な討ち死を遂げる。最期の奮戦のさなか、板垣が口ずさむのが(心中の表現かも知れないけど)「飽かなくも なほ木のもとの 夕映えに 月影やどせ 花も色そふ」という和歌である。

 これ、少なくとも史実ではないらしい。ざっと立ち読みした限りでは原作にも無かったので、ドラマのオリジナルのようだ(最初の頃、オープニングの字幕に「和歌考証:井上宗雄」とあったので、監修なさっているんだろうか)。もともと和歌の素養の無い板垣が、晴信を諫めるために作ってみせたものなので、あまり巧すぎてはリアリティがない。しかし、それにしても最初に聞いたとき、よく分からない歌だなあ、と思った。

 とまどったのは冒頭の「飽かなくも(なほ)」である。手元に参考ツールがないので、とりあえず国文学研究資料館の「二十一代集データベース」とか、日文研の「時代統合情報システム(これは公開されているのか?)」を検索してみると、古い和歌には、ほとんど用例がない(新古今の異文にはあるみたい)。「飽く=満足する」だから、「満足できないけれど(不十分であるけれど)、それでもやはり」の意味になるかと思う。常套句的な「飽かなくに」とは、ちょっとニュアンスが違うように思うんだけど、そこがよく分からないんだなあ。

 結局、「月影」は板垣、あるいは勘助であり、照らされて輝きを増す「花」は晴信であるという解釈らしいが、そうすると「飽かなくも」と言い「夕映え」と言い、滅びのトーンが濃厚で、全体に不吉な歌なんじゃないかと思う。それから、この「花」に何をイメージするかは人それぞれだろうが、和歌で「夕映え」といえば山吹なのだそうだ。これは本書から得た知識。以上、余談である。
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