見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

夕映えの花/室町和歌への招待(林達也ほか)

2007-07-18 23:02:37 | 読んだもの(書籍)
○林達也、廣木一人、鈴木健一『室町和歌への招待』 笠間書院 2007.6

 本書を手に取ったのには、他ならぬ理由がある。以前にも書いたとおり、このところ、NHKの大河ドラマ『風林火山』にハマっている。ドラマの魅力はいろいろあるが、私が面白いと感じたことのひとつは、いい場面で和歌や連歌が挟まれることである。へえーそうか。この時代の武将たちも、こんなふうに日常的に和歌を詠んでいたのか、と新鮮な驚きを持った。

 本書は「あとがき」によれば、平成12年の冬から地道に続けてきた研究会の成果であるというから、こんな世間の動きとは全く無縁に成ったものである。しかし、もしかして、私と同様の俗な関心から手に取る読者がいるとしたら、それはそれで、日本文学史の中でもマイナーな分野に光が当たるのは、喜ばしいことだと思う。

 本書は応仁の乱以降を対象とし、43人の歌人の作品を1~数首ずつ取り上げている。私は、かつて学生時代に万葉~平安、院政期の和歌を学んだが、それに比べると、格段に読みやすい。平安和歌はオーラルが基本で、「わが背子が衣はる雨」なんていうのは「ころも張る」と「春雨」の二語を瞬時に耳で聞き取らなければいけない。だから表記も仮名書きを主とせざるを得ない。これに対して、本書の和歌は、縁語・掛詞をほとんど意識せずにすむので、漢字交じり書きで済む。これだけで、現代人には、かなり取っ付きやすい。表記のせいか、漢詩の述懐に似てるなあ、と思うことが多かった。

 印象に残った歌人は素純。駿河の今川氏の客分となり、歌道を指導し、今川氏親(義元の父)と共に『続五明題和歌集』を編んだのだそうだ。作品に「秋の空 風待つ頃の うたた寝に 涼しく通ふ 宵の稲妻」がある。室町和歌は、夏~初秋の自然描写に清新な佳品が多いように思う。春と秋の興趣は、前代までに読み尽くされたということか。大内政弘の「風送る 後ろの簾 巻き上げて 行くや涼しき 夜半の小車」も好き。木戸孝範の「潮を吹く 沖の鯨の わざならで 一筋曇る 夕立の空」もいい。以上、いずれも武家歌人である。

 閑話休題。7/15の『風林火山』第28回「両雄死す」では、上田原の戦いで、板垣信方(千葉真一)が壮絶な討ち死を遂げる。最期の奮戦のさなか、板垣が口ずさむのが(心中の表現かも知れないけど)「飽かなくも なほ木のもとの 夕映えに 月影やどせ 花も色そふ」という和歌である。

 これ、少なくとも史実ではないらしい。ざっと立ち読みした限りでは原作にも無かったので、ドラマのオリジナルのようだ(最初の頃、オープニングの字幕に「和歌考証:井上宗雄」とあったので、監修なさっているんだろうか)。もともと和歌の素養の無い板垣が、晴信を諫めるために作ってみせたものなので、あまり巧すぎてはリアリティがない。しかし、それにしても最初に聞いたとき、よく分からない歌だなあ、と思った。

 とまどったのは冒頭の「飽かなくも(なほ)」である。手元に参考ツールがないので、とりあえず国文学研究資料館の「二十一代集データベース」とか、日文研の「時代統合情報システム(これは公開されているのか?)」を検索してみると、古い和歌には、ほとんど用例がない(新古今の異文にはあるみたい)。「飽く=満足する」だから、「満足できないけれど(不十分であるけれど)、それでもやはり」の意味になるかと思う。常套句的な「飽かなくに」とは、ちょっとニュアンスが違うように思うんだけど、そこがよく分からないんだなあ。

 結局、「月影」は板垣、あるいは勘助であり、照らされて輝きを増す「花」は晴信であるという解釈らしいが、そうすると「飽かなくも」と言い「夕映え」と言い、滅びのトーンが濃厚で、全体に不吉な歌なんじゃないかと思う。それから、この「花」に何をイメージするかは人それぞれだろうが、和歌で「夕映え」といえば山吹なのだそうだ。これは本書から得た知識。以上、余談である。
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中国文学史あれこれ/随筆三国志(花田清輝)

2007-07-17 12:14:10 | 読んだもの(書籍)
○花田清輝『随筆三国志』(講談社文芸文庫) 講談社 2007.5

 たまたま書店で立ち読みしたときは、張飛を論じた一段が目に入った。直情径行で無教養な乱暴者、張飛について、著者はいったん「わたしには語るべきなにものもない」と断じながら、小川環樹の『中国小説史の研究』を引き、「張飛の登場の画期的意味」について考え直す。同書は、宋代以後の庶民の勃興に、元朝という異民族支配が加わり、伝統的価値観(儒教=読書人の絶対的優越)が崩壊する中で、初めて張飛のような庶民的英雄が出現した、と考える。

 同書は、武田泰淳が四大奇書を論じた「淫女と豪傑」の中の「反省もない。ためらいもない。ただ生きて行くことの強さ。生きること、淫すること、殺すことの絶対性の前に、理屈や詠嘆が無意義となる」という評言を、共感を持って引用しているという。そう~この「理屈や詠嘆が無意義となる」造型って、なかなか日本の古典文学には認めがたい。だから、私は恐いもの見たさで、時折、かの国の文学と歴史に溺れるのである。

 ところが、この本、買ってみたら、三国志のおなじみの主人公たちを論じた章段は極めて少ない。「随筆三国志」というタイトルは、詐欺じゃないかと思うくらい。しかし、三国志をマクラに、中国史・中国文学のさまざまな局面に話題が飛んでいくので、中国好きには無類の好著である(ただし、ちょっと上級者向き)。

 たとえば、司馬遷の「任小卿に報ずる書」について。これは、任安という人物が、任官の推薦を依頼してきたのに対し、これを断る体の書簡である。司馬遷は、当初、依頼を黙殺していたにもかかわらず、任安が失脚し、死刑囚として獄につながれるに及んで、表面上は極めて慇懃に、その実、猫が鼠をなぶるような返書を送っている。本書には、ほぼ全文が引かれているが、凄まじいものだ。これを読んだら、どんな歴史好きでも、司馬遷本人とは付き合いたくないと思うに違いない。もっとも、このへんの消息によく通じた奥野信太郎は、『史記』を論じて、「司馬遷の目はサディストのそれであります」と述べているという。

 それから、曹植・曹丕の兄弟について。詩人の曹植は、兄弟間の確執を「豆を煮るに豆がらを燃やす」という即興詩で嘆じてみせた。しかし、「いい子」の曹植こそ「豆がら」で、「憎まれっ子」の曹丕のほうが「豆」だったのではないか、と著者は考える。そして、もしかすると曹丕が同時代の人々に憎まれた最大の理由は、いやしい稗官のまねをして、小説『列異伝』を書いたことではないか。確かに、中国では、詩よりも小説を低く見ることが、根づよい伝統である。詩人皇帝はいくらもいるが、曹丕は唯一無二の”小説家皇帝”だった。

 このほか、建安七子を論じ、左思の『三都賦』に序を書いた皇甫謐を論じる。いずれも、透徹した理解と深い愛情が感じられ、わずかな史料の行間から、さまざまな個性が髣髴と立ち現れる趣きがある。
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いつものおなじみ/袖のボタン(丸谷才一)

2007-07-16 19:58:14 | 読んだもの(書籍)
○丸谷才一『袖のボタン』 朝日新聞社 2007.7

 出たら即買いと決めている、丸谷さんのエッセイ。本書収録分は、2004年4月から2007年3月まで、「朝日新聞」朝刊に、月1回、掲載されたもの。雑誌連載に比べると、各回の分量がやや短い。そのため、丸谷エッセイの醍醐味、何気ない日常の話題に始まり、ホラ話みたいに大きく発展して、予想もつかない着地点に落ち着く、という「序破急」の味わいが削がれているように思う。また、取り上げる話題も、新聞という媒体の性質を気にしてか、穏当なものばかり選んでいるようで、ちょっと物足りない。

 そんな中で、面白かったのは「『野火』を読み返す」「中島敦を読み返す」という文学論。前者は、大岡昇平の『野火』が、「レトリックと音楽の同時的表現」という、日本の近代文学が捨ててしまった表現の型を、例外的に達成していることに注意を促す。そして、その文体が「明治訳聖書の直系に当たる」ということも。著者は、ありふれたイメージを用いて象徴性に富む比喩を作り出したイエスの説教に淵源を遡ろうとするけれど、私はむしろ、ヘボン等お雇い外国人たちの仕事(翻訳)が、日本の近代文学の血肉を作ったことに感動する。

 中島敦については、「欧米人をこれほどいきいきと描いた人がほかに誰かゐるかしら」とあやしみ、同様に、人間を国民国家的にではなく、全世界的に扱おうとしたヘンリー・ジェームスとの類似に注目する。いかにも著者らしい着目点である。

 もうひとつ、初めて知って、心に残ったのは釈迢空(折口信夫の別名)が、彼の初恋の青年に贈られたかたみであるという説。そして、迢空=超空とは『抱朴子』に載せる一足の山魅の名前であるとのこと。興味深かったのは、そのくらいか。
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掌(たなごころ)から世界まで/「旅」(三井記念美術館)

2007-07-15 18:20:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三井記念美術館 企画展『美術の遊びとこころ「旅」~国宝「一遍聖絵」から参詣図・名所絵、西行・芭蕉の旅まで』

http://www.mitsui-museum.jp/index2.html

 昨日、旅行に出発するつもりで羽田空港まで行ったのだが、台風の影響で飛行機が飛ばなくなってしまった。仕方ないので、家に戻りがてら、この展覧会に寄った。行けなくなった「旅」の代わりと自嘲しながら。

 本展は、「旅」をテーマに、先人が「旅」のなかで培ってきた日本の文化と「旅」に寄せてきた様々な思いを紹介する企画である。最初のセクションは「小さな旅」と題して、印籠、たばこ入れ、携重(高級なお弁当箱)などの”携帯小物”を展示する。

 いいなあ~と思ったのは、『手造籐組茶籠』。小公女が持ちそうな籐製のバスケット。これを包む、赤の更紗の巾着袋つき。中身は、ままごとみたいな茶道具セットである。茶杓、茶筅、棗(なつめ)、そばちょこみたいな小ぶりの茶碗。これなら、どこへでも持って歩いて、好きなところでお茶を楽しめるわけだ。女性の所持品らしく、全体が”赤”のトーンで統一されていて、かわいい。しかし、茶碗は赤楽茶碗だし、茶巾筒は永楽和全の赤地金襴手というところが、さすが三井の奥様である(→楽茶碗永楽和全、どっちも、この美術館で特集してましたね)。奥様の名は、11代目高公夫人の子(としこ)さん(1901-1976)。

 その次の『唐物籐組小茶籠』で、私は再び唸ってしまった。やはり、携帯用の茶道具セットなのだが、こちらは、8代目三井高福(たかよし)氏(1808-1885)が所持。黒の小棗に、染付けの茶巾筒。男性的な気骨と洒脱さが香り立ち、羽織姿の明治男の風貌が髣髴と浮かぶような気がした。

 「霊場と名所への旅」のセクションでは、藤原定家自筆の『熊野御幸記』(国宝)が全巻開示されている。建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の熊野御幸に供奉したときの日記である(→本文はネット上にもあり)。これって、定家の日記『名月記』の抄だそうだが、そうなのかな。どっちが先の成立なんだろ? 前半は、いかにも執念深そうな細字でびっしりと記録されているが、後半はやや字が大きく、たどたどしく感じられる(疲労困憊、という感じ)。それにしても、40歳の定家、腹痛、咳病、寒さ、疲労、足の痛みなどに耐えながらの旅なのに、3日に1度くらい和歌会が催され、付き合わされているのが可笑しい。

 さて、本展の白眉は『一遍聖絵』であろう。現在、公式サイトのTOPに上がっている画像をご覧いただきたい。あたかも中国の山水画のごとく、天に聳え立つ三本の峰、その頂上にちょこんと乗った朱塗りの社。よく見ると、右端では、岩壁に長い長い梯子を立てかけて、頂上のお社を目指そうとする男がいる。虚のような実のような、真摯な信仰を表すような、他愛ないお伽話のような、さまざまな解釈を許容する、不思議な光景である。

 これは同絵巻・第2巻の「菅生(すごう)の岩屋」の場面。本展では、第2巻と第6巻のそれぞれ3つの場面を、2週間ごとに展示替えするという。うちへ帰って『一遍聖絵』の全巻図録(2002年、奈良国立博物館)をチェックしたが、本展では、この第2巻冒頭が、絵画的にベストショットなんじゃないかな。見たい方はお急ぎください。

 もうひとつ、どうしても語っておきたいのは、17世紀に作られた『日本航海図』(重文)。ポルトラーノ式という図法を用いて、かなり正確に本州・四国・九州を写している。この時期の航海図の現存例は極めて珍しく、特に羊皮紙に描かれたものは本図ともう1点しかないという。

 その、もう1点に当たるのか、定かでないが(調べ始めたら分からなくなってしまった)、伊勢の神宮徴古館に『アジア航海図』(羊皮紙着色)が伝わっており、これを紙に写したものも展示されていた。こちらは、右上隅に小さく日本を描き、マレー半島、ルソン、ボルネオ、その先の南太平洋までを収めている。原本は、御朱印貿易にかかわった伊勢の豪商・角屋(かどや)に伝来したもので、同じ伊勢松阪出身の三井家は、その縁で、筆写させてもらったのではないかという。

 角屋七郎兵衛は、江戸時代初期、安南(ベトナム)との交易に活躍し、ホイアンに日本人町を造営して長となったが、そののち、鎖国令によって帰国を禁じられ、現地で没した。ホイアンか~! 年末年始のベトナム旅行がよみがえって、懐かしい。松阪も、むかし訪ねたことがあるが、ベトナムとつながりがあるなんて、思ってもいなかった。先月、九州国立博物館で見た立派な船の埴輪が、「松阪市出土」だったのも気になっている。また松阪に行ってみようかしら。というわけで、新たな旅心を刺激される展覧会だった。
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台風直撃の三連休初日

2007-07-14 20:12:06 | なごみ写真帖
国内旅行といえば、ほとんど鉄道旅行しかしたことがない。
実は、いいトシをして、国内線の飛行機に乗る(チケットを取る)方法がよく分かっていなかった。

一念発起して、この三連休は、四国旅行(高知+高松)を計画していたのに...
朝、羽田空港まで行ってみたら、搭乗見合わせ→運航中止。すごすご戻ってきた。

仕方ない。連休は、ぐうたらして過ごすか。枕代わりの新しい同居人(↓)。


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要らなかった戦争/戦争解禁(藤原帰一)

2007-07-13 23:09:50 | 読んだもの(書籍)
○藤原帰一『戦争解禁:アメリカは何故、いらない戦争をしてしまったのか』 ロッキング・オン 2007.7

 藤原先生のことは、かなり前から存じ上げていたが、著書を読み始めたのは2001年以降である。というか、同氏は、その頃から一般向けの著作活動を始められた。

 『戦争を記憶する』(2001)『デモクラシーの帝国』(2002)『「正しい戦争」は本当にあるのか』(2003)と続く3年間の収穫は、いま振り返ると奇跡のようだ。それまでの学問的な蓄積を、一気に放出するような趣きがあった。この頃、私は(かなりの部分、著者の影響を受け)それまで全く縁のなかった政治学分野の印象深い本に出会い、読後感を後々まで残しておきたくて、このブログを始めたのである。

 本書は、2001年11月(9.11テロ直後)から2007年3月まで、雑誌『SIGHT』の連載インタビューに応じたもの。インタビューアーは、音楽評論家の渋谷陽一さん(前著『「正しい戦争」は本当にあるのか』と同じ)と鈴木あかねさんだという。だから、学術総合雑誌の「○○先生にお聞きします」的な堅苦しさは微塵もない。「もうそのアメリカの正義がインチキだってバレバレじゃないですか」「マジでヤバい状況ですよね」という具合。答える藤原先生の話しぶりも平易でフランク。

 ただし、研究と思索に裏打ちされた内容は重い。上滑りな発言はひとつもない。アメリカは対イラク戦争において、すばやく勝ちを収めたように見えて、占領統治に失敗して、長期的な泥沼にはまり込む、という予想も、著者が開戦当初から各所で語ってきたことで、取り立てて新しくはない。そして、現実は、日に日に予測のほうに引き寄せられている。

 著者の軸足は、実質的なデビュー作『戦争を記憶する』以来、全くブレていないと思う。戦争が避けられない状況というのは確かにある。しかし、安易に理想主義と戦争を結び付けてはならない。不必要な戦争は避けなければいけない。これが著者の立場である。なぜなら、「権力の真空は、独裁政権を上回るほどの悲劇を作る」からだ。

 我々は、こうした想像力に乏しい。武力介入を行う(支援する)からには、その後の「権力の真空」(の阻止)にまで、徹底して責任を持つ覚悟がなければならない。しかし、我々は、独裁政権を倒した(倒してもらった)あとに民主的政府を作れないのは、その国の民衆の文明程度が低いから、くらいの不遜な考えを、どこかに持っているのではなかろうか。

 著者は、国際政治とは「非常に地味な世界」であるという。「平和だからって、暮らしが良くなるわけでも人生に希望が見えるわけでもない。ただ『戦争がなくて、ああよかった』という世界なんですよ」と。なるほど。いわば「ドブさらいみたいなもの」という比喩は自虐的だけど、でも、ただ無事であるために払われる努力って、実は最も尊いのだと思う。
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あるユートピア/図説・着物柄にみる戦争(乾淑子)

2007-07-12 23:29:16 | 読んだもの(書籍)
○乾淑子『図説・着物柄にみる戦争』 インパクト出版会 2007.7

 昨日、たまたま東京駅に出た。ひとを待ちながら丸善で時間をつぶしていたら、人文科学のコーナーに平積みになっていた本書を見つけた。

 表紙には、1枚の着物の後ろ姿が小さく写っている。よく見ると、その着物をいろどるのは、鉄カブトに銃剣を携えた幼児たち。伝統の”唐子”さながら、丸々と肥えた裸の手足をさらしている。背景には戦闘機、戦車、パラシュート、そして旭日旗の赤が、吉祥文様のように鮮やかである。一瞬のうちに全てを見てとったわけではない。タイトルも写真も、非常に控えめな造りなのだ。しかし、にもかかわらず「なんだ、これは?」と思わせる妖しいオーラが匂ってくる。

 おそるおそる手に取って、中を開いて吃驚した。本書は、日清~日露戦争期につくられた、戦争柄の着物(浴衣、半纏、襦袢、羽織裏、風呂敷、手拭い、布団など)を集めた図集である。百聞は一見に如かず、札幌・紀伊国屋ギャラリーで行われた展覧会のサイトをご覧いただきたい。すごい。想像を絶する世界のトビラを開けてしまった感じである。

 けれども、私は何か似たものを知っている、と思った。昨年、ボストン美術館で見たソビエト・テキスタイル」の展示である。飛行機、工場、トラクターなど、モダン・テクノロジーの産物を用いたポップなデザインが印象的だった。

 戦争柄の着物も、最も好ましいのは子供向けの着物である。「子供の着物の戦争柄は、現代で言えば、ウルトラマンや仮面ライダーのついたTシャツやトレーナーと同じように少年たちを楽しませ」た。そこに描かれた飛行機、戦車、オートバイなどの愛らしく魅力的なこと。そこには、科学技術と未来への無垢な信頼が感じられる。戦争が悲惨な経験であったことは言うを俟たない。しかし、アダ花のように、こんな見事な実践アートがあったことは心に留めておきたいと思う。

 札幌の展覧会は終わってしまったが、9月に西宮で小規模な展覧会があるらしい。ぜひ見に行きたい。あ、図録は、もちろんその場で買いましたとも。
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市場原理を離れて/下流志向(内田樹)

2007-07-11 23:36:39 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『下流志向:学ばない子どもたち、働かない若者たち』 講談社 2007.2

 近著『街場の中国論』が面白かったので、内田樹さんをもう1冊。2月に刊行された本だが、気づいていなかった。最近、やたらと出版点数の多い格差社会ものであるが、教育論と表裏一体となっているところに新味がある。

 著者は、子ども・若者層に「学びからの逃走、労働からの逃走」が始まっていると考える。学ぶ・働くという「努力をしない」のではない。むしろ彼らは、自覚的あるいは強迫的に「学ばない・働かない努力」をしているというのだ。

 その根本にあるのは、市場社会の普遍化である。子どもたちは、就学・就労によって他者に認められ、自立する以前に、「消費主体」として自己を確立してしまう。「学ぶことが何の役に立つの?」と、商品の有用性の説明を求めるのは、消費者として当然の権利だし、「そんなものは要らない」という拒絶の身振りを全身で示すことは、取引を有利に運ぶための交渉術である。

 市場原理(等価交換モデル)は、時間を捨象したところに成立する。交換の初めと終わりでモノの価値が変わる(あるいは、交換主体の価値判断が変わる)ことは、あってはならない。けれども、学びとは「学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考量される」ものであり、「学び始めるときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命」なのである。

 この一節、とても好きなので長く引用してしまった。いいなあ。そう、学びは運命なのだ。主体の変容を受け入れることなのだ。この胡散臭さに、私は大いに共感する。逆に、期待される学習効果が初めから計量されているようなプログラムは、所詮、語るに足らないニセモノだと思う。

 しかし、幼い頃から消費主体として訓練された若者は、そう感じないようだ。目に見える効果が保証されない”商品”に投資するなんて、全く理解不能らしい。それゆえ、教育サービスの提供者も、若者の消費者マインドに訴えるべく、「やりがい」とか「キャリアアップ」とかもっともらしい御託を並べて、学習効果のプレゼンテーションにつとめることになる。なんだか、とっても不幸な時代である。

 同様に、我々が労働を義務と感じる根底には、「働くことで、すでに受け取ったものを返さなければならない」という義務感があった。この問答無用の負債感を抜きにしては、どのような施策も意味を持たないと著者はいう。

 むかし、みんなが自立、自立と騒ぎ出した頃、河合隼雄さんが、自立しない生き方でもいいんじゃないか、みたいなことを言っていらしたのを思い出す。自分で選んだのではない運命によって、主体の変容を迫られること、それを受け入れることも、人間には大切な器量なのだ。ちょっと前の世代までは、そのことを、お伽話や文学、映画から学んだのであるが。

 補論。師に対する身振りを知っていることが、すなわち人の師となる資格である、という段にも感銘を受けた(黒澤明の『姿三四郎』から『スター・ウォーズ』に流れ込むテーマでもある)。でも、現代では、ひとりの師に出会うことも難しいというのが私の実感である。



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女・子ども・聖性/イタリア・ルネサンス再考(池上俊一)

2007-07-10 23:03:29 | 読んだもの(書籍)
○池上俊一『イタリア・ルネサンス再考:花の都とアルベルティ』(講談社学術文庫) 講談社 2007.4

 最近、ちょっとマイブーム気味のイタリア・ルネサンスもの。まあ、イタリア観光局の公式サイトによれば、2007年3~6月は、日本におけるミニ・イタリア年「イタリアの春2007」だそうだから、平仄は合う。

 本書は、代表的ユマニスト、”万能人”レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404-1472)の生涯と著作を中心に、新たなルネサンス像の構築を目指したもの。たとえば、迷信と神秘主義の中世に対して、世俗と合理主義のルネサンスという通俗的な見解を著者は否定する。ユマニストと宗教のかかわりは一筋縄ではいかない。彼らは決して神を否定してはいない。むしろルネサンスの都市は、宗教性、聖性を教会の懐から奪い、都市自体の内に聖性の中心を築こうとしたのではないか。

 アルベルティの『家族論』から敷衍して、当時の女性や子どもについて述べた段も興味深い。ルネサンス期の女性たちは、見かけの華々しさにもかかわらず、公共の場からは完全に締め出され、父や夫に隷属した立場にあった。背景には家族制度の変貌がある。11~13世紀、イタリアにはコンソルテリーアという多核的な大家族制度(彼らは一門のシンボルである高い塔を囲んで住んでいた)が見られたが、13世紀後半からこれが崩壊し、核家族を基礎とする家父長制度が伸張し、家名(ファミリーネーム)が重視されるようになった。

 こういうのを読むと、家族のありかたって、時代と地域によって、激しく変動してきたのだな、ということが分かる。自分にとって好ましい家族観だけを「伝統的」と強弁したがる輩には、つねに眉唾で向かおう。

 さて、そんな父権的な文化においても、女性たちの「洒落っ気」のパワーは、次第に公共空間を女性的な美意識で満たすことに成功した。修道女、娼婦は独特の地位を持った。多産は大いに喜ばれ、ルネサンス人は「子ども」に熱狂した。女嫌い、同性愛、若者組、核家族をとりまく友人(親族)の重視など、当時の社会制度(家族制度)の解説は、どこを取り上げても非常に興味深かった。

 もうひとつ、読みどころは「あとがき」である。著者によれば、イタリア中世史やルネサンス史は、長いこと、我が国では「まともな『学問』領域とは考えられてこなかった」。「実際、イギリスやドイツやフランスに壟断されてきた大学ポストへの就職の可能性も少なかった」そうだ。以下、怨みと自恃の交錯する文章は、人間臭くて味わい深い。

 そういえば、書き落としていたが、4月頃に東京大学の駒場博物館(美術博物館)に『創造の広場(ピアッツァ)イタリア』展を見に行った。これは、東京大学教養学部が2007年4月から、イタリア語を初修外国語に加えたことを記念した展覧会でもあるという。この会場のどこかで、著者の名前を見たような気がするのは、私の記憶の紛れだろうか。
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クール・ビューティ/中国・青磁のきらめき(静嘉堂文庫)

2007-07-09 23:41:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
○静嘉堂文庫美術館 『中国・青磁のきらめき-水色から青、緑色の世界-』

http://www.seikado.or.jp/menu.htm

 昨年の夏も出光美術館で『青磁の美-秘色の探求-』と題した展覧会があった。行きはしたものの、やっぱり地味だった。「焼きものは青磁に限る」なんていう人を見ると、大人だなあ、と思って憧れる。私は相変わらず、青花、赤絵、古九谷、仁清などの、子どもっぽい器の魅力から逃れられない性質なので。

 会場に入ると、本当に見渡す限り、青磁、青磁、青磁で、その潔さにちょっと微笑んでしまう。ただし、青磁の「青」は決して一様ではない。冒頭に登場するのは、最も歴史の古い越州窯。これは、ほとんど灰色である。それから、私の好きな、オリーブグリーンの耀州窯。「片切り彫り」で花文を彫り入れ、透明感のある濃緑の釉薬を掛ける。本展では『青磁刻花花鳥文枕』の1点しか見ることができないが、これが華麗な逸品。

 それから、南宋官窯(二重貫入と呼ばれる複雑なひび割れが見どころ)、明るい青みのまさった鈞窯(色の濃いものを天藍、薄いものを月白と呼び、紫紅色の斑文の取り合わせが好まれた)と続く。惜しむらくは汝窯がない。今年の初め、新装なった台湾故宮博物院は、汝窯特別展で大騒ぎだったらしい(行ってない)が、やっぱり滅多に見られるものではないのかな。

 本展で圧倒的な多数を占めるのは、龍泉窯である。室町時代に天龍寺船を通じてもたらされた、いわゆる天龍寺手は、黄味がかった緑の沈んだ調子(これを”青葱色”というらしい)のものが多く、砧青磁と呼ばれる端正な器形で代表される。しかし、実際には、色合いも形態も非常にバラエティに富む。「清香美酒」と四方に陽刻された甕は「酒」の一字が正面に向けてあって、こんな卑俗な青磁もあるのか、と思って笑ってしまった。明代の青磁は、庶民文化の活気を感じさせてよい。釉薬を薄くして、下地の文様やひび割れの透け具合を楽しむものもあるが、私はつるりと滑らかな風合いがいちばん好きだ。玉(ぎょく)か翡翠かと見まごう感じ。

 最後は清代の景徳鎮窯。雍正年間、南宋時代の龍泉窯を倣製(コピー)した作品が多数作られた。このへんになると「新しすぎて、つまらん」とか言い捨てて、素通りしていくおじさんもいた。確かに、清代の文物って、よくできた土産物みたいなつまらなさがある。でも、これはこれで、徹底的に古典に学び、古典を超えようという妥協の無さと実験精神が感じられて、私は好きだ。

 めずらしいところで「醤(ひしお)手」「猫掻き手」という器の種類も覚えました。
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