中沢新一 2004年 集英社新書
「憲法九条を世界遺産に」からのつながりで、なにか中沢新一をと思ったんだけど、とりあえずすぐ手の届くとこにあったってだけで、これ。
タイトルは、偉大な歴史学者である網野善彦は、中沢新一の父の妹の夫だってことなんだけど、恥ずかしいことに私は網野善彦を全然知らない。もちろん著作を読んだこともない。
で、この本は、その偉大な叔父さんが亡くなった2004年に書かれた追悼文ということになる。
こういう本でしか、その歴史学に対する考え方を知ることができない私だけど、次のような一節には、なかなか感じ入るところがあった。
>歴史学とは、過去を研究することで、現代人である自分を拘束している見えない権力の働きから自由になるための確実な道を開いていくことであると、網野さんは信じていた。話をしている最中に、こちらが少しでも今の学問の世界に行きわたっているような常識に依存した発言をしたりすると、「歴史学は意識を解放するための方法でなきゃだめなんだよ。よく知りもしない相手に自分の常識を押しつけるのは、ぜったいによくない。ぼくは今日の常識が明日の非常識になってしまう光景を、何度も目撃してきたからね。今日の常識に依存して歴史を解読しようという君の態度は、ぜんぜんいただけない」という厳しい言葉がしょっちゅう飛び出していた。
なぜ歴史を学ぶのか、たいがいは(歴史は繰り返すので)同じ過ちをおかさないため、くらいの答えしか返ってこないんだけど、自由とか解放とかってのは楽しい云い様だと思う。
実際、たとえば本書のなかでは、飛礫(つぶて=投石)を投げるという行為が、人類の原始的なものに根ざしているということを発見し、そういう戦い方をした「悪党」のような存在が中世になぜ浮上してきたかってことに思考がジャンプするとこ、読んでてとってもエキサイティングなんである。
「憲法九条を世界遺産に」からのつながりで、なにか中沢新一をと思ったんだけど、とりあえずすぐ手の届くとこにあったってだけで、これ。
タイトルは、偉大な歴史学者である網野善彦は、中沢新一の父の妹の夫だってことなんだけど、恥ずかしいことに私は網野善彦を全然知らない。もちろん著作を読んだこともない。
で、この本は、その偉大な叔父さんが亡くなった2004年に書かれた追悼文ということになる。
こういう本でしか、その歴史学に対する考え方を知ることができない私だけど、次のような一節には、なかなか感じ入るところがあった。
>歴史学とは、過去を研究することで、現代人である自分を拘束している見えない権力の働きから自由になるための確実な道を開いていくことであると、網野さんは信じていた。話をしている最中に、こちらが少しでも今の学問の世界に行きわたっているような常識に依存した発言をしたりすると、「歴史学は意識を解放するための方法でなきゃだめなんだよ。よく知りもしない相手に自分の常識を押しつけるのは、ぜったいによくない。ぼくは今日の常識が明日の非常識になってしまう光景を、何度も目撃してきたからね。今日の常識に依存して歴史を解読しようという君の態度は、ぜんぜんいただけない」という厳しい言葉がしょっちゅう飛び出していた。
なぜ歴史を学ぶのか、たいがいは(歴史は繰り返すので)同じ過ちをおかさないため、くらいの答えしか返ってこないんだけど、自由とか解放とかってのは楽しい云い様だと思う。
実際、たとえば本書のなかでは、飛礫(つぶて=投石)を投げるという行為が、人類の原始的なものに根ざしているということを発見し、そういう戦い方をした「悪党」のような存在が中世になぜ浮上してきたかってことに思考がジャンプするとこ、読んでてとってもエキサイティングなんである。