丸谷才一 2007年 文春文庫版
どうにも近ごろ丸谷さんの本で持ってないのを見かけると買わずにいられないようなことになってて、ことし5月に中古で手に入れたエッセイ集。
またシャレたタイトルで、べつに絵具屋について書いた章があるわけではないが。
巻頭言として、はじめての文房具屋に入るよろこびのようなものにふれたうえで、
>絵具屋にはいるのも好きだ。色も色の名前も心を刺激する。
なんて書いてあるだけ。以前は絵を描いたらしいけど、それは知らなかった。
初出は2002年から2003年の「オール讀物」で単行本も2003年なんだが、偶然にも昨日とりあげた町山さんのと時期がかぶってるから同じような話題もある。
アメリカでは生きものは神がつくったものだから、学校で進化論を教えちゃいけないなんて争いが起こるのをとらまえて、
>さてわたしは、アメリカ人の友達に言つた。
>「こんな具合に、アメリカのキリスト教徒は、知性の低いのは本当に低くて、非常識なわけです。そしてその程度の悪いキリスト教徒に支持されて大統領になつたのがブッシュで、そのため彼は神の戦争を宣戦布告する強い大統領を演じてみせなければならなかつた」(p.252「ちよつと政治的」)
なんてのが、それ。めずらしいね、政治的な話。
日本の天皇についてもドキッとするような話があって、明治天皇と大正天皇は実母が皇后ではないから養子なんだという。
まあ、それだけだったら、物の見方というか手続き上としてはそうなんだろうけどというとこなんだが、なぜ后の養子になるのかの考察からすごいことになる。
>しかしわたしとしては、これは一夫一婦制への遠慮ではなく、やはり女系家族制の名残りだと思ふ。帝は后の家へ婿入りしたといふのが建前なのであるから、そこで后によつて皇子が生れず、側室による皇子を皇太子として立てるときには、后の養子になる形をとつたのでせう。(p.141「養子の研究」)
って、天皇って婿なんだ? 古代から臣下の貴族たちの望みといったら、娘を天皇のとこいかせて生まれた子どもを将来は皇位につけるってのに決まってるんだけど、あれって嫁にやったんぢゃなかったんだ、婿にしたんだ、だから孫が産まれると御舅さんがいちばん権威あるんだ。
それだけでも驚いたのに、その後の、
>そしてこの考へ方でゆけば、よく問題になる、天皇家にはなぜ家名がないか、といふこともあつさりと答が出る。なぜあの家には家名がないか。そもそもさういふ家がないからです。(同)
って結論は、もっとすごいと思った、へええ、そういう考え方がありうるんだ。
おもしろい見識は、学者の話なんかになると、さらにさえるとこがあって、
>学問とはしばしば、真実のためにはやむを得ないといふ口実を設けて、柄の悪い話をする作業なのである。
>ニーチェの哲学なんかはその典型で、あれはちよつと頭がいい人なら少年時代から気がついてゐるが、しかし慎み深いたちなので口に出すのを控へてゐる類のことを最初に書き散らしたから、人間性へのすごい洞察だなんて評価されたり尊敬されたりすることになつたのだ。(p.218「インディアンと野球」)
なんてのは、なかなか毒があって楽しい。
そんなのに比べると、
>これはわたしの持論なのだが、戦前の日本の知識人は二派に分類できた。長谷川如是閑を敬愛する者と、徳富蘇峰を尊敬する者である。この両派は劃然と分れてゐた。如是閑も偉いが蘇峰もいいなんて、そんな事態はあり得なかつた。(p.98「徳富蘇峰論」)
なんてのは不勉強な私には何を言っているのかわからないが。
もっとも、そんな固い学問論ばっかりぢゃなくて、どうでもよさそうなことを大マジメに考察するところがエッセイのおもしろさだったりする。
>英米の本のデザイナーは、下に帯をかけなくていいから、つまりカンヴァスいっぱいに絵が描ける。描く自由が存分に与へられてゐる。日本では下の六センチ弱が取られてしまふ。四畳半のなかに屏風を持ち込んで立てるやうなものぢやないか。どうしてあんなことをする必要、あるのかね。(略)半紙で包んでから祝儀袋に入れるとかさういふ日本文化の型が、本の場合にも出てゐるのか。(p.71「本のジャケット」)
という話は、やがてバーコードってのは不快な意匠だってのにつながっていくんだけど、なかなかいいですね。
コンテンツは以下のとおり。
「吉良上野介と高師直」
「あのボタン」
「英雄色を好む」
「本のジャケット」
「木下藤吉郎とポルターガイスト」
「剣豪譚」
「徳富蘇峰論」
「薬を探す」
「養子の研究」
「塀の中」
「チーズと甘栗」
「先生の話術」
「猪鹿蝶」
「ちよつと政治的」
どうにも近ごろ丸谷さんの本で持ってないのを見かけると買わずにいられないようなことになってて、ことし5月に中古で手に入れたエッセイ集。
またシャレたタイトルで、べつに絵具屋について書いた章があるわけではないが。
巻頭言として、はじめての文房具屋に入るよろこびのようなものにふれたうえで、
>絵具屋にはいるのも好きだ。色も色の名前も心を刺激する。
なんて書いてあるだけ。以前は絵を描いたらしいけど、それは知らなかった。
初出は2002年から2003年の「オール讀物」で単行本も2003年なんだが、偶然にも昨日とりあげた町山さんのと時期がかぶってるから同じような話題もある。
アメリカでは生きものは神がつくったものだから、学校で進化論を教えちゃいけないなんて争いが起こるのをとらまえて、
>さてわたしは、アメリカ人の友達に言つた。
>「こんな具合に、アメリカのキリスト教徒は、知性の低いのは本当に低くて、非常識なわけです。そしてその程度の悪いキリスト教徒に支持されて大統領になつたのがブッシュで、そのため彼は神の戦争を宣戦布告する強い大統領を演じてみせなければならなかつた」(p.252「ちよつと政治的」)
なんてのが、それ。めずらしいね、政治的な話。
日本の天皇についてもドキッとするような話があって、明治天皇と大正天皇は実母が皇后ではないから養子なんだという。
まあ、それだけだったら、物の見方というか手続き上としてはそうなんだろうけどというとこなんだが、なぜ后の養子になるのかの考察からすごいことになる。
>しかしわたしとしては、これは一夫一婦制への遠慮ではなく、やはり女系家族制の名残りだと思ふ。帝は后の家へ婿入りしたといふのが建前なのであるから、そこで后によつて皇子が生れず、側室による皇子を皇太子として立てるときには、后の養子になる形をとつたのでせう。(p.141「養子の研究」)
って、天皇って婿なんだ? 古代から臣下の貴族たちの望みといったら、娘を天皇のとこいかせて生まれた子どもを将来は皇位につけるってのに決まってるんだけど、あれって嫁にやったんぢゃなかったんだ、婿にしたんだ、だから孫が産まれると御舅さんがいちばん権威あるんだ。
それだけでも驚いたのに、その後の、
>そしてこの考へ方でゆけば、よく問題になる、天皇家にはなぜ家名がないか、といふこともあつさりと答が出る。なぜあの家には家名がないか。そもそもさういふ家がないからです。(同)
って結論は、もっとすごいと思った、へええ、そういう考え方がありうるんだ。
おもしろい見識は、学者の話なんかになると、さらにさえるとこがあって、
>学問とはしばしば、真実のためにはやむを得ないといふ口実を設けて、柄の悪い話をする作業なのである。
>ニーチェの哲学なんかはその典型で、あれはちよつと頭がいい人なら少年時代から気がついてゐるが、しかし慎み深いたちなので口に出すのを控へてゐる類のことを最初に書き散らしたから、人間性へのすごい洞察だなんて評価されたり尊敬されたりすることになつたのだ。(p.218「インディアンと野球」)
なんてのは、なかなか毒があって楽しい。
そんなのに比べると、
>これはわたしの持論なのだが、戦前の日本の知識人は二派に分類できた。長谷川如是閑を敬愛する者と、徳富蘇峰を尊敬する者である。この両派は劃然と分れてゐた。如是閑も偉いが蘇峰もいいなんて、そんな事態はあり得なかつた。(p.98「徳富蘇峰論」)
なんてのは不勉強な私には何を言っているのかわからないが。
もっとも、そんな固い学問論ばっかりぢゃなくて、どうでもよさそうなことを大マジメに考察するところがエッセイのおもしろさだったりする。
>英米の本のデザイナーは、下に帯をかけなくていいから、つまりカンヴァスいっぱいに絵が描ける。描く自由が存分に与へられてゐる。日本では下の六センチ弱が取られてしまふ。四畳半のなかに屏風を持ち込んで立てるやうなものぢやないか。どうしてあんなことをする必要、あるのかね。(略)半紙で包んでから祝儀袋に入れるとかさういふ日本文化の型が、本の場合にも出てゐるのか。(p.71「本のジャケット」)
という話は、やがてバーコードってのは不快な意匠だってのにつながっていくんだけど、なかなかいいですね。
コンテンツは以下のとおり。
「吉良上野介と高師直」
「あのボタン」
「英雄色を好む」
「本のジャケット」
「木下藤吉郎とポルターガイスト」
「剣豪譚」
「徳富蘇峰論」
「薬を探す」
「養子の研究」
「塀の中」
「チーズと甘栗」
「先生の話術」
「猪鹿蝶」
「ちよつと政治的」