many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

フランシスコ・X

2014-01-21 18:16:04 | 読んだ本
島田雅彦 2002年 講談社
「158ポンドの結婚」が歴史作家の物語だったから、そこからのつながりで、というほどのこともないが。
島田雅彦が、歴史小説っぽいの書くって、珍しくないか?
しかも登場人物は、16世紀の宣教師だからねえ、得意の(?)色恋沙汰とかあるはずもないし。
主人公は、タイトルのとおり、歴史の教科書でも似顔絵がおなじみのザビエル。
哲学を学んでいたザビエルが、いかにして布教の熱意に駆られるようになったか、いかなる艱難辛苦を経て地球の反対側の日本までやってきたかの話。
でも、宣教師たちの純粋な神への思いとは別のところの論理が主題なんだろうな。
ヨーロッパ列強の国家にとっては植民地開拓が目的だし、ヨーロッパの商人もアジアの商人も海賊たちも交易による利潤が目的。
そういう目的のために、船は世界中を走り回ってた時代、資本は地球上のどこへでも運ばれてった、って話。
もちろん、入港する船を受け入れた側の、戦国時代の日本も、武将も商人もみんな西洋の珍しい文物が目当て。真面目な宣教師たちはあまり浮かばれない。
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4週間ぶりの乗馬

2014-01-20 20:12:32 | 馬が好き
乗馬にいく。4週間ぶりだ。
今年初めてってことになるけど、べつにそんなことは何の感慨っつーか意味はない。
年が明けると馬はみんなトシをひとつとるけど、私の目標っつーかチェックポイントは変わらず。
座りというか、脚の位置というか使い方。ちゃんと座って、足がバタバタ動いてアブミが踏めないような事態が無くならないかぎりは、障害とかそういうことはする気がない。
きょうは、そんな寒くはなさそうだけど、この時期使わないと使うときないので、冬用のコーデュロイのキュロット履いてく。あとで知ったけど、暦のうえでは大寒だって。

馬は、おなじみの天蓬。調べてみたら、去年4~12月の9カ月間で10回乗ったよ。ってことは、10回はリンゴやったってことだけど。乗る前からひとの顔みてマエガキすんのはよしなさい。
さて、きょうも部班に入る。
なんだかんだ言ってひさしぶりだしね。ひとりで難しいこと、できるとは思えないし。
あと、自分ひとりでやってると、どうしても己に甘くなるんで。
べつにムチャムチャ厳しいことしようとか、自分を追い込むとかするわけぢゃないんだけど、ひとりだと、たとえば、輪乗りのなかで減却とかしようとして、あそこで駈歩出そうとか決めてても、うまくできないとそのままダラダラと許しちゃったりするから。

4頭の先頭に立たされる、まあいいや、それは。天蓬おりこうさんだし、動いてくれるから。
隅角でなかに入らないように、ウォーミングアップの常歩のときに押し込んだりして、わりとうまくいってたと思うんだけど、速歩になったら制御できてない。
斜めに手前を変えのときなんかも、斜めに入るところは隅角きっちり回らせようとするんだけど、斜めに行った先で反対まわりになるところで、思いっきり勝手に内に入り込んでこられちゃって長蹄跡に触れられない。
んぢゃ、輪乗り。蹄跡周回してるとコーナーで内に入ってくるくせに、輪乗りにするとオーバーランして外にふくれるって、どうなの!?
ほっぽっとくと、馬が外向いたまま回ってる感じするんで、内を向ける。向けるっていうか、馬体を曲げたいんだけどねえ、身体でっかいから曲がってる感が無い。
輪乗りで、移行をいろいろ。号令が「駈歩用ー意、駈歩ーすすめ!」って至れり尽くせりである。逆に速歩に落とすときも「速歩用ー意、速歩ーすすめ!」って言われる。
これで一歩目からシフトチェンジできないと、かなりみっともないので、気合い入れざるをえない。
そういえば、前回、駈歩をだすときに、手綱をひっぱっちゃって、ハネられたりしたんで、それだけはしないようにって思うんだけど、気がつくと手綱は引っ張ってる。
でも、天蓬はハネたりしない。人間は進歩してないけど、馬のほうが成長してる。
駈歩でたけど勢いがおぼつかないかなと思ってると「いちど馬を勇気づけるようなつもりで前に出して」と言われる。たしかになあ、駈歩だせと言われたわりには手綱引っ張られたら迷うよな、馬も。
すこし歩度を伸ばす、でも脚への反応があまりよろしくないので、ムチをちらちらさせちゃう。
ジャマしないように、馬が動いたら手をラクにするようにしてたら、なんだか馬がもたれるというか前に倒れて伸びてっちゃう気がするんで、ときどき持ち直して詰めたりする。

だいたい出来てる感じになったとこで、長蹄跡に出て、別の図形を描く運動をする。何もないところで直角に曲がりたいとこで、やっぱ外側にふくれてしまう。
そしたら、また輪乗り、また移行の反復を練習。そしたら、「だめ!さっきより反応がわるい!」
そう、駈歩の発進が一歩目から一瞬ででないで遅れる。「ほかの運動がはさまったからって反応がおちてはいけない!」
そうそう、馬のほうがゲームのルールを理解しちゃうと、駈歩・速歩間の移行だって、慣れでやられちゃうんだよね。いやー、私も、天蓬が号令で動いてるような気はしてたんだけど。
脚とムチとつかって、関係性をつくりなおして、くりかえし。
馬は自発的にすごくよく前進してくれるんで、最後はときどきツーポイント、前傾姿勢というよりも、脚の位置チェック。
練習終了。そのあともしばらく速歩の輪乗りでツーポイントする。脚の位置が合ってるか自信ない。
「やり足りないですか。障害飛びますか?」って訊かれたので、そんな気は全然ありませんと答える。

天蓬は今日もよく動いてくれたので、例によってめちゃめちゃホメる。
手入れして、蹄油塗ったり馬着きせたり、終わりに近づいたなと察すると、天蓬はまた前肢を持ちゃげちゃあ「ほら、なんか持ってんだろ、出せよ」ってアピールする。

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158ポンドの結婚

2014-01-16 21:06:58 | 読んだ本
ジョン・アーヴィング/斎藤数衛訳 1987年 サンリオ
実にひさしぶりに読んだ、ジョン・アーヴィングの長編。
アーヴィングの、世に出した第3作、らしい。けど、私が読んだのも、日本で出版されたのも、その後の「ガープの世界」と順番は逆みたい。(私は86年には文庫版で“ガープ”を読んでる。)
ストーリーは、トルストイが読んだら、ぶっ飛んぢまうだろうな、って感じだ。
二組の夫婦が、えーと、なんだ、交換してる話だ。
語り部の「僕」は歴史作家でアメリカ人、妻のウチ(正確な名前はウチカ)はウィーンの近くの生まれ。
たぶん主人公なのは、もう一組の夫婦の男セイヴァリン。彼はレスリングのコーチで、ドイツ語教師。その妻のイーディスは、ニューヨークの出身で、作家で、夫より背が高い。
レスリングのコーチだし、ポーランドは出てくるしで、“ガープ”に近いものあるなあ。(動物園とレスリングのことしか書けねえのかよ、という批判もあるそうな? あ、当然だけど、タイトルの158ポンドは、レスリングの階級ね。)
両夫婦とも、運命の導くまま、数奇な人生が接点を持ったがゆえに、それぞれポーランドで出会ったんだけどね。
どうして、この二組が出会って、どうして今の状態にあるかは、実はよくわからない。でも、お互いのパートナーを、えーと、交換して、それはそれで四人が四人とも満足してるっぽい。
初めて読んだときは、なんぢゃこれ?と思ったもんだが(それが証拠に、それ以降読み直してない)、いま読むと、べつに私に心境の変化なんかないけど、わりとスラーっと読めたりはする。
細かい中身はどうでもいいけど(ホントは、読む以外に、語りようがない)、アーヴィング的世界に引き込まれちゃうのは、例によって圧倒的な物語の展開である。
「僕」の妻であるウチ(ウチカ)が我慢強い性格なのは、その幼少期に端を発するんだというのが冒頭。
第二次大戦末期、オーストリアに侵攻してきたロシア軍から、わが子を守るために、母はウチを腹を割いた牛のなかに押し込めて隠したという。ウチはそこで身動きもせず言葉も発せず、じっと災厄が去るのを待ち続ける。
こういう、想像を絶する展開を書かせたら、アーヴィングの右に出るものはいないよね。これにグイグイと引き込まれちゃうわけだ。
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クロイツェル・ソナタ 悪魔

2014-01-14 20:57:23 | 読んだ本
トルストイ/原卓也訳 昭和49年 新潮文庫版
なんで、こんなもの持ってんだろうね、って見つけた瞬間に自分でも不思議に思ってしまった文庫。
まあ、きっと若気の至りでトルストイとか読んでみたくなったんだろうけど、長そうなのは読む根気がないので、いちばん薄っぺらそうな本を手に取ったんだろうな、俺。
もちろん昭和49年にそんな気になるはずもなく、持ってるのは平成元年の25刷。
表題のとおりの、短編がふたつだけ入ってる文庫。
ロシア文学ったら、滔々と己の心中を独白するかのような長いセリフのまわしかたが何とも魅力的なんだけど(慣れないと、退屈で疲れるだけ)、短編でもそのあたりは譲ってくれないよ。
「クロイツェル・ソナタ」のほうは、まさにそんな感じなんだけど、旅の汽車のなかで居合わせた乗客の会話から始まり、結婚は神聖なものであるべきだ、みたいな古き良きロシア的な意見に対して、そんなきれいごとの愛情なんてもんは無いんだよと異を唱える紳士が主人公。
妻の不貞を疑う夫の話なんだが、そういう嫉妬とか猜疑心とかって感情だけぢゃなくて、自分が妻に対して持ち合わせてる感情だって、肉体的なものに関する欲望だけなんぢゃないかと、己の内面を省みてウジウジと悩むとこが、やっぱロシア文学的でいいねえ。
文庫の解説によると、どうやらトルストイはマジで、性的欲望こそ不幸や悲劇の源、望ましいのは絶対の純潔をつづけること、と考えてたっていうんだけど、私ゃまた、誇張して描くことでシニカルにっていうか逆にそういう考えをけなしてんのかと思っちゃった。
「悪魔」のほうは、ロシアの貴族階級の末裔の若者の話で、独身時代には村の誰かの女房とたびたび遊んでたってとこが発端である。割り切った関係ってやつだね。
なんせ、『健康のために必要なだけなんだ』なんて自分で自分に言い訳しちゃあ関係を続けちゃうんだから、貴族階級というのはうらやましい。
んで、やがて理想の伴侶をみつけて、幸せな結婚生活を始めることになるんだけど、自分ではあとくされなく過去は清算したつもりでいた。
ところが、その女が自分の近くにまた現れることになった。
で、ここで問題なのは、その女が、復縁を迫ってくるとか、過去の関係を盾に取って恐喝まがいなこと仕掛けてくるとか、そういうんぢゃないんだよね。男のほうが、まだ俺はあの女に心が動いてしまうのかとか、ウジウジ悩む。
ロシア文学にしては、プロットが短くて、さくさく読める一品。
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ギャンブル依存とたたかう

2014-01-12 17:42:31 | 読んだ本
帚木蓬生 2004年 新潮選書
なんで持ってんだろうね、こんな本。たぶん、シャレで読んでみようと思ったんだろうね、ギャンブル好きだから、私。
一回、つっと読んだっきり、今回まで二度と読んだことなかったわ。なんで売っちゃわないんだろうね、こういうのを。マンガ売っちゃうくらいなら、再び読まない本のほうを売んなよって気もするが、まあ売りにいくのもめんどくさいってのもある。(引越でもしないと。)
さて、著者は精神科医で小説家でもある。ただし、残念ながら柴田錬三郎賞とか山本周五郎賞とか受賞してても、私はそういうのに手を伸ばさないので知らない。
んで、「ギャンブル依存症は誰もがかかりうる正当な病気であり、病気であるからにはその治療法が存在します」ということを、広く知らしめるために書かれた本。
なかでも、パチンコに対してすごく厳しい態度、っつーか何か恨みでもあんぢゃないのってくらいの勢いで、弊害、というか存在そのものが害悪というスタンスか、とにかくケチョンケチョンに言ってるのが、関係ない私には面白くて笑っちゃいそうになる。
プロローグが、一介の主婦がパチンコにはまって、自堕落な生活になり、ウソ言って借金重ねて、家族も不幸になるさまを描いた、実際の症例なのかフィクションなのか分かんないけど、けっこう悲惨な物語なんだけど。
ほかにも、本文中にパチンコを攻撃してるとこは、次のようにいっぱい。
>ギャンブル依存には、それぞれのお国柄が反映されます。日本のギャンブルの最大の特徴は、何といってもパチンコ店の存在です。(略)たいていのギャンブルが法律によってその場所や実施方法が限定されているのに対し、パチンコ店にはその制約もありません。あたかもカジノを、日本全土に満遍なくちりばめて設置しているのと同じなのです。
>ギャンブル依存者がわが国にどのくらいいるか、当然のことながら調査はされていません。パチンコ産業が日常生活にこれだけ浸透し、公営ギャンブルも歴史が長いというのに、統計の端緒にさえついていないのですから、恐ろしいほどの行政の怠慢です。
>本来は年齢層ごとに特徴をもつギャンブルですが、わが国ではその棲み分けが年々ゆるくなっており、とくにパチンコ店によって年齢格差が弱められ、世界の中でも特異な様相を呈しているのです。
>最近日本で浮上してきたのが、カジノ構想です。(略)先進国のうちでカジノが存在しないのは日本だけです。しかしここで考えなければならないのが、日本独自のギャンブル場、すなわちパチンコ店があるという事実です。この存在に目をつぶったままで、先進国なみにカジノを合法化すれば、それこそ日本はギャンブル汚染国になってしまいます。
>(略)日本でギャンブル依存症の最大の温床になっているのは、パチンコとスロットマシンです。(略)これがすべて非公営だという点に、ギャンブルにおける日本の特殊性が集約されているのです。
などなど。
パチンコやんない私としては、どうぞ言っちゃってください、という感じですが。
で、肝心の治療法のとこなんだけど、初めて読んだときは、意味わかんなくて、退屈でかなり素っ飛ばして読んぢゃった気がするんだけど、その後、吾妻ひでおの『失踪日記』とか読んで、アル中治療のための病院生活の知識とか得たんで(しかし私の知識って、むかしからマンガからばっかりだね)、あー同じようなもんだ、と今回はよくわかった。
アルコール依存のアルコホーリクス・アノニマス(AA)とおなじように、ギャンブラーズ・アノニマス(GA)という自助グループがあって、そのミーティングで自身の体験などを語り合うんだそうだ。
(なんかアルコールとちがって、ギャンブルだと、自分が勝ったときの自慢合戦になりそうなもんだけど。)
GAの回復のためのプログラムは十二のステップから成ってる(こういうのは面白くないので、ここに引用したりしない)んだが、これを
>こうやってじっくり十二のステップの中味を見ていくと、実にうまく構成されていることがわかります。まさに依存症の回復のための英知のかたまりであり、いうなれば目に見えない心の世界遺産です。
とまで持ち上げてんだけど、それは仲間ボメのしすぎだろという気がする。
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