JR東海会長 葛西敬之氏のコラム。(産経新聞2008/4/26)
***コラム冒頭より引用*****
ここ10年余り、「戦後体制」の「制度疲労」やそれを改めるための「改革」が政策の課題にあげられなかったときはなかったといってよい。そして、すべてが期待はずれに終った。
およそ「形」、すなわち組織や規定を変えれば自動的に「意識」の改革がもたらされ、結果として実体の「効率化」が実現すると本気で考える人は実務を達成した経験のない人だろう。実効的に「改革」を進めようとすれば、まず現実を直視し「人」の意識を活性化させなければならない。それが具体的な「行動」となって初めて「改革」の実績が上がる。組織や規定など「制度」の改変は達成された成果を「整える」ために最後に行われる。それがほとんどの場合の現実的手順である。
その逆さまを行って失敗した典型が省庁の再編統合である。いくつかの省庁を形だけを合併し、大臣、事務次官、局長の数を形式的に削減してみせただけのものだった。しかし、大臣の代りに副大臣や政務官を増設し、事務次官の代りに審議官を増やしたりしたのだから、実質的には各省庁を肥大化させ非効率を増大させたに過ぎない。実施案作成の過程で各省庁は自省の勢力温存に奔走するばかりで本来の行政がおろそかになり、良いことは一つもなかった。
最悪なのは、それが政府や与党の中に蔓延している「できるところから見える形で」やればよいという気風を映していることだ。つまり取り組んでいる姿を国民に見てもらい、評価してもらえさえすれば結果はどうでもよいという気風である。いわば究極の官僚主義であり、自分の任期はせいぜい2年だという現実が組み合わさると最悪の無責任体制が出来上がる。これまでの「改革」のほとんどは、この無責任体制の拙速な落とし子であった。
問題の根源は「制度疲労」にあるのではなく、日本人の現実直視能力や責任感、つまり「自立意識」の劣化にあり、その原点に「戦後」という虚構がある。
****引用途中で終わり*****
葛西氏の文章はその後以下のように続く。
1945年までの62年間には、「第二次世界大戦後」に、植民地の独立があり、朝鮮戦争があり、米ソ冷戦があった。現日本人の70%以上が、「第二次世界大戦後」に生まれている。そのような状況下、日本での「戦後」は「第二次世界大戦後」を意味し、歴史は止まった如くに政治家、知識人、マスコミ人が論じていることを指摘。
まずは、日本人の意識改革のために、「戦後」という用語を廃止して、「第二次大戦後」「米ソ冷戦後」という世界の常識に合わせた言い方に変えることを葛西氏は提案している。
葛西氏は、われわれがはまりやすい落とし穴を指摘してくれている。
「システム」をつくれば、すみやかに問題は解決すると信じて、システムを作ることに最大限の努力をするが、問題は一行に解決されなかったとう落とし穴。
大切なのは、「人の意識」がどう変わっていくかにある。「人の意識」が問題解決に向け活性化されて初めて目標に到達できる。
例えば、麻しんを日本からなくそうと小児科開業医有志が精力的に活動している。その意識の活性化が、ひとつには、厚労省、国立感染症センター等の担当者にも波及し、広報活動の全国展開が可能になったり、予防接種制度が充実して行く。もう一つには、国民ひとりひとりに麻しんを防ぐことの大切さが伝わり、予防接種を必ずうけるようになる。学校も生徒に麻しんの予防接種を受けることの大切さを啓蒙することとあいまって、確実に予防接種を実施する。その結果、麻しんをゼロにした日本にすることができるであろう。
活性化した意識の広がりを、ゆっくりではあるが確実に私は感じるので、麻しんをゼロに必ずできると思っている。
たばこの煙から子どもを守ること、事故死からこどもを守ること、これらも「意識の活性化」により到達できる話。
ノーマライゼーションの社会の実現も結局は、「意識の活性化」が鍵。
言い出すと、すべてに当てはまる。
ゆめゆめ、「システム」ありき、「制度」ありきにならぬように、行動したいと思う。議会の議論でも注意して見ていきたい。
***コラム冒頭より引用*****
ここ10年余り、「戦後体制」の「制度疲労」やそれを改めるための「改革」が政策の課題にあげられなかったときはなかったといってよい。そして、すべてが期待はずれに終った。
およそ「形」、すなわち組織や規定を変えれば自動的に「意識」の改革がもたらされ、結果として実体の「効率化」が実現すると本気で考える人は実務を達成した経験のない人だろう。実効的に「改革」を進めようとすれば、まず現実を直視し「人」の意識を活性化させなければならない。それが具体的な「行動」となって初めて「改革」の実績が上がる。組織や規定など「制度」の改変は達成された成果を「整える」ために最後に行われる。それがほとんどの場合の現実的手順である。
その逆さまを行って失敗した典型が省庁の再編統合である。いくつかの省庁を形だけを合併し、大臣、事務次官、局長の数を形式的に削減してみせただけのものだった。しかし、大臣の代りに副大臣や政務官を増設し、事務次官の代りに審議官を増やしたりしたのだから、実質的には各省庁を肥大化させ非効率を増大させたに過ぎない。実施案作成の過程で各省庁は自省の勢力温存に奔走するばかりで本来の行政がおろそかになり、良いことは一つもなかった。
最悪なのは、それが政府や与党の中に蔓延している「できるところから見える形で」やればよいという気風を映していることだ。つまり取り組んでいる姿を国民に見てもらい、評価してもらえさえすれば結果はどうでもよいという気風である。いわば究極の官僚主義であり、自分の任期はせいぜい2年だという現実が組み合わさると最悪の無責任体制が出来上がる。これまでの「改革」のほとんどは、この無責任体制の拙速な落とし子であった。
問題の根源は「制度疲労」にあるのではなく、日本人の現実直視能力や責任感、つまり「自立意識」の劣化にあり、その原点に「戦後」という虚構がある。
****引用途中で終わり*****
葛西氏の文章はその後以下のように続く。
1945年までの62年間には、「第二次世界大戦後」に、植民地の独立があり、朝鮮戦争があり、米ソ冷戦があった。現日本人の70%以上が、「第二次世界大戦後」に生まれている。そのような状況下、日本での「戦後」は「第二次世界大戦後」を意味し、歴史は止まった如くに政治家、知識人、マスコミ人が論じていることを指摘。
まずは、日本人の意識改革のために、「戦後」という用語を廃止して、「第二次大戦後」「米ソ冷戦後」という世界の常識に合わせた言い方に変えることを葛西氏は提案している。
葛西氏は、われわれがはまりやすい落とし穴を指摘してくれている。
「システム」をつくれば、すみやかに問題は解決すると信じて、システムを作ることに最大限の努力をするが、問題は一行に解決されなかったとう落とし穴。
大切なのは、「人の意識」がどう変わっていくかにある。「人の意識」が問題解決に向け活性化されて初めて目標に到達できる。
例えば、麻しんを日本からなくそうと小児科開業医有志が精力的に活動している。その意識の活性化が、ひとつには、厚労省、国立感染症センター等の担当者にも波及し、広報活動の全国展開が可能になったり、予防接種制度が充実して行く。もう一つには、国民ひとりひとりに麻しんを防ぐことの大切さが伝わり、予防接種を必ずうけるようになる。学校も生徒に麻しんの予防接種を受けることの大切さを啓蒙することとあいまって、確実に予防接種を実施する。その結果、麻しんをゼロにした日本にすることができるであろう。
活性化した意識の広がりを、ゆっくりではあるが確実に私は感じるので、麻しんをゼロに必ずできると思っている。
たばこの煙から子どもを守ること、事故死からこどもを守ること、これらも「意識の活性化」により到達できる話。
ノーマライゼーションの社会の実現も結局は、「意識の活性化」が鍵。
言い出すと、すべてに当てはまる。
ゆめゆめ、「システム」ありき、「制度」ありきにならぬように、行動したいと思う。議会の議論でも注意して見ていきたい。