北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

プロの頭の中はなかなか伝わらない

2012-08-27 23:46:28 | Weblog
 弟子屈の新そば祭りへ参加した話は昨日書いたところですが、蕎麦打ち名人の高橋さんが蕎麦を打つ所作を見て、改めて職人技について考えました。

 名人の蕎麦打ちには見物人も多く見入っていましたが、実際に蕎麦打ちについて悩んだり考えたりしている自分にとっては特に興味深いものがありました。

 それは、『名人がこの瞬間に今何を見て何を考えているか』が多少は想像できるからですが、それとても自分なら5秒くらい考えるだろうな、というところを1秒も考えずに作業に移しているような感覚。

 ちょっと専門的にいうと、玉から丸のしにするのに、丸のしがやたらに大きいのが特徴。そして丸のしから生地を四角くする角出しにした段階でもうほとんど生地の幅が決まっているというのが名人の技。





 素人は、小さい丸のしから小さ角出しをしてそこから調整をしてゆくのですが、それを一発でほぼ最終の大きさに持って行けるのが熟練の手業というわけです。

 この調整に一手間数秒、数分がかかるから素人は時間がかかるのですが、名人の蕎麦打ちはそこが一気にはしょられています。さすがに手早い。

 蕎麦打ちで伸す作業というのは、要は生地の厚さを均一な厚さの面積に変換する作業です。

 そしてどの段階でどれくらいの大きさや厚さになっていないとだめか、というセンサーの数と判断を繰り返す回数が圧倒的に多いというのが名人の打ち方を見ていて感じたことでした。


 蕎麦打ちに限らず、いわゆるプロと呼ばれる人たちにはその人の分野でこのセンサーの数と判断の細かさを持っていて、その判断の内容と理由などは簡単に説明などできるものではないとも思うのです。


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 よく医師が病気を見立てる時に『情報の偏在』という言い方をしますが、患者の様々な症状を把握して総合的に病気を診断するのが医学のプロである医師の仕事。

 それは医師の長年の経験とものすごい量の知識を総動員して形作られるもので、素人が「なぜそう診断したのか」を二言三言質問をして、説明を聞いたとしても理解をするのは実はとても難しいことなのです。

 最近はアカウンタビリティ(=説明責任)という名の下に、判断理由などをできるだけ分かりやすく説明する側の義務について語られますが、実は説明を聞いて理解をするためには受け手の側にもそれなりの素養が必要なはずで、基礎的な単語の意味を一から説明するのはアカウンタビリティとは言わないでしょう。

 真実に近づこうと思えば、受け手の側が自ら努力してより深い理解ができるように自らを高める必要があって、少しでも『情報の偏在』を解消出来るように努めるべきなのだと思います。


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 今はすっかり影をひそめてしまいましたが、現政権による事業仕分けが華々しく持ち上げられていたときに、居並ぶ役人が「それを説明出来ないあなたが悪い」と仕分け人達から罵倒されていたのを見てなんだか嫌な思いがしたのは、この受け手の側が不勉強なまま説明を聞いていたその態度に違和感があったのです。

 受け手の側も勉強が必要なのに、そこは棚に上げて理解出来ない自分ではなく、理解させることができない相手を避難するというのは実におかしな風景でした。

 まあいかにも「どうせ理解出来ないだろ?」とばかりにのらりくらりと説明らしきことをやっていけしゃあしゃあとしている説明者も見受けられるので、全てはケースバイケースですが、少しでも自分を高めておくことがまずは自分にできることではないでしょうか。

 そんなわけで、自分の目さえしっかりしていれば、高橋名人の蕎麦打ちからでも得られるものは大きいというお話。


 これからの季節、あちこちであるそば祭りにぜひご参加を。
 
コメント
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