先日、岩見沢と旭川の墓参りに両親を連れて行ったのですが、その際に両親から言われたのは、「ついでに昔の知人の家まで連れて行って欲しい」ということ。
両親の昔の知人とは、私が小学生低学年を稚内で過ごしていた時の隣人のAさんで、今はご主人を亡くして奥さんとお嬢さんが同居しているのだとか。
Aさんのご主人とは父が同じ職場で働いていたのですが、その方は早くに職場を離れて起業をされていました。
お嬢さんは私より歳が二つ上で、小学校2年生の頃にお家を訪ねて遊んだ記憶があります。
父にとっては印象深い隣人でしたが、いつの間にか職場を離れられたので、もうずっと会っていないのでした。
その隣人の住まいが分かったのはなんと新聞での死亡欄から。
父は毎朝新聞の死亡欄を丹念に見ているのですが、そこで亡くなった方の名前を発見し、同時に喪主が知った名前のその方の奥さんだったことから、「もしや」と考えて、一枚の葉書を送ったのだそう。
それには「自分は○○と申しますが、もしかしたらAさんではありませんか。失礼だったらお許しください」という内容が書かれていて、それがきっかけとなって先方からも連絡のハガキが届いて、今回の再会となったもの。なんと45年ぶりの再会です。
墓参りのついでだったので、両親と私と妻、それに弟の一家が大挙して押しかけた形となりましたが、先方も我々のことは覚えていてくれて、「ハガキが来た時は懐かしかったー」と言ってくださいました。
残念ながらAさんのご主人にはお会い出来ませんでしたが、両親は仏壇に手を合わせて再会の機会を与えてくれたことに感謝を思いを捧げておりました。
私自身はまだ若いせいか、新聞の死亡欄なんてなんのためにあるのか、と思っていましたが、両親の世代になると今生で縁があった方達との最後の接点という側面があることを改めて知りました。
※ ※ ※ ※
縁とは不思議なものです。
たった一度あっただけで一生付き合って行ける友もいれば、何年同じ職場にいてもそれ以上にはならない人たちも大勢います。
仲の良かった人たちといつしか別れることになった先に、再会の機会はあるでしょうか。
再会したからといって新しい何事かが起きるわけではないでしょう。しかしそれでも今生の時間を共に過ごした喜びを分かち合うだけでもきっと意味があるのだと思います。
子供や孫だって不思議な縁で結ばれた、同じ時間を共有するパートナーです。
夏休みはそんな再会にぴったりの季節かも知れません。
良き再会で、良い夏休みをお過ごしください。
両親の昔の知人とは、私が小学生低学年を稚内で過ごしていた時の隣人のAさんで、今はご主人を亡くして奥さんとお嬢さんが同居しているのだとか。
Aさんのご主人とは父が同じ職場で働いていたのですが、その方は早くに職場を離れて起業をされていました。
お嬢さんは私より歳が二つ上で、小学校2年生の頃にお家を訪ねて遊んだ記憶があります。
父にとっては印象深い隣人でしたが、いつの間にか職場を離れられたので、もうずっと会っていないのでした。
その隣人の住まいが分かったのはなんと新聞での死亡欄から。
父は毎朝新聞の死亡欄を丹念に見ているのですが、そこで亡くなった方の名前を発見し、同時に喪主が知った名前のその方の奥さんだったことから、「もしや」と考えて、一枚の葉書を送ったのだそう。
それには「自分は○○と申しますが、もしかしたらAさんではありませんか。失礼だったらお許しください」という内容が書かれていて、それがきっかけとなって先方からも連絡のハガキが届いて、今回の再会となったもの。なんと45年ぶりの再会です。
墓参りのついでだったので、両親と私と妻、それに弟の一家が大挙して押しかけた形となりましたが、先方も我々のことは覚えていてくれて、「ハガキが来た時は懐かしかったー」と言ってくださいました。
残念ながらAさんのご主人にはお会い出来ませんでしたが、両親は仏壇に手を合わせて再会の機会を与えてくれたことに感謝を思いを捧げておりました。
私自身はまだ若いせいか、新聞の死亡欄なんてなんのためにあるのか、と思っていましたが、両親の世代になると今生で縁があった方達との最後の接点という側面があることを改めて知りました。
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縁とは不思議なものです。
たった一度あっただけで一生付き合って行ける友もいれば、何年同じ職場にいてもそれ以上にはならない人たちも大勢います。
仲の良かった人たちといつしか別れることになった先に、再会の機会はあるでしょうか。
再会したからといって新しい何事かが起きるわけではないでしょう。しかしそれでも今生の時間を共に過ごした喜びを分かち合うだけでもきっと意味があるのだと思います。
子供や孫だって不思議な縁で結ばれた、同じ時間を共有するパートナーです。
夏休みはそんな再会にぴったりの季節かも知れません。
良き再会で、良い夏休みをお過ごしください。