釧路啄木の会に招かれて講話を頼まれました。
趣旨は、6月に盛岡市で行われた「啄木没後百年記念事業に参加した感想を聞かせてほしい」とのこと。
会場は啄木がかつて働いた(旧)釧路新聞社を復元した港文館の二階展示場で、啄木の会の皆さん20人ほどが参加してくださいました。
前半は私からの基調報告で、盛岡市の様子やイベントの様子、またゆかりの地サミットでの出席者の発言などを紹介しました。
参加者の中には盛岡へ行ったことのある方も多く、紹介した写真も馴染みの深いもののようでした。
私などよりはずっと啄木に関しては年季の入った参加者の皆さんです。
【港文館で啄木に会いましょう】
※ ※ ※ ※ ※
今日の趣向の二つ目は、啄木研究家にして釧路啄木会の会長である北畠立朴先生と私との対談。
事前に説明も打ち合わせもない、ぶっつけ本番の対談です(笑)。
しかし啄木に関しては何を聞いても答えてくださる北畠先生との問答は私も大いに楽しみでした。
まず私からは「釧路は盛岡市に次いで啄木の碑が多いまちですが、どうしてなのですか、と訊かれて答えられませんでした。この点はいかがですか?」と質問。
すると北畠先生は、「やはり丹波節郎さんのように情熱あふれる先人がいたということでしょうね。最初は歌碑を建てるのに寄付を求めると、『あんな奴のために寄付なんかできるか』といって、女遊びや遊郭にふける啄木というマイナスのイメージを持つ市民も多かったようですが、それも当時のことで、今年記念碑を作ろうという活動をしたときは、本当に話を聞いてくださる方ばかりでしたよ」とのこと。
さらに、「当時は南大通りを管理している道庁さんも非常に協力的で、最初は16基の歌碑を作ろうという構想があったんですよ」
「16基もですか!」
「ええ、それでそういう依頼を受けて私も釧路ゆかりの歌から16首を選んでお渡しもしていたんです。ところがその後に阪神淡路大震災が起こって、8基になり結局4基だけできました」
本当は釧路にはもっと歌碑があってもいいのかもしれません。
※ ※ ※ ※ ※
私からの次の質問は、「それにしても、数多いる歌人の中からどうして啄木は一際世間で愛されているのでしょうか?」というもの。
「そうですね、やはり彼の天才性があるのではないでしょうか」
「天才性ですか」
「はい、なにしろ彼が釧路新聞で縦横に活躍したのは22歳の頃ですよ。それがまるで40歳や50歳くらいの印象の文章を平気で書いています。彼は新聞記事はこんなものだ、という人の文章を見ただけですぐに同じくらいに創ることができたんです」
「なるほど」
「特に彼の天才性が発揮されたのは、短歌づくりの世界です。釧路を離れて東京へ行った六月のことですが、彼は歌が次から次に頭に浮かんでたまらなくなったときがありました。なんと一晩で141首を読んだんですが、ほとんど頭に浮かんだ短歌をそのままノートに写したというノートが残っています。全く校正などした形跡はありません」
「全く直さずに一晩で141首ですか!」
「私もただただ141首を書き写してみましたが、それだけでも大変な時間がかかりました。『一握の砂』に残されている短歌の半分はこのときに詠まれた歌なんです」
「すごいですね!」
「やはりある種の天才性と、それにバランスするような欠陥性が同居しているようなところがあったんでしょうね。実際彼は行く先々で、最初は調子が良いのですが、やがて周りとケンカし始めます。そうしてその土地にいられなくなって飛び出すということを繰り返しています。こういうのも天才性の裏側なんでしょうねえ」
※ ※ ※ ※ ※
久しぶりに北畠先生とフリートークができてとても楽しい時間でした。
また啄木のエピソードも数多く知ることができました。
釧路が啄木に縁のある土地であるということはブランドとしてとても価値の高いことです。
もっと啄木を活かしたまちづくりをしたいですね。
趣旨は、6月に盛岡市で行われた「啄木没後百年記念事業に参加した感想を聞かせてほしい」とのこと。
会場は啄木がかつて働いた(旧)釧路新聞社を復元した港文館の二階展示場で、啄木の会の皆さん20人ほどが参加してくださいました。
前半は私からの基調報告で、盛岡市の様子やイベントの様子、またゆかりの地サミットでの出席者の発言などを紹介しました。
参加者の中には盛岡へ行ったことのある方も多く、紹介した写真も馴染みの深いもののようでした。
私などよりはずっと啄木に関しては年季の入った参加者の皆さんです。
【港文館で啄木に会いましょう】
※ ※ ※ ※ ※
今日の趣向の二つ目は、啄木研究家にして釧路啄木会の会長である北畠立朴先生と私との対談。
事前に説明も打ち合わせもない、ぶっつけ本番の対談です(笑)。
しかし啄木に関しては何を聞いても答えてくださる北畠先生との問答は私も大いに楽しみでした。
まず私からは「釧路は盛岡市に次いで啄木の碑が多いまちですが、どうしてなのですか、と訊かれて答えられませんでした。この点はいかがですか?」と質問。
すると北畠先生は、「やはり丹波節郎さんのように情熱あふれる先人がいたということでしょうね。最初は歌碑を建てるのに寄付を求めると、『あんな奴のために寄付なんかできるか』といって、女遊びや遊郭にふける啄木というマイナスのイメージを持つ市民も多かったようですが、それも当時のことで、今年記念碑を作ろうという活動をしたときは、本当に話を聞いてくださる方ばかりでしたよ」とのこと。
さらに、「当時は南大通りを管理している道庁さんも非常に協力的で、最初は16基の歌碑を作ろうという構想があったんですよ」
「16基もですか!」
「ええ、それでそういう依頼を受けて私も釧路ゆかりの歌から16首を選んでお渡しもしていたんです。ところがその後に阪神淡路大震災が起こって、8基になり結局4基だけできました」
本当は釧路にはもっと歌碑があってもいいのかもしれません。
※ ※ ※ ※ ※
私からの次の質問は、「それにしても、数多いる歌人の中からどうして啄木は一際世間で愛されているのでしょうか?」というもの。
「そうですね、やはり彼の天才性があるのではないでしょうか」
「天才性ですか」
「はい、なにしろ彼が釧路新聞で縦横に活躍したのは22歳の頃ですよ。それがまるで40歳や50歳くらいの印象の文章を平気で書いています。彼は新聞記事はこんなものだ、という人の文章を見ただけですぐに同じくらいに創ることができたんです」
「なるほど」
「特に彼の天才性が発揮されたのは、短歌づくりの世界です。釧路を離れて東京へ行った六月のことですが、彼は歌が次から次に頭に浮かんでたまらなくなったときがありました。なんと一晩で141首を読んだんですが、ほとんど頭に浮かんだ短歌をそのままノートに写したというノートが残っています。全く校正などした形跡はありません」
「全く直さずに一晩で141首ですか!」
「私もただただ141首を書き写してみましたが、それだけでも大変な時間がかかりました。『一握の砂』に残されている短歌の半分はこのときに詠まれた歌なんです」
「すごいですね!」
「やはりある種の天才性と、それにバランスするような欠陥性が同居しているようなところがあったんでしょうね。実際彼は行く先々で、最初は調子が良いのですが、やがて周りとケンカし始めます。そうしてその土地にいられなくなって飛び出すということを繰り返しています。こういうのも天才性の裏側なんでしょうねえ」
※ ※ ※ ※ ※
久しぶりに北畠先生とフリートークができてとても楽しい時間でした。
また啄木のエピソードも数多く知ることができました。
釧路が啄木に縁のある土地であるということはブランドとしてとても価値の高いことです。
もっと啄木を活かしたまちづくりをしたいですね。