最近の日本社会を見ていると、本当に「何でもあり」の世界になってきた気がします。
資本主義の元祖と目されているアダム・スミスがその著書「国富論」の中で「見えざる手」なんて言ったために、経済社会には自浄能力と自然淘汰があって、物事は落ち着くところに落ち着くと思っている人が増えたのでしょうか。
政治もマスコミも社会も、「後で国民や社会の審判を受け」れば、まずはなんでもやってみればよい、と思っているかのようで、自己規制とか道徳とか品格といった言葉の意味が失われているような気がします。
ネットは批判精神を持つ市民の武器になり、匿名性が社会の武器になったこともありましたが、今や実名で責任ある発言でなければ信じられない時代になりつつあります。
それに、読む側の方も、記事を読んでカッとしたら、すぐ拡散するのではなくて、「ああ、この私をムカッとさせるように上手に書いているんだな、なるほどね」とそもそもを疑って俯瞰できるような能力が必要に思います。
かつて掛川で仕えた榛村市長さんは、15分以上話をするときは必ずレジメを作って聴衆に配りました。
「自信のない政治家は自分の考えを文字にはせずに、その場限りの空中に消えてしまう言葉でしか語らないんだ」と言っていました。
今や言葉を実名で書いても、矛盾があっても後から説明しないというのでは、まさに「何でもあり」だなあ、と思います。
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そもそもアダム・スミス先生は、53歳で国富論を書くはるか前の36歳で「道徳感情論」という本を出版し、「人間のさまざまな共感の心が作用し合った結果として社会秩序が形成される」と考えていたようです。
今や面白がってトランプ大統領の言うような「フェイクニュース(偽情報)」を平気で流す人もいて、読む側も情報の信ぴょう性を判断せずに拡散させたりすると、責任論も出始めています。
せめて200年も前に書かれた本の時代を省みて、社会の秩序が形成される方向に働くと良いのですがね。
何でもありで後から謝るっていうのは、もう少し事前に自己規制できないものか、と思う今日この頃。