北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

釧路夕焼けフォーラムが開かれました

2012-02-11 22:52:24 | Weblog

 【釧路の夕焼けはロマンチックです】


 釧路夕焼け倶楽部が主催する「釧路夕焼けフォーラム2012」が市内のホテルで開かれました。

 フォーラムは二部構成で、第一部のセミナーでは、UHBのU型テレビでお天気キャスターをされている菅井貴子さんの講演と、地元まちづくりに携わっている若手の皆さんによるパネルディスカッションが行われました。


   【講演会は大人気】



 「釧路の夕焼けを科学する」と題した講演をしてくださった気象キャスターの菅井貴子さんは、明治大学理工学部数学科卒業という異色の経歴。
 
 大学時代は自転車部に在籍していて、北海道での合宿で降り立ったのが釧路空港だったのだそう。不思議なご縁です。

 NHK北海道から現在は民放のuhbに移られていますが、uhbでは一日前の視聴率が分単位のグラフになっていて見せられるのが恐いと会場を沸かせます。

 太陽が日の入りの際に一瞬だけ緑に発色するグリーンフラッシュが釧路で観察されたというニュースの時は、グラフが右肩上がりで視聴者からの反響も多かったのだそうですよ。


    ※    ※    ※    ※


 天気に関する面白ネタでは、ドイツでは高気圧と低気圧に命名権が売られているのだそう。

 高気圧は299ユーロで低気圧は199ユーロ。売って得たお金は観測費用に充てられて、観測の精度向上に寄与しています。

 でも低気圧はすぐにいなくなるし悪天候は悪さをするので、名前を付けるなら少々お高くても高気圧の方が良さそうです。



   【菅井さん(右から二番目)と仲間たち】

 
    ※    ※    ※    ※


 第二部はパネルディスカッション。


 夕焼け倶楽部代表の芳賀さんは、この活動のきっかけを、「ネットでオーロラの映像を配信している人がいた。これに感動を受けて、こういうものを見続けているといつしか本物のオーロラを見たくなるだろうな、と思った」とのこと。

「釧路の夕焼けもネットで配信出来れば、実際に見られない遠くにいる人や病院や世界中の人たちに夕焼けを見てもらうことができると思ったが、どうやったら良いか分からなかったところ、多業種の会で出会った人たちの協力を得て、twitcastというネットサービスでできるようになった。釧路夕焼け倶楽部は、この思いに賛同してくれた人たちの集まりです」

 この情熱、いいですねえ。


    ※    ※    ※    ※




 パネラーの青年会議所大野副理事長は、青年会議所が三年間にわたって取り組んできた夕日プロジェクトについて説明。

「今では夕日の時間にはたくさんの人が幣舞橋の上で写真を撮ってくれるようになってきた」と喜んでいますが、彼自身も『夕日ハイボール』を市内の飲食店に売り込んで、飲んで参加できるまちづくりとして下支えをしてくれているのです。


 シクロプロジェクトの天内さんからは、「釧路に宿泊してもらいたいという狙いで、早朝ツアー、夕焼けツアーを試みている」とのこと。クシロとシクロの面白鉄板ネタを封印して、第二部では冷やかされていました。

 二十一世紀総合研究所の相原さんからは、「企業ブランド、地域ブランドなどは普通、商品やサービスとして提供されるが、世界三大夕日というブランドは販売することができない。夕日を活かした取り組みが繋がりあって一つの塊として地域内外に発信することができるかどうかが鍵」と冷静に分析。

 …かと思うと、「釧路の夕日の良さは、夕日と夕焼け、ロケーションの三つがセットになった三セット(=sunset)だ!」とオヤジギャグで会場から半ば強制的に?ウケておりました。


    ※     ※     ※     ※     ※


 最後に夕焼け倶楽部代表の芳賀さんは、「昨年は10人程度だが、本物を見たいという人が来たことも知っている。今日が実現したのも夢を見続けてきたからだ。夢を見続けて行動を継続して行きたい」とその決意が述べられました。

 私も昨年のこの会が発足した時の発会式に挨拶で参加した思い出があります。釧路の夕焼けで地域を盛り上げるこの活動にこれからも注目し、応援したいと思います。



【ところで】
 ところで、釧路の夕焼けが本当に他と違って魅力的なのはなぜなのか、ということについて、実はあまり語られていないような気がします。

 そこで私なりに釧路の夕日&夕焼けの魅力とその訳について考察してみたいと思います。

 まず釧路の夕日で言うと、その魅力の一つ目は、秋から冬にかけて晴れ間の続く太平洋気候である日本列島の東側に位置するまちのなかで、川から海に向かって夕日が落ちるというロケーションを持ったところはない、ということ。

 これは旧の釧路川が蛇行しながら河口付近で西側に大きく折れ曲がって太平洋に注いでいるという地形的な特徴です。


   【これね】


 二つ目は、その西側にそそぐ川の出口に、幣舞橋、四季の乙女の像、毛綱建築のMOOにキャッスルホテル、そしてサンマ船などの、人工的で都会的な添景物が配置されていること。

 三つ目は、その釧路川が実は上流の岩保木水門で洪水調整されていて、降雨による水位が変化しないことから高い堤防がなく、水面が目線に近いこと。これは都市内河川としては珍しいことです。

 そして夕焼けの魅力としては、幣舞橋だけではなく、湿原道路などで見ると、広い原野に壮大な空が広がり、視界180度にもわたる壮大な夕焼けを見ることができることを挙げたいと思います。

 いかがでしょう、釧路の夕日や夕焼けは実はいろいろな要素が集まったうえで魅力を増していると思いませんか。

 かつて1965年に、「釧路十景」という十の美しい風景が提案されたことがあって、その中の一つとして「釧路港の夕日」というのが入っていたそうです。

 そのときはあまり関心をひかなかったようですが、今また釧路の夕日と夕焼けとして地域が盛り上がれば良いですね。

 論語に、「近者悦べば遠者来る」という言葉があります。

 地域の住民たちが勝手に面白がって喜んでいれば、遠くの人たちが興味を持ってやってくる、という意味です。

 まずは地域の中が勝手に面白がってやろうではありませんか。

 関係者の皆さん、お疲れ様でした。
 
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小惑星探査機「はやぶさ」の川口淳一郎先生の講演会!

2012-02-10 23:45:59 | Weblog
 嬉しいニュースが飛び込んできました。

 小惑星探査機「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーを務め、はやぶさ帰還の際には一躍時の人となったJAXAの川口淳一郎教授の講演会が釧路で行われることとなりました。

 釧路市こども遊学館は、子供たちに科学と遊びの楽しさを伝える総合的学習施設ですが、かねてよりここはJAXAとの関係性が強く、昨年2月にもはやぶさの帰還カプセルの特別公開を開催していただきました。

 今回の講演会は、こども遊学館側から「カプセル展示一周年の記念イベントを行いたい」として昨年からJAXA側にお願いをしてきたもの。

 はやぶさが幾多のトラブルを乗り越えて、瀕死の状態でそれでも地球へ舞い戻り、オーストラリアの上空で最後の光を放って燃え尽きた瞬間には、多くの日本人が涙を流したことでしょう。

 この壮大なプロジェクトの中で、トラブルを冷静に処理し、決してあきらめずにスタッフを導き続けたのがほかならぬ川口先生でした。

 この川口先生はなにしろお忙しい方なので、なかなか釧路へ来ていただく日程が固まりませんでしたが、このたび、来月3月24日に釧路へ来ていただくことができるという連絡が入りました。

 本当に実現するんですね。万歳!



    ※     ※     ※     ※     ※


 
 川口淳一郎教授は、1955年青森県弘前市がご出身。1978年に京都大学工学部を卒業後、東京大学大学院工学系研究科航空学専攻博士課程を修了して、旧文部省宇宙科学研究所に助手として着任、2000年に教授に就任されました。

 現在はJAXAで宇宙航行システム研究系教授・研究主幹、同深宇宙探査センター長としてご活躍中。

 ハレー彗星探査機「さきがけ」や、工学実験衛星「ひてん」、火星探査機「のぞみ」などの科学衛星ミッションに携わられ、小惑星探査機「はやぶさ」では、プロジェクトマネージャーを務められました。

 講演会の演題は、「小惑星探査機『はやぶさ』の奇跡(仮題)」ということで、人類初の宇宙往復飛行を達成した「はやぶさ」プロジェクトに関する裏話や熱い思いがきっと聴けることでしょう。今からとても楽しみです。

 講演会の日時、会場などは下記のとおりですが、定員は800名で、3月1日よりこども遊学館、生涯学習センター2F、釧路市教育委員会(MOOの4F)で整理券を配布するそうです。どうぞお見逃しなく。

 またさらに、この講演会に合わせてこども遊学館では、この講演会前後の日程で、「はやぶさ」展、プラネタリウム特別投影「祈り~小惑星探査機『はやぶさ』物語」の上映なども行われる予定です。

 こちらも楽しみですね。晴れた釧路の夜空を見ながら、思い切り宇宙に思いをはせましょう。


【JAXA 川口淳一郎教授講演会 日程】

 開催日時:平成24年3月24日(土)13時~15時(予定)
 開催場所:釧路市生涯学習センターまなぼっと 大ホール
 対  象:小学生~一般
 参 加 料:無料
 
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商店街振興に立体マップはいかが

2012-02-09 23:45:45 | Weblog


 まちなかコンシェルジュ「くるる」が作った、「北大通りお買いもの立体マップ」が話題になっています。

 商店街ってお店の建物が連続して建っていますが、それを連続して立体的に見せるマップにしたというのは非常に面白い着眼点です。


   【2000部作って無料配布とは!】


 元々以前から、釧路市建築士会のメンバーが建物の立体切り絵を面白がっていて技術を磨いていたのですが、昨年6月頃から、「これって売れないかしらね」という人が表れて、アートギャラリー協力会などと協力し合って、まなぼっとをつくったのがグッズとして最初だったのだとか。

 その後、フィッシャーマンズワーフMOOや釧路市立博物館などの毛綱建築なども切り絵にして記念グッズにするなど、少しずつその数は増えてきました。

 そんな建築士の一人である下元さんという方が、昨年の暮れに「くるる」の方と会って、それまで「くるる」が作っていたマップを立体化できますかね、という話が出たのだそう。

「ちょっとやってみますか」といって、下元さんがちょいちょいとデモをしてみたところこれがすごいということになり、「2月の冬まつりまでに北大通り商店街のまちなみを立体マップにしてくれませんか」という話がもちあがり、一気に立体マップ作りが始まりました。

 作り方はデジカメで商店街のファサード(=建築物の正面デザイン)を連続して撮影して、それをデザイナーがイラスト化し、立体化するための切り込みを入れた型を起こすというわけ。

 これって実によくできていて、お店の前の道路にそのお店の電話や営業情報が書かれていて、単に立体の面白さだけではなく、立派に宣伝効果も併せ持っているのです。


   【ちゃんと宣伝になっています】


 商店街を宣伝するのにこういう切り口があったのか、と物珍しさと模型的な楽しさが同居する非常に面白い地図が出来上がりました。


   【かなり切り込みは入っていますが、カッターで切り離してゆきます】



   【まずは大きく起こして】



   【丁寧に折ってゆきます】


   【だんだん出来上がってきました】


   【商店街の街並みの完成です】
 


    ※     ※     ※     ※     ※


 こういう立体マップって、他の市町村の商店街でも同じようなものをつくりたいというニーズがあるのではないでしょうか。

 今日本中の地方都市の商店街では年々歳々お店が減っていて商店街は衰退の一途をたどっています。

 今現在の商店街の立体マップを作れば、それはある時代の商店街のまちなみの記録と記憶が形として残るということに外なりません。

「下元さん、これって他から依頼が来た場合にはどこでも作ることができますよね」
「もちろんです、まちなみを写真にとってイラスト化して立体の切り込みを作ればいいんです」

「他の商店街から依頼が来たら受けられますか?」
「たぶん大丈夫だと思いますよ」

「いいですねえ、大いに売り込みましょう。それにしてもこの立体マップは素晴らしい称号を手にしましたよ」
「称号ってなんですか?」

「仮にこれから有名な商店街の立体マップを作るところが出たとしても、立体マップ発祥の地は釧路であり、その第一号は釧路の北大通り商店街だ、ということですよ」
「おお!そう聞くとなんだか嬉しくなっちゃいますね。実は建物の立体化技術はどんどん高度化していて、かなり複雑なものでも立体に著せるようになっているんですよ、こんど違うのをお持ちしますね」


 さて、全国の商店街の皆さん、地域のシンボルまちなみの記録として、また商店街振興グッズとして、立体マップ作りに取り組んでみませんか?

 興味のある方は私か、釧路建築士会(電話0154-42-0033)へ直接ご相談してみてくださいね。


 頑張れ、全国の商店街!

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マリモの阿寒湖の調査開始

2012-02-08 23:45:42 | Weblog
 ある新聞社の方から電話があって、「明日の夕刊に、環境大臣の発表として、世界自然遺産の候補としていくつかの対象を国として調査するという記事を出します。その中にマリモの阿寒湖も候補に入っているようです」と連絡がありました。

「はあ、そうですか。しかし今の段階で国が調査を始めるというのはどういう理由なんでしょうか」
「うーん、国として次の世界自然遺産の候補をいくつか考える上で、学術的な知見が溜まってきたのでまずは調査をするということじゃないでしょうか」

「うーん、そうですか。まずは分かりました。心の準備をしておきます」


 そういって電話を切った後に、とりあえず市長に報告をしておいて、「もしかしたらマスコミからこの件に対して訊かれることがあるかもしれません」と言っておきました。

 すると夕方になって市長が私の部屋に来て、「さっきのマリモの話は明日という事だったけれど、さっき新聞記者が来て訊かれたよ」とのこと。
「ええ?日付を間違えましたかね」

「まあいいけど、コメントを求められたから、マリモの特別天然記念物指定60年の記念の年なので、喜ばしいことだと思うけど、まずは情報を収集したいですね、と答えておいたよ」

「訊かれたのはそれだけでしたか」
「はは、『これで自然遺産化の動きは進展しますか?』とも訊かれたよ。でもそれは時期が必要だよな」 

 どうやら国としても次の世界自然遺産の候補を求めているようです。

 マリモはその正体が良くわからなかった存在なのですが、何年にもわたる研究によってその実態が次第に明らかになりつつあります。

 まずは学術的な論文を集めて科学的な事実と知見を貯めることが先決のようです。

 なんだか周りの方が騒がしくなってきましたが、こういう動きを注視しつつ実のある活動にしてゆきたいものですね。
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会わないか、おごるよ

2012-02-07 23:45:00 | Weblog
 朝から東京出張。釧路空港は季節はずれの霧で出発が三十分近く遅れましたが、なんとか会議には間に合いました。

「会議が終わった後で飯でも食べないか、驕るよ」と東京で一人住まいの娘に連絡してみたところ、「おー、いいよ。どこにする?」と大乗り気。

 会議が長引いてちょっと遅くなりましたが、JR中央線の小さな駅で待ち合わせて居酒屋へと繰り出しました。

 正月以来だけれど、子供なんてちょっと会わずにいるとどんどん成長してしまうもの。人には会える時に会っておかないといけないと思うようになりました。


    ※    ※    ※    ※


 娘と笑い話に話を咲かせる一方で、自分が一人で旭川に下宿していた時のことを思い出しました。

 中学時代を旭川で過ごして旭川の高校に入った私でしたが、二年生になるときに、父親が稚内に転勤になったのでした。

 当時は単身赴任ということが一般的ではなかったのでしょう、両親と弟たちは稚内へ引っ越して、高校にそのまま通う私は二年生の時から旭川で下宿をすることになりました。

 そんな下宿の生活が続いていたある日、稚内にいるはずの父から下宿に連絡がありました。

「『お父さんが出張で旭川に来ているから会いに行くよ』と言っていた」とのこと。

 久しぶりに会った父と四方山話をするうちに、「寿司でも食べに行かないか」と誘われました。

 しかしその時、お腹が空いていなかったのか、小遣いが乏しかったのか、私は「いや、それより小遣いの方が良い」と言ってしまいました。

「そうか、はは。小遣いの方が良いか」

 そう言うと父は五千円を私の手に握らせてくれて、別れていきました。

 その後ろ姿がどこか寂しそうだったのを今でも覚えているのは、その瞬間に出はなく、後からじわじわと私の心に「しまった!」という罪悪感が生まれてきたからに違いありません。

(きっと親父は僕と飯を食べて話をしたかったんだな…)
 
 あの日のことを親父はまだ覚えているでしょうか。

 実家をたまに訪ねることがありますが、このことは心が苦しくていつも訊けずにいる問いなのです。


    ※    ※    ※    ※


「あー、美味しかった、ありがとう。じゃ、またね」

 そういって娘は中央線に乗り込んでいきました。

「またな、うん、きっとまた来るよ」


 東京の雨はいつの間にかあがっていました。
     
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立派だった鎌倉の為政者

2012-02-06 23:45:11 | Weblog
 昔学生だった頃に、「鉄砲」の歴史を調べていたことがあって、そのときから「てつはう」とある爆裂弾の絵が、「蒙古襲来絵詞」にあって、鉄砲の初見であるとされていました。

 蒙古襲来絵詞は、竹崎季長という武士が文永の役で蒙古軍に立ち向かった様子を書き記したもので、蒙古軍の抵抗にあって乗っていた馬に矢が刺さり血が噴き出しながら戦う図として印象的なものでした。

 この絵巻は、季長が一番駆けの武功にありながら恩賞が出なかったことを不服として鎌倉へ赴き、直談判で恩賞を得るという一連の物語になっていて、当時の武士の活躍記録としてよく日本史の教科書などにも載っている有名なものです。

 ところがこの一番有名な場面が、後世に改ざんされたものではないか、という説があると聞いて驚きました。

 カラーの絵をよく見ると、なるほど右から左へと蒙古軍を追いかける季長と馬に対して、薄い色の蒙古兵は逃げているのに対して、色の濃い三人の蒙古兵が季長に対して弓を射かけています。

 色の感じが明らかにこの三人だけは違っていて、もともとの絵にはなかったことが伺えます。

 しかしいつ書き加えられたかについてはいくつかの節があってまだ確実なことが分かっているとは言えないとも言われています。

 誰がいったい何のために…と考えると、なにやら歴史のミステリーのようでもありますね。


   【ウィキメディアコモンズより】


【蒙古襲来絵詞】 http://bit.ly/wLhrve
 竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵


    ※     ※     ※     ※     ※


 源頼朝が打ち立てた鎌倉幕府は、武士の武力による統治という新しい構想の政権でしたが、頼朝の厳しい身内への粛清のために、源氏の血筋は三代で絶え、北条氏による執権政治へと移り変わります。

 なかでも元寇に対抗するためだけに天がこの時代の日本に遣わしたのではないか、というくらい天下に尽くしたのは北条時宗でした。

 蒙古襲来のときにまだ二十歳だった時宗は若くしてリーダーの資質を遺憾なく発揮して、御家人たちを招集して九州の守りを固め、襲来に抵抗しました。

 文永・弘安の二度の襲来にいずれも神風が吹いたのは、鎌倉武士団が何か月にもわたって抵抗をつづけ、蒙古軍を洋上の船から降ろさせなかったためで、そういう状態で夏を迎えれば、季節になると大抵台風がこの地域を襲うという気象現象であった、とも言えるでしょう。

 時宗の晩年は、三度目の蒙古襲来に備えたり、御家人たちに対する恩賞問題に忙殺されるなど難題を抱え、わずか三十四歳で他界しています。

 まさに蒙古への備えだけが彼の一生と言っても良いでしょう。


    ※     ※     ※     ※     ※


 生前の彼に対しては神風ばかりが評価されて、朝廷から贈られた位階は正五位下という低いものでした。

 しかし明治時代に日露戦争を迎えて、明治天皇は改めて外敵を防ぐことに功をとげた時宗の苦労を慮り、明治34(1904)年に、彼の眠る円覚寺の墓まで勅使を送り、従一位を追贈され今日に至っています。


 源頼朝から北条氏にいたる為政者には立派な人物が輩出されました。

 なかでも「神皇正統記」を著した北畠親房は、(あのときに比べて今の時代は…)という南北朝への恨み節もあったのかもしれませんが、「頼朝、泰時、時頼などがいなかったらあの時代はどうなっていただろうか」とこの時代の為政者たちを高く評価しています。


 上智大学名誉教授の渡部昇一さんは、このころの北条氏が民の暮らしを重要視する優れた為政者であった背景に、頼朝の側近であった大江広元を通じて、唐の二代皇帝太宗による「貞観政要」が伝わっていたからではないか、と言います。

 為政者たるものの在り方についてこれほど良く書かれた指南書はないともいえる教科書です。

 人物そのものを鍛えるということが忘れられかけている今日ですが、歴史に学ぶという姿勢を忘れたくはないものです。
 
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台北駐日経済文化代表處の馮代表ご来釧

2012-02-05 23:45:53 | Weblog
 昨日から台北駐日経済文化代表處の馮奇台代表が釧路入りし、阿寒地区や丹頂鶴自然公園などを訪問し台湾と釧路の交流がさらに深まりました。

 今回の馮代表の釧路訪問のきっかけは、昨年末に市長が東京の代表處を訪ねて、馮代表にタンチョウ寄贈などでいろいろとお世話になったお礼を述べた時に遡ります。

 このときに馮代表からは、年明けに札幌の雪まつりを訪ねる予定があると伺いました。その際に、「それならばぜひその前後で釧路を訪れて丹頂を群れでご覧になってください」とお誘いをしたところ、「あ、そうか。予定は取れるのか?」と秘書の方に訊ねて、何とかなりそうだということになったのでした。

 もちろんお忙しい方なので、その場での約束は確実なものではありませんでしたが、年が明けて1月半ば頃に釧路へ来られそうだ、という連絡があり準備を進めることになったものです。

 最初は馮代表が来られる、とのことでしたが、そのうちに「奥さまとお嬢様が一緒に来られる」という情報が入り、最後には「台湾マスコミの東京特派員も大挙して同行してくるらしい」ということになりました。

 そしてその度におもてなしの対応を調整する必要があります。

 どこを案内するか、ということ一つとっても、案内先との調整やそれでどうか、ということの台湾側との調整も必要です。

 要人訪問の準備は、目に見えない調整ごとが実に多く、しかも失礼があっては大変なのでとても気を遣います。


    ※     ※     ※     ※     ※


 しかし、ようやく到着という日になってからも現場では予定外の緊急事態が続きました。

 予定が急きょ都合がつかなくなって参加予定者全員に連絡をしたりそのほかにも様々な予定外があったりして、そのたびに判断と連絡調整が発生。まさに現場力が試される場面の連続でした。

 
 今日の昼は市内のホテルで台湾一行を迎えて市主催の立食昼食会が開催され、馮代表からは市側のもてなしへの丁寧なお礼と、今後の台湾と釧路の友好関係の発展を期待するという挨拶をいただきました。

 関係者一同報われた思いです。


   【馮代表からのご挨拶】


    ※     ※     ※     ※     ※


 昼食会のアトラクションは釧路蝦夷太鼓保存会による太鼓の演奏。

 演目は、「サルルンカムイ」で、湿原の神つまりタンチョウツルをテーマにした40年以上前につくられた曲で、ムックリを使ったりアイヌ文様の衣装などでアイヌのイメージをふんだんに盛り込んでいます。

 私も初めて聞く珍しい曲で、悪霊とタンチョウの神の戦いの様子が表現されているとのことですが、ムックリの響きと力強い太鼓が感動を誘います。


   【蝦夷太鼓の演奏】


 今回の馮代表来釧では、多くの台湾報道陣も多かったことから、釧路市内や阿寒湖畔での様々なシーンが台湾で放映されて釧路の魅力がさらに広く伝わるように願うばかりです。

 関係者の皆様、お疲れ様でした。



   【皆で記念写真】 
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フィットネスセンター廃止問題討論会

2012-02-04 23:48:02 | Weblog
 北海道新聞釧路市社主催によるMOOの中にあるフィットネスセンター廃止問題についての討論会が「交流プラザさいわい」において開催されました。

 フィットネスセンターについては、12月議会において市側から今年度末をもって廃止するという条例案を提案しましたが、議会においてこれが否決されました。

 市側が提案した条例案が否決されたのは昭和50年以来ということで、議会が市の提案を追認するだけの機関ではないことを示した、とされる一方で、市側の廃止提案の是非、ならびに議会判断の是非なども話題になっています。

 そうしたことを受けて、北海道新聞社が主催という形でフィットネスセンターを廃止するという立場と、これを保存したいという立場の合計4名による討論会が開催されたものです。

 会場は椅子席で定員は120名くらいと見受けました。事前の整理券は170枚ほどが配布されたとのことでしたが、実際には約100名程度の参加と見受けました。正確な数字は北海道新聞社さんの方で発表されるでしょう。



   【掲載許可を道新さんからいただいています】
   【また他の三名のお顔にはボカシをいれさせていただいています】


 討論会の発言者は、廃止已む無しという立場で、私と一昨年8月に開催された事業仕分けにおいてフィットネスセンターを「廃止」と結論付けた仕分け人の一人の小池さん、また廃止しないでほしい、という立場では、「フィットネスセンターの存続を求める会」代表の大友さん、そして「釧路の町の活性化を考える会」代表代行の君ヶ袋(きみがふくろ)さんの四名。

 さらに、議会での審議経過などを報告するという立場で市議会の黒木議長も登壇されました。

 司会は北海道新聞社釧路支社の武野報道部長さんです。


    ※     ※     ※     ※     ※ 


 さて、フィットネスセンターを巡る議論の発端は一昨年八月に行われた事業仕分けとされていることから、まずは仕分け人の小池さんに発言の口火を切っていただきました。

 小池さんの主張は、「廃止かどうかの判断は難しいが、利用者が少ない施設での税金の投入については考える必要があるのではないか」というもの。

 これを受けた形で私からの発言となりました。

 実際、この議論の発端は事業仕分けとされていますが、市側としては仕分け作業で「廃止」とされたから廃止ありきで議論を進めてきたというわけではありません。

 市長から「今年度末を持って施設を廃止したい」という意向が表明されたのは昨年の6月議会の冒頭のことでした。

 この間約9ヶ月間は市側でも、仕分けでの廃止の意味を考えた時に、利用者増や料金値上げ、さらには管理費支出の抑制などによって年間7千万円とされる収支差、つまり市からの持ち出し分を少なくできないのか、という検討を進めてきたものです。

 特に、この間二つの利用者団体からは5千名に及ぶ存続希望の署名提出や、一定の値上げも考えると言ったやりとりがあり、それらも考慮した検討作業が進められたのです。

 しかしながら、値上げを考えたとしても利用者の減少などもあるだろうから収支差は大幅に改善しないことや、プールの設備関係機材の老朽化と改修に1億7千万円と試算される多額の経費がかかりそうなこと、さらに指定管理者との契約期間の三年が今年で満了するということなどの要素が重なったのが今年度ということでした。

 そのため市としては最終的に、お金をかけて改修を行い、さらに市の予算を投入して維持し続ける行政的な必要性に鑑みた時に、今年度を持って廃止することも已むを得ないという総合的判断に立たざるを得なかったものです。

 この市側の判断に対しては、利用者二団体から「膝の弱った高齢者にとっては体に一番良いのが流水プールである」、「プールを利用することで医療費などの抑制につながっている」、「存続を求めた署名の重み」などが訴えられました。

 また、当然ながら「議会が否決したことの重みを受け止めるべき」という主張もあります。


 ここで市議会の黒木議長から市議会内部での議論の数々や、廃止すべきではないという反対討論の内容、廃止已む無しという賛成討論を報告していただきました。


    ※     ※     ※     ※     ※


 私には、こうした廃止論議の背景となっている市の財政状況についても発言の機会をいただきました。

 基本的には、人口減少と少子・高齢化、経済の低迷が続いていること、などが市財政を年々歳々苦しくさせていることが根源なのですが、市税などによる収入が年々減少していることに反して施設の維持費や福祉などに充てるための義務的経費は年々増加の一途をたどっています。

 これに対処する方向としては二つあって、①人口増加や経済振興に向ける努力をする、②人口減少や景気低迷を前提としてそれでもやれる体質に改善する、ということが考えられます。

 市としては後者に立った現実的な都市経営を進めるべきという立場であり、今後も市内部の改善努力や事務事業の見直し、などを進めてゆかなくてはなりません。

 また、こうした動きを少しでも先んじて取り組むことが後代の行財政に効果をもたらすという立場で、これからも市民の皆さんに訴えかけていきたいと思います。


    ※     ※     ※     ※     ※


 フィットネスセンターがあれば、利用者の健康にも観光客へのサービスにもつながるという思いは、今日のパネラー全員で共有できる考えだと思います。

 しかし問題は、現在のそしてこれからの釧路市がこれをこのまま維持してゆけるのかどうか、維持すべきかどうか、という経営判断なのではないか、と思うわけで、今日のような機会を通じて、利用者とだけではなく、市民全体の議論となることを望みたいと思います。

 北海道新聞の紙面では、火曜日に議論全体を大きく記事にするそうですのでぜひこちらもお読みになってください。


 今日のような機会を作っていただいた北海道新聞社の皆様、また討論会に参加していただいた三名の皆様、そして会場にお越しいただいた皆様に感謝申し上げます。

 ありがとうございました。

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デレッキはどこに

2012-02-04 23:45:34 | Weblog
 


今日から始まった釧路ふゆまつり。


 国際交流センター前の広場を会場にして、雪像や氷像が作られ、屋台なども出て賑やかに開かれています。

 市内の様々な団体による各種の展示コーナーもあって、市の博物館でも冬の生活文化展示をしていました。

 昔のストーブがあって、石炭を焚いて暖房をしていた時代の懐かしい思い出がよみがえりました。


   【おお、懐かしいですね】


 ストーブ周りの小物として、石炭入れと十能が置いてありました…が、デレッキが見当たりません。


   【火ばさみと十能だけ?】


 石炭ストーブにデレッキがないとは信じられません。

「これって、デレッキはないんですか?」と担当の方に訊いてみると、「ああ、すみません、デレッキが手に入っていないんです」とのこと。

「デレッキがないとなんだか締まりませんねえ」
「だれかに寄付していただけると良いのですが」


 …とまあ、そんなわけで、もしこれをお読みの方で家にもう使わなくなったデレッキがあって寄付しても良いという方は、ぜひ釧路市立博物館までご連絡ください。

 






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平成24年2月3日付『巷論~阿寒を守ったサムライ』

2012-02-03 23:42:17 | Weblog
 本日の釧路新聞の「巷論」欄に、私の投稿が載りました。

 私の1月13日付ブログの「マリモを残したパリの侍」(http://bit.ly/xk48EY)の改題です。

 ブログには文字数に制限がありませんが、巷論は文字数が約900字という制限があるのでその範囲で書くことになります。

 盛り込みたいエピソードがたくさんあるのでリライトも苦労します。


 記事が載ってから、(ちょっと僭越だったかな…)と思い直して、財団法人前田一歩園の知人の方に電話でお知らせをしました。

「すみません、事前にお知らせすればよかったのですが、先日伺った際に聴かせていただいたエピソードが印象的だったものですから、つい『巷論』の原稿にしてしまいました」
「ははは、ありがとうございます。実はPHP新書のある本でも前田正名で一章をさいていましてね。少しずつ知られてきてほしいですね」

「こちらこそありがとうございます。阿寒湖畔では知らない人はいないとしても、釧路市内ではまだ知られていないような気がしたものですから。ご紹介の本も探してみます」


 その本とは、原口泉著「世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵」のようです。前田正名に関して分量が割かれているようです。こちらもぜひお読みくださいね。

 【上記の本→ http://amzn.to/yxeM6G




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