昨日は年度のはじめということで、普段より早く家を出て職場近くの三吉神社へお参りに行ってきました。
拝殿には参拝の先客がいたのでその方の後ろで待っていたのですが、振り返ったその方はなんと某官庁に勤める知人でした。
彼はこの日の人事異動で栄転になり地方勤務から札幌へ帰ってていたのです。
「おお、お帰りなさい。ご栄転おめでとうございます。さすが新しい一日に神社へお参りとは信心が深いですね」
そういうと彼は、「いえ、普段から我が家は代々この神社にお参りしてお世話になっているんです」とちょっとはにかんでいました。
人生の節目をこういう形で過ごす方は心根が立派なのだと改めて彼のことを見直しました。
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世間を騒がせているコロナウィルス騒ぎ。
この科学の時代に我々が自分たちを守るためにできることは、具体的に「密閉・密集・密接の三密を避ける」ことですが、何よりもその前に「手を洗う」ということが必要とされています。
北海道の神社はまだ冬囲いがとれていないところが多く、今日の神社もまだ手水舎のお水は出ませんでした。
それでも普段ならば、神社をお参りする際には手を洗い口を漱ぐという「清め」の行為が当然のこととして組み込まれています。
さらに、考えてみたら神道では祭儀の際にまず『祓詞(はらえことば)』が唱えられますが、この祓詞の最後の部分は「もろもろの禍事(まがこと)・罪・穢(けがれ)あらむをば、はらへ給ひ清め給へと白(まを)すことを聞こし召めせとかしこみかしこみも白す」となっていて、罪や穢れをどうか祓ってください、清めてください、という願いが込められています。
「祓う」も「清める」も、「邪魔・不要・無益なものなどを、手や道具を用いて取り除く。除去する」ということですし、清める際には水も使われます。
そもそもこの祓詞のシーンも、イザナギノミコトが亡くなった妻であるイザナミノミコトを追って黄泉の国へ渡り、そこから脱出した際の穢れを「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」という川の中で禊祓ったということに由来する一文なのですから。
信仰の中に「清浄」という行為を含む文化があるので、手を洗うということが日常に組み込まれているのも日本の文化と言えるでしょう。
ヨーロッパにいる日本人のコロナ騒動顛末記を読んでいると、「こちらの方には食事の前に手を洗う習慣がないので、自分が洗うと変な目で見られる」という記載があったりして、日常手を洗う習慣も国柄や民族の文化なのだなと感じ入った次第です。
神社へお参りをして改めて心が洗われる思いでした。
本当に日本人でよかったと思います。