濱口監督がインタビューでシナリオを書いているとどうしてもセリフが多くなると語っていたが、シナリオ教室的にセリフは多すぎてはいけない、説明的であってはいけないといった映像主体主義とはまた別の行き方で、言葉を持つ存在であるところの人間のありようを描いているように思う。
三話オムニバスなのだが、おハナシの起承転結の面白さが先に立つのではなく
言葉がそれ自体の「内容」だけでなく、えんえんと言葉が持続することのゆっくりした緊張感、それが突然破れる瞬間に言葉だけでなく物語レベルでもフェーズが唐突に違うものに切り替わる瞬間の驚き、といったものがある。
久しぶりに会った同級生だと思っていた二人は実はまったくの別人だった=違う名前であることがわかるところから始まる第三話のいわば大トリのラストで、本来の相手の名前がわかって字幕で出るという、初めに言葉があると共に言葉のありようが変容するのが映画的な動態になる。
セリフに感情をこめるありがちな方法でなく棒読みによるプレーンな言葉が、属人的であるよりは人の間にあるものとして立ち上るよう。