性暴力の描写そのものの扱いは極めて慎重で、録音された声だけで表現するなど見世物的な直接な描写が無いのはもちろん レイプという言葉自体ほとんど使わず、唯一使うキャラクターが 誰であるかの選択に それが慎重に扱わなくてはならないことであることをはっきり示す。
代わりにどれだけその時受けた傷が深く長く残るかが冒頭をはじめ簡潔に描かれる。
オンレコとオフレコとの 使い分けが極めて重要になっていて、証言者が名前を出すか出さないか、性暴力の被害が 声を奪われることという言葉に集約されるように 女性の意思や主張が言葉を無視されることに慣らされ、ひいては自分の存在自体が意味がないと思い込まされる悪質な構造(それには法制度も経済構造も含まれている)のが明確に描かれ、それは映画界に限ったものではない広い射程を持つ。
その名を暴けと言う 副題はかなり変なもので 被害者が名前を名乗ることができる までの苦悩と勇気のドラマであって、だから実名で告発した女性たち(有名女優だけでなくエンドタイトルで見るとherselfと出るのが複数いる)が当人役で主演すること自体に驚いたし感動もした。
証言者がウェールズなど随分遠くにいて、そこまで行って直接話を聞けとなると記者が即直行するあたり、ニューヨーク・タイムズってお金あるのねと思った。
電子化に上手くシフトしたらしい。
日本の場合、声を上げること自体に対するバッシングがひどいし、メディアに至っては権力と一体化して調査報道どころではない、映画化するにしても仮名が当たり前と彼我の違いはいちいち言うまでもないが、嘆いてないでこれから怒ること。
ふたりの女性記者たちの夫が小さな子供の世話をしているスケッチがごく当たり前の調子で入る、その自然な調子なのが逆にポイントなのだろう。いちいち夫を称揚することではない、当たり前にならないといけない。
ふたりを守る立場のデスクが黒人というのは事実に合わせたのかもしれないが、やはり重要。
この中で名前だけ出てくるグウィネス・パルトロウの元彼のブラッド・ピットの会社PLAN-Bが製作に加わっているのだが、昔ワインスタインがグウィネスにセクハラしたに対してちょっかいを出すなとピットが警告して、それで済んだかと思ったらもっと悪質化したという経緯がある。どういう心境で映画化に加わったか、悪趣味かもしれないが興味がある。
ローナン⋅ファローといった名前が注釈なしに出てくる。ウディ⋅アレンの同様の件も名前は出してないが暗示しているし、延長上にはトランプがいる。
映画「スキャンダル」で描かれたFOXのCEOのロジャー⋅エイムズを訴えた人気キャスターのグレッチェン⋅カールソンの名前も出てくる。
とにかく驚くのはことごとく人物がすべて実名で出てくること。名前を伏せることはあってもそれらしい仮名は使わない。
確かに仮名にすると著しくリアリティーと信憑性が欠ける。オフレコにすると弱くなる。名乗るのは大事。