prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「イソップの思うツボ」

2019年08月23日 | Weblog
作りすぎ、の割に厚みがない、というのが正直な感想。 
キャラクターが中から、あるいはシチュエーションなり他のキャラクターと反応して動くというより、あらかじめ用意された企みに乗って動かされているもので、どうも乗れない。

 日本映画でありがちだがもともとおよそ日本には日常的に存在していない銃を不用意に出したり(「天気の子」でもやっていた)、殺人の中継を楽しみにしている秘密クラブの仮面舞踏会がかったイメージにしても、どうも上っ調子。



8月22日のつぶやき

2019年08月23日 | Weblog


「世界の涯ての鼓動」

2019年08月22日 | Weblog
ヴェンダースとしては「夢の涯てまでも」ほどではないまでも、世界サイズに風呂敷を広げてうまく畳めない弱点をまたさらけ出した感がある。 ジェームズ・マカヴォイ、アリシア・ヴィキャンデルというかなり強力な組み合わせも後半別れてしまうと効果がおよそ薄れてしまう。




8月21日のつぶやき

2019年08月22日 | Weblog







「マイ・エンジェル」

2019年08月21日 | Weblog
マリオン・コティヤールで売っているが、娘役のエイリーヌ・アクソイ=エテックスが主役。
ネグレクトといってしまうとこぼれるものが多いが、コティヤールが美人なだけに男にだらしがなく遊んでいるうちに娘を忘れてしまうどうしようもない母親の悪さと悪気のなさを演技派的になりすぎずに演じる。

子連れの結婚式でもう別の男と戯れているのを、再婚相手の男が連れ子になるはずのエイリーヌが見ないよう隠して抱いてそっとその場を離れる、と同時に呆れはててコティヤールを見放すあたりの簡潔で厳しいタッチ。

孤独に過ごすうちにあろうことか小学三年くらいで酒、それもウィスキーのストレートに手を出すあたり、ぞっとさせられる。この歳では麻薬に手を出すのと変わりはないだろう。

中盤から「シベールの日曜日」ばりの心に傷を負った大人の男と親に見捨てられた幼い女の子とのかなり危うさを孕んだ交流が入ってくる。
「万引き家族」同様、登場人物が打ち上げ花火を見ていて、しかも花火が画面には現れないシーンがある。手が届かない曖昧な幸せからの隔絶感の表現として想像したイメージが偶然に一致したのだろうが、おそらく一般的な意味の家庭の崩壊と子供へのしわ寄せというのは世界的な現象なのだろう。

「アーティスト」でアカデミー賞撮影賞にノミネートされたギョーム・シフマンのカメラが冒頭の夕陽をバックにした船の映像からすでに素晴らしく、原色に近い華やかで透明な色彩をややファンタジー寄りに使いこなす一方で、結婚式などで点景の人物にドキュメンタリー調のリアリティを捉えている。

さりげなく張られたさまざまな伏線が一気に回収されるクライマックスの設計の鮮やかさ。 



8月20日のつぶやき

2019年08月21日 | Weblog

「ダンスウィズミー」

2019年08月20日 | Weblog
携帯の着信音といい各種のアラームといい、至るところにメロディが流れている現代の状態を踏まえて音楽を聴くとところかまわず踊り出すという着想に加えて、ミュージカル・ナンバーそのものはいかにもミュージカル調にきれいに振り付けられているけれども、それは実はヒロインの脳内イメージに過ぎず実際は酔っ払いのドタバタだったりして、最初の方のミュージカルのなんでふつうに喋っていたのがいきなり歌ったり踊ったりするの?という「不自然さ」に対応したツッコミになっている。

ミュージカルというのは登場人物の感情が高まって歌になり、歌が高まって踊りになるというのが通常なのだが、ここでは音楽を聴くと思わず歌いだしたくなる、踊りだしたくなるという具合にきっかけが内在的ではなく外から与えられたものになっているのが一種の奇手ながら、ツッコミを可能にはした。

宝田明のアヤシゲな催眠術師が可笑しい。冒頭の若い姿はデジタルメイクだろうか。かつて舞台で演じた「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授ばりのオクターブがあまり出ないのを逆手にとった唱法を聞かせる。

三吉彩花は背が高く手足が長いので踊ると映える。
ふだんブスっとしているのが踊りだすといきなり笑顔になって華やかな雰囲気を振りまく。目が大きいのでびっくりした顔がかなり可笑しい。

使われている曲が日本のおおむね既成曲でドメスティックなテイストが出ている。なまじ新曲を使うよりこなれた感じ。


8月19日のつぶやき

2019年08月20日 | Weblog
 

「海獣の子供」

2019年08月19日 | Weblog
原作のおそろしく緻密な画がアニメで再生されているのに一驚。

それに加えてCGの使い方も画面の密度を高めるのに貢献していて、人間以外との知的生命体との遭遇を描く終盤の抽象度の高い映像と久石譲の音楽のつるべ打ちは「2001年宇宙の旅」を思わせすらする。

人ならぬ存在が一時的に人の姿をするあたり、日本的な妖怪、たとえば河童の感覚が入っている気がする。


8月18日のつぶやき

2019年08月19日 | Weblog







「ワイルドスピード スーパーコンボ」

2019年08月18日 | Weblog
マッチョハゲの出没率がバカ高いこのシリーズ、主役ふたりともシリーズの途中から参加していて、初め悪役がかっていても今回は完全にヒーローになりきっている。


というか、このシリーズ、何が軸になっているのかよくわからないので、キャラクターもストーリーも、ついにはジャンルさえしれっと変わってしまうのが不思議。
この映画の中でも後半いきなりとってつけたようにポリネシアの戦士たちを称揚する話になってしまうのだが、あまり気にならない。

完全に役の軽重を等分にしているのは冒頭など完全にギャグにしている。
えんえんとWWE出身のレスラーの"ロック様"らしい軽口まじりの会話が続くのだが、これがどうも演出が無神経でダレる。(飛行機の中で他の乗客をまるっきり無視している不自然さ)

バネッサ・カービィが「ミッションインポッシブル フォールアウト」同様男たちに挟まれてタフなとこを見せます。

悪役がまったく姿を見せずに声だけで指令を出すあたり、ほとんど総裁Xみたい。

「マーウェン」

2019年08月17日 | 映画
ロバート・ゼメキスは初期の「抱きしめたい」でブラウン管の本物のビートルズとスタジオにいるドラマの架空のキャラクターを演じる俳優たちを共演させ、「フォレスト・ガンプ」でハンクスと本物のJFKとをひとつの画面で共演させるといった具合にまず驚かされる発想の映像をデジタル技術を駆使して作り出しヒットに結びつけてきた一方で、そういう新しい発想と技術による画作りが好きすぎて先走って観客一般を置いてけぼりにすることもたびたびだった。

「ポーラーエクスプレス」でおなじみのスター(トム・ハンクス)をCGで変にリアルになぞったコピーキャラクターを使って、もろに「不気味の谷」に落ち込んで興業的に大失敗したのだが、再び人間そっくりのCGキャラクターを駆使しながらその不気味さを主人公のトラウマに結び付けかつ主人公の知人たちそっくりの人形として駆使してワンクッションおいたドラマとして構成したのが成功。

人間かと思うとよく見ると人形の質感であることをわからせる冒頭から、ワンカットの中で等身大と人形のサイズの違いをやすやすと飛び越えて違う次元を行き来する騙し絵のような画作りに驚いた。 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のセルフパロディまで出てくる。

「マーウェン」 - 公式ホームページ

「マーウェン」 - 映画.com

8月16日のつぶやき

2019年08月17日 | Weblog

8月15日のつぶやき

2019年08月16日 | Weblog

「トイ・ストーリー4」

2019年08月15日 | 映画
おもちゃは遊び相手である子供がいなかったら存在価値はないのか、それともあるのか、といったテーマは「2」に出てきていったん解決したことではないのかな。

どこかひっかかるのは、極端にいうとキャラクター・グッズとしてのおもちゃしかおもちゃとしての価値を持たないみたいな設定になってしまっていること。
子供にとっては、それこそゴミ箱のスプーン一つだって、ただの棒きれだって想像力ひとつで武器にも魔法の小道具にでもなるのではないか。