文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

K君の思い出(思い出シリーズ33)

2015-11-06 18:03:08 | 思い出シリーズ
 住んでいた学生アパートは、私の大学学部時代には、「雀荘」とも呼ばれる位に麻雀好きな人間が多く、賑やかというよりは、うるさいところであった。この環境に耐えられない者は、早々に引っ越して行ったものである。私も、何度も引っ越そうかと思ったのだが、いつの間にか、環境にすっかり順応し、結局大学院時代も含めて6年も居ついてしまった。

 そんなアパートも、私が大学院に進んだ頃には、代替わりが起った。文系の連中が多く、彼らは大学院には進まないので、就職などで出て行って、代わりに、第2世代とも言える若い連中が多く入ってきたのだ。おかげで、アパートも大分落ち着いた雰囲気に変わった。このアパートでは、私と、依然話した出戻りのS君が最年長だったが、若い連中とも結構仲良く付き合っていた。

 若い連中の中にK君がいた。温厚な性格であり、いつもにこにこしており、関西弁に近いような徳島弁での、穏やかな話し振りが印象的だった。あまりうまくなかったが、その頃の学生の常で、ギターを良く引いていた。

 私が就職して数年後に、彼も大学を卒業し、京都にある大手デパートに就職した。数年後、妻と京都へ旅行をした際に、一度会いに行ったのだが、元気そうに働いていた。彼も既に結婚していた。

 その後、何年か年賀状のやり取りをしていたが、ある年、年賀状が来なかった。そして、しばらくして、奥さんから、彼が亡くなったという葉書が来た。今となっては、もうかなりの年月が経ってしまい、その記憶もおぼろげになっているが、確かまだ30代前半の若さでのことだったと思う。

 いまでも時折、彼の人の良さそうな顔を思い出すことがある。せめて、彼の記憶をここに留めて、彼が生きていた証にしよう。

※本記事は、2006.03.12付で「時空の流離人」に掲載したものに、加除修正を加えたものです。

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大学近くのとんかつ屋(思い出シリーズ32)

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大学近くのとんかつ屋(思い出シリーズ32)

2015-11-05 13:56:55 | 思い出シリーズ
 私の通っていた大学は、大学の本部のあるエリアと理学部・農学部などがあるエリアは、百万遍から銀閣寺方面に続く、今出川通で区切られている。私が通っていた当時、その今出川通の理学部側に、1件のとんかつ屋があった。

 そこには、同じ研究室の友人に誘われて行ったのだが、普段は生協の安い飯で済ませるか、適当に自炊している身。そのうまさには感激した。何しろ、当時の学生というのは、貧乏なのがデフォルトであった。そのうえ、金があれば、読むかどうかも分からないような専門書を買っていたので、よけいに貧乏になる。当事流行っていた歌の歌詞ではないが、まさに月に1度の贅沢という訳だ。あの時代は、大学の授業料が、今と比べると、信じられないくらい安かったから、家が金持ちでなくても、大学に行くことができた。

 ところが、今でも高い国公立の大学の授業料を、大幅に値上げすることが目論まれているという。とんでもないことだ。親が裕福かどうかに関わらず、当人の能力次第で高等教育が受けられる。これが国公立大学の本来の姿ではないのか。今日本には、大学が多すぎる。私学助成を大幅に削ってでも、金が無くても国公立大学には行けるということをきちんと保障するのが国や自治体の責務ではないのか。

 あの時代に比べれば、今の学生は贅沢になっている。私の住んでいた学生アパートは、風呂無し、キッチン・トイレは共同。おまけに、ムカデ付き。あの京都の暑い夏を、エアコンではなく、小さな扇風機一つで乗り切っていた。そして、それは、殆どの学生が同じような暮らしだったのだ。今、こんな暮らしをしている学生が、どのくらいの割合でいるだろうか。

 ところで、このとんかつ屋、卒業後かなり経って、この辺りを歩いてみたが、既に店はなかった。私が通っていたころは、結構流行っていると思ったのだが。やはり、大学にとんかつ屋というのは、あまりマッチしないものだろうか。

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ムカデが、あそこに!!!(思い出シリーズ31)
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ムカデが、あそこに!!!(思い出シリーズ31)

2015-11-05 10:52:08 | 思い出シリーズ
 私が大学、大学院時代と住んでいた学生アパートは、山に近いところに建っていた。、そのアパートより上の方には、お寺はあっても、民家はないような環境だったのだ。京都は、100万都市とはいえ、ちょっと周辺に行けば、市内にもそうゆうところが残っている。(といっても、当時使っていた原付バイクで、大学まで、わずか20分程度のところだったと思う)

 ある夏の夜、寝ていると胸のあたりがもぞもぞするので、目が覚めた。思い当たることがあるので、そっとシャツの首の穴のところから中を覗いてみると・・・

 ギャー!!!

 なんと15cmはあろうかという緋色のムカデが、私の胸の上でとぐろを巻いて、きもちよさそうにおねんねしているではないか。

 こんなのに刺されたら、えらいことになる。刺激してはまずいので、リンボーダンス状態で、そろそろと窓のところまで行き、えいっと一気に外にはね落とす。

 I've done it!      やったぜ!

 もし刺されていたら、胸が、少なくともCカップ位にはなっていたところだ。ムカデの毒は死ぬほどではないが、かなりきついのである。

 この後、しばらくの間、夜何かが胸の上を這っているような感じがして、何度目覚めたことか。

 その他、もっと小さいムカデが髪の毛の中に入ってきたりと、このアパートでは、本当に、ムカデに悩まされた。就職して、かなり経ってから、この辺りを散策したことがある。当時の建物は、もうなく、たぶん学生用だと思うのだが、もっと立派なマンションに変貌していた。まだ、ムカデは出るのだろうか。

※本記事は、2006.02.15付で「時空の流離人」に掲載したものに、加除修正を加えたものです。


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これもエコ活動?(思い出シリーズ30)



 
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これもエコ活動?(思い出シリーズ30)

2015-11-04 09:34:35 | 思い出シリーズ
 私が、大学に入った頃は、既に学生運動のピークは過ぎていたが、まだまだ残り火がくすぶっていた時代であった。何しろ、私たちは、東大安田講堂での学生と警察の攻防を、モノクロテレビを通じて、リアルタイムで視ていた世代である。

 京都大学に合格し、入学手続きにのために大学を訪れた際に、目についたのは、学生運動のお兄ちゃんたちである。あちらこちらで、徒党を組んでわっしょいわっしょいやっていた。私は、あまり関心がなかったので、どうなっているか詳しいことは分からないのだが、どうもセクト毎にヘルメットの色が違うようだ。たしか、赤、白、緑、黒、銀色などがあったように記憶している。

 純朴な田舎者だった私は、内心これはなんともえらい所に来てしまったものだと恐怖したものだった。

 大学にいると、お兄ちゃんたちのアジ演説は、しょっちゅう聞こえてくるし、教室に入れば、机の上はアジビラでいっぱい。いったい、この先、どうなるのか・・・。
                  ・
                   ・
                   ・
(数週間後)
 こんな環境にもすっかり順応し、教室で、机の上に放置されているアジビラから、裏の白いのものを選んで集めている私の姿があった。だって、無料の計算用紙がそこらじゅうにころがっているんだもの。利用しない手はないじゃない。当事の学生はほとんど貧乏だった。計算用紙などに、真っ白い紙など使う訳にはいかない。今考えてみれば、これも立派なエコ活動ですな。(^◇^;)

※本記事は、2006.02.12 付の「時空の流離人」に掲載したものに加除修正を行ったものです。

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おいてけぼり(思い出シリーズ29)

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おいてけぼり(思い出シリーズ29)

2015-11-03 09:17:01 | 思い出シリーズ
 またまた、幼馴染のお坊さんの学生時代の話。寺の跡取り息子だった彼は、立派な住職になるために、仏教系の大学にかよっていた。

 彼と会ったときに出てくる話題は、とにかく、女の子のことだけ。顔をあわせる度に、自分がいかにモテモテかといった話を聞かされるのである。

 秋は学園祭の季節。ある時彼が、自分たちの大学の学園祭を案内するから遊びにこいと言う。なんだかいやな予感がしたが、同じ学生アパート仲間である、早寝早起きが得意なS君といっしょに、彼の大学に行ってみた。

 彼と落ち合ったのも束の間、彼は、ちょっと用事があるからといって、どこかに行ってしまい、そのままいつまでも戻ってこなかったのである。後日彼から、聞いた話によると、どうもお目当ての女の子の後を追いかけていたようだ。オイ!( ̄~ ̄)

 もう一度確認しよう。彼は立派な住職になるために、この大学に通っているのである。

 帰り道、私とS君との話題は、もっぱら彼の悪口だったのは言うまでもない。

(これも100%真実です)

※本記事は、2006.02.24付で「時空の流離人」に掲載したものに、加除修正を加えたものです。

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物理学は女にもてる?(思い出シリーズ28)



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物理学は女にもてる?(思い出シリーズ28)

2015-11-02 09:24:29 | 思い出シリーズ
 これは、幼馴染で、お寺の坊さんをしている友人の話である。寺の跡取り息子だった彼は、立派な坊さんになるために、京都にある、所属する宗派関係の大学に通っていたのであった。

 いくら立派な坊さんになるための勉強といっても、もちろん、大学でお経ばかりあげているということはない。当時は、どこの大学でも、1、2年は教養課程になっているのが普通であり、専門とは直接関係の無い一般教養科目を履修する必要があった。だから、仏教のことを専攻する人も、自然科学関係の科目を何単位かは取らなければならなかったのである。

 なぜか彼が選んだのが、物理学であった。例外はあると言うものの、普通なら文系の人は最も敬遠する科目である。もちろん文系の人にも、理系の科目も得意という人もいることは否定しない。しかし、彼の場合、幼稚園から知っているのだが、決して理数系が得意だということはなかった。むしろ苦手なはずである。この物理学という科目、分かるか分からないかが極端に分かれるので、単位取得ということから見ると、非常にリスクが大きいだろうと思うのだが。

 疑問に思った私は、どうして、物理なんて選択したのかと彼に聞いた。その答えはなんと「女の子にもてそうだから!」。あまりにも意外な理由に、私は絶句した。そして、私は、彼が女の子にもてる手伝いのため、ボランティアで、彼の家庭教師をさせられたという訳である。

 でも、その後、彼が女の子にもてている所を、一度も目撃したことはなかった・・・・・。

 (これは100%事実です)

※本記事は、2006.03.25 付で「時空の流離人」に掲載したものに、加除修正を加えたものです。


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くじ運がいい2(思い出シリーズ27)

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くじ運がいい2(思い出シリーズ27)

2015-11-02 07:59:55 | 思い出シリーズ

 私の出た大学は、4回生になると卒業研究のために、各研究室に配属されていた。今はどうしているのか分からないが、当時は、まず各自が希望の研究室にエントリーし、定員を超えていた場合は、学生が集まって、くじ引きで決めていた。記憶は薄れているが、教務の人間がいた記憶はないので、学生たちだけでやっていたのだろう。当時の母校は、そのくらい自由と自治が重視されていたのである。

 ところで、私が希望していた研究室は、定員より希望者が一人多かった。

なんだか、いやな予感!!! ( ̄~ ̄△)

 しかし、いざくじを引こうとすると、欠席者が一人いることが分かった。欠席者を除けば、ちょうど定員ぴったりだ。

 あーよかった!

 欠席すると言うことは、合理的な理由がない限り、権利放棄と見なされるのが当たり前ではないか。もしそいつが卒業研究をしたければ、定員割れの研究室から再度選択すればよいと。・・・・・というのが、常識的な考え方ではないかと思う。

 でも、どこにでもいるもんですな。

 独善的で、おせっかいなヤツが!!!!!!

 最近でも、私が趣味で参加していた書評サイトにも、そんなのが何人かいて辟易したのだが、こんなのがしゃしゃり出てくると、大体ろくなことにはならない。この時そのおせっかいな奴がやったことは、


 休んだとはいえ、抽選に参加できないのは可哀そうだから、代わりに、おれがそいつの分も引くよと・・・

 結果は

 !!(ノ゜д゜)ノ オオオォォォォー
 

 外れくじになってしまったのは私だった・・・  _| ̄|○

 なぜ、きちんと抽選に出席した私が外されるのか未だに理解できない。欠席者の代わりにくじを引いた奴は、多分自分では、いいことをしているつもりだったのだろう。そのおかげで、ちゃんと抽選会に出席している人間が、誰か外されるということは、念頭にはなかったんだろうな。

 実は、未だに憤っているのには訳がある。結局その欠席者は、その後一度も学校に出てこなかった。もちろん、くじで当たった研究室に顔を出すわけもない。、風の噂では、自らの意思で別の世界に旅立っていったらしい。もちらん、その人は、このくじ引きの件については預かり知らぬところであり、何の責任もない。しかし、その時の、おせっかいにもしゃしゃり出てきた奴には、未だに腹立たしい思いを抱いている。だから、私は、独善的でおせっかいな人間というのが嫌いなのだ。

 実は、自分の意思で別の世界に行った人が絡んで、私の人生の方向が変わったことは、就職したときにもあったのだが、その話は、機会があればまた。なお、どちらの人も、私にはまったく面識のない人である。まさに、人生は、複雑に絡まった因果の糸。不思議と言えば、不思議である。

※本記事は、2006.02.26付の「時空の流離人」に掲載したものに加除修正を加えたものです。

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大学院受験(思い出シリーズ26)



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大学院受験(思い出シリーズ26)

2015-10-31 15:21:55 | 思い出シリーズ
 私は大学が工学部だったので、当然のように大学院に進んだ。現在もそうだと思うが、当事も、工学系は修士まで出ていた方が就職に有利だという認識があった。現在はどうか知らないが、あのころ博士課程まで行くのは、親がよほど金持ちか、飯より勉強が好きな人がほとんどだったと思う。私は、そのどちらでもなかったので博士課程までは歩まなかったし、その気もなかった。しかし、通っていた大学では、殆どの学生が修士までは進んだので、私が大学院を受験するのも、ある意味当然の流れだった。

 受験は何があるか分からない。リスク分散のため、自分の通っていた京都大学の電気系だけではなく、たまたま、ポスターでを見かけた九州大学のエネルギー変換工学専攻も受験することにした。

 当事は、父が旧国鉄に勤務していた関係で、九州大学大学院の受験の際には、国鉄の保養所のようなところに泊まった記憶がある。当時は、当然のように、知らない人と相部屋。同じ部屋に泊まったのは、確か熊本大学の学生だったと思うが、やはり九州大学の大学院を受験に来ていた。同じ部屋に泊まっていれば、知らない人でも多少の会話がある。こちらは、過去問も分からず、予備知識もない状態で受験に来たのだが、彼は、過去問のようなものを持っていた。そして、偏微分方程式のような難しい問題が出ると言っていた。しかし、私の認識では、学部レベルで、それも試験中に解けるようなものは、大抵変数分離法で解けると思っていたので、あまり会話は噛み合わなかった。

 京都大学では、ドイツ語の試験は確か辞書持ち込み可だったいう覚えがあるが、九州大学では、持ち込み不可だった。また京都大学ではなかった面接もあり、「両方受かったら、どちらに行くか?」という意地悪な質問をされた。嘘をついてもいけないので、「今のところに行きます」と正直に答えたのだが、無事に合格通知が来た。

 京都大学の方も、無事に合格することができた。当時は、聞きに行けば、点数や順位を教えてくれたので、聞いたところ、点数の方は忘れたが、順位は7番ということで、我ながら驚いた。

 しかし、大学院の入試が終わると、なんだか気が抜けたようになって、しばらく勉強に手が付かなかったのにはまいった。


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危機一髪(思いでシリーズ25)
昔の大学院合格通知
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危機一髪(思いでシリーズ25)

2012-07-17 06:00:00 | 思い出シリーズ


 私が大学時代、原付バイクで通学していたのは、以前書いた通りである。たしか大学4回生のころのことである。当時は、卒業研究などで、帰りが遅くなることも多かった。その日も、アパートに変えるため、のんびりとバイクを運転していたのだが、ふと、遠くの方で、たくさんの車の音が聞こえるのに気が付いた。

 そして次第に、近づいてくる!

 近づいてくる!

 近づいてくる!

 そして私は見た!


 反対側車線を、たくさんの暴走族連中がけたたましい騒音をあげながら通り過ぎていったのを。車にバイク合わせて100人以上はいたのではないかと思う。

 いわゆる箱乗りというものも、この時初めて目撃したのだ。

 反対側車線だったから良かったが、もし同じ車線だったら、どんな被害にあっていたか分からないだろう。

幸いにも、その後、このような体験はなかったのであるが。


※ 本記事は2006年03月28日付で「時空の流離人」に掲載したものに加筆修正を加えたものです。


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冤罪はかく作られる?(思い出シリーズ24)


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冤罪はかくつくられる?(思いでシリーズ24)

2012-06-21 06:00:00 | 思い出シリーズ


 今は昔、もう○十年も前のことである。当時の私は、原付バイクで通学していた。ある夜、バイクに乗って大学の研究室からアパートへの帰り道の出来ごとだった。

 当然安全運転で、制限速度(もちろん時速30km)は守って走っていたのだが、後ろから無灯火で来ていた車が、急にライトをつけて私の前に回りこんで、私の原付の前を塞ぐのである。見るとなんと、それは某府警のパトカーであった。

 おまわりさんが2人降りてきて、

 「そこの踏み切りのところで一旦停止したか?」

などと、一般市民に向かって、ものすごく高圧的に質問してくる。

 一旦停止も何も、違う道を通ってきたので、彼らの言う「踏み切り」なんか渡ってはいない。他に、走っているバイクもなかったので、見間違える訳もなく、完全な言いがかりである。おそらく、夜中に、一人バイクで走っていたので、「何か出てくればラッキー!」位の感覚で、いわゆる職務質問をしてきたのだと思う。

 「無灯火で近づいてくるなんて、お前らの方が、法律違反やんけ!」

態度が大きいのと、訳の分からない言いがかりにムッときた私は、

 「その前に警察手帳を見せろ!」

と言ってやった。当時読んだ本に、警察官は、職務執行の際に、求められれば、警察手帳を提示しなけらばならないと書いてあったのだ。

 若いのと年配のとのコンビであったが、若い方が特に態度が悪い。

 「この格好を見ても分からんのか?」

などとすごんでくる。そりゃ、制服だって、パトカーだって盗む悪い奴はいるから、格好だけでは信用できんわな。それに、こちらは、言いがかりをつけられているわけだから、警察官だという一般的なことより、何と言う名前の人物なのかということを、何かあったときののために知りたい訳である。

 別に、こちらに何もやましいところはない。

 「新聞社に投書でもしてやろうかい!」

なんて考えながら、しばらくの間しょーもないやり取りを続けた後、年配の方の合図で、若いのが警察手帳を横柄に突き出して、

 「これでいいか!」

と捨て台詞を残して去って行ったのである。

 今は昔、もう○十年も前の、私が大分元気が良かったころの物語である。私の友人にも、警察官になったやつが何人かおり、親戚にも警察官だった者もいる。こんなことをやっていれば、市民からの信頼は得られないだろう。今はこんなことはないと信じたいが・・・


[参考]
○そのときのおまわりさんは、警察手帳の提示義務はないと言い張っていたが、ちゃんと以下のように定められている。一般市民に、何かを尋ねるときは、たとえ規則がなくても、最低限自分の身分を示すのが社会人として最低のマナーだと思うのだが。

警察手帳規則
(昭和二十九年七月一日国家公安委員会規則第四号)

(証票及び記章の呈示)
第五条  職務の執行に当たり、警察官、皇宮護衛官又は交通巡視員であることを示す必要があるときは、証票及び記章を呈示しなければならない。


※ 本記事は2006年04月16日付で「時空の流離人」に掲載したものに加筆修正を加えたものです。


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機動隊に潰された人(思い出シリーズ23)


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