文理両道

専門は電気工学。経営学、経済学、内部監査等にも詳しい。
90以上の資格試験に合格。
執筆依頼、献本等歓迎。

ブルジョアのお姉さま (思いでシリーズ13)

2012-03-03 07:40:28 | 思い出シリーズ


 私が大学時代住んでいた学生アパートに、某菓子メーカーの経営者一族の息子が住んでいた。私くらいの年代なら誰でも知っている会社だと思うが、最近はどうなんだろう。

 その経営者一族の息子である。もちろんお金持ちである。どうして、彼が、私の住んでいる、家賃1万円(当時)、風呂なし、トイレ、台所共用、4畳半一間の安アパートのようなところに住んでいたのかはいまだに謎である。ちなみに、エアコンなんてものはもちろんついていない。電話も、コインを入れて使う共用のピンク電話であった。(当時はこれが標準だった。最近の学生はかなり恵まれているようだが。)

 学生アパートの仲間といっしょに、彼の家に遊びに行った事がある。ものすごく立派な家であった。やはりお金持ちだ。彼の親父さんと2人のお姉さまを紹介された。このお姉さま方がかなりの美人だったのである。さすがはお金持ちの息子。お姉さまも庶民とは違う。

 彼が面白いものがあると言う。なんだろうと思って彼が差し出したものを見ると、なっなっなんと・・・

 洋物無修正のアノ雑誌だった! 

 いまならそうショッキングなものではないと思うが、古き良き時代のこと、その衝撃はすごい。


 彼の言うには、お姉さま方が、海外旅行に行った際に買ってきたとのこと。

 えー!

 まさか、あの美しいお姉さま方が???やはりお金持ちである。(関係ないか)
         ・
         ・
         ・
 もうウン十年も前のことである。あのお姉さま方、今はどうしているだろうか。



 本記事は、2006年02月18日 で「時空の流離人」に掲載したものに加筆修正したものです。


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生年月日の同じ人 (思いでシリーズ12)



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生年月日の同じ人 (思いでシリーズ12)

2012-02-21 06:00:00 | 思い出シリーズ


 私は、自分と生年月日が同じ人を3人知っている。一人目は、高校時代の同級生であったI君である。彼も京都にある大学に進学したため、下宿に泊まりに行った事もあるが、いつの間にか連絡が取れなくなってしまった。高校の同窓会名簿でも、住所不明の扱いになっていたようであり、今どこで何をしているのだろうか。

 2人目は、同じ学生アパートに住んでいたY1君。彼は、偶然にもI君と同じ大学であったが、こちらも、大学を卒業して後、今はどこにいるか分からなくなってしまった。

 そして3人目が、同じ大学だったY2君。学部時代には同じ研究室であったが、大学院では違う研究室に行ってしまった。今は、日本を代表する関西の家電メーカーで活躍している。

 いったい、自分と同じ生年月日の人間がどのくらい日本にいるのだろう。ちょっと計算してみた。

 日本の人口は12,778万人(H18.4.1概算値)ということだから、人生80年として計算すると

   12778万人/(80年×365日)=0.44 

であるから大体日本全国で4千人程度は居る見当になる。4千人と言うと多いようだが、過疎の進んだ町村の人口と同じ位である。これが日本全体に散らばっているのである。

 これは、全人口の割合ではいえば、0.003%、約3万人に一人位の割合となる。3人見つけるとなると10万人もの誕生日を知らなければならないが、人の生年月日を知ると言う機会もそう多くは無いだろうと思われるので、3人も知っているというのは、極めて珍しいのではないだろうか。

 私を含めて同じ生年月日のものが4人、皆それぞれまったく違う人生を歩んでいる。だから、私は、生年月日に基づいた占いは信じない。(もっとも、他の占いも信じている訳ではないが。)



 本記事は、2006年05月17日付 で「時空の流離人」に掲載したものに加筆修正したものです。


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京都の市電(思い出シリーズ11)



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京都の市電(思い出シリーズ11)

2012-02-09 06:00:00 | 思い出シリーズ


 私が、大学生に入った頃、まだ京都の街には市電が走っていた。いわゆるチンチン電車と言うヤツだ。今でも、日本の多くの都市でまだ走っているが、京都の市電は、そのレトロな感じが、古都の雰囲気に良くマッチしており、京都の風景の一部となっていた。

 残念ながら、モータリゼーションの波に飲まれて、廃線になってしまった。今はまた、環境問題などで、市電がまた見直されているというのに残念なことである。廃線の決断がもっと遅れていたら、もしかしたら今でも残っていただろうに思うと、残念なことだ。

 廃線になったのは、私の記憶では、昭和50年ごろだと思っていたが、今回改めて調べてみると、どうも昭和53年だったらしい。人間の記憶というものはあてにならないものだ。

 ところで、このとき、引退した市電の一部は、広島市を走る広島電鉄の路線で、今でも現役として活躍している。





 本記事は、2006年04月19日付 で「時空の流離人」に掲載したものに加筆訂正を加えたものです。


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受験場にて(思いでシリーズ10)



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受験場にて(思いでシリーズ10)

2012-01-23 06:00:00 | 思い出シリーズ


 私の大学受験のときの話である。受験当日、試験が始まる前に、念のためにトイレに行っておこうと、トイレを探していた。今はどうか知らないが、当時は受験生に対するサービス精神というものは微塵もなかったようで、どこにトイレがあるかも、どこにも掲示がされていなかった。

 ようやくトイレのあるらしき場所を発見して、そこへ行こうとすると、態度のいかにもえらそうなおっさんが、「ここから入ってはいかん!」とこれまたえらそうに言う。態度から推察するに、どうも試験管の一人のようだ。「トイレを探している。」と言っても、だめだの一点張りである。「どこにトイレがあるのか?」と聞いても「そんなこと知らん!」とけんもほろろで、やたらと態度がでかい。

 こんな人間失格のやつのいる大学だったのかと少々がっかりしたのと、カッカしていたことが、かえって硬さがとれて、受検では良い結果につながったのかも知れない。

 後で聞いた話では、当日は、私の受けた学科の教員は、学生運動の影響で、大学に出て来れなかったため、他の学科の教員が試験を仕切っていたらしい。(実際、私が大学・大学院時代にお世話になった先生は、このおっさんとは正反対の、親切で尊敬できる方でした。)その後、あのえらそうなおっさんには出会うことはなかったが、いったいどこのどいつだったんだろう。


 本記事は、2006年05月13日 で「時空の流離人」に掲載したものに加筆訂正を加えたものです。


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受験宿にて(思いでシリーズ9)


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受験宿にて(思いでシリーズ9)

2012-01-19 06:00:00 | 思い出シリーズ


 大学受験のときの話である。受検場の下見などもあるので、少し早めに京都入りして、宿に逗留していた。

 記憶はだいぶ薄れているが、父が国鉄に勤めていたので、京都駅に近い、国鉄関係の保養所のようなとこに泊っていたと思う。隣の部屋とは襖で仕切られているだけで、見知らぬ他の受験生たち4~5人と相部屋だった。今は、みんな贅沢になっており、ホテルに一人泊る受験生も多いだろうが、当時は、それが普通だったのである。

 その中に、一人、医学部受験生で、なぜか態度のやたらとでかいのが居た。医学部を受検するのを鼻にかけているというような言動が目立ち、自分が、この中で一番偉いという感じなのである。こんなヤツが医者になっても、絶対に診てもらわないと思ったが、幸いにも、その後、キャンパスで出会ったことは一度もなかった。合格したかどうかも知らない。

 一日目の試験が終わったとき、隣の部屋から、試験について話しているのが聞こえてきた。部屋は、襖で仕切られているだけであり、隣の連中の声も大きかったので、聞くつもりはなくともよく聞こえたのだ。確か英語の試験の答えについて、得意そうに自分の書いた答えについて話していたと記憶しているだが、これがまったくのでたらめな答であり、こちらの部屋では何人かが失笑していた。

 何しろ、田舎の高校から出てきたので、同じ大学を受ける仲間もおらず、受験生のレベルもよく分からなかった状況だったが、隣の部屋に泊まっていた諸君のおかげで、いっぺんに気分が軽くなった(笑)。


 本記事は、2006年05月01日 で「時空の流離人」に掲載したものに加筆訂正を加えたものです。


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卒様式?それって食べれるの?(思いでシリーズ8)


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卒業式?それって食べれるの?(思いでシリーズ8)

2012-01-15 06:00:00 | 思い出シリーズ


 もうすぐ卒業式のシーズンである。新聞やテレビなどにも、卒業式関係のニュースが多くなるだろう。当然、私が出た高校にも卒業式はあった。しかし、私は、自分の高校の卒業式を見たことがない。

 私は、基本的に○○式というものが好きではない。特に、普段見たことも無い来賓が、巻紙を広げて、意味の無い祝辞を延々と読むのにはとても耐えられない。今はどうかは知らないが、私たちの時代は、本当に、巻紙に長々と書かれた、あまり感動的でもないような挨拶を読むのが通例となっていた。これは、苦痛である。おまけに、時期的にもまだ寒い。式の行われる体育館にはもちろん、暖房なんてものはない。

というわけで、結局、

1年のとき:欠席

2年のとき:欠席

3年のとき:欠席

とあいなってしまったのである。もっとも、3年のときは、大学受験のためということもあったのだが。無理をして出ようと思えば出ることもできたが、なるべく早く現地に入って慣れておくことを優先して、少し早く京都の街へ行ったのである。ということで、どうも、高校の卒業式と言うやつには実感が湧かない。中学や小学でもあったはずだが、そちらの方はあまりにも昔すぎて、まったく記憶にないし。


 本記事は、2006年03月02日付で「時空の流離人」に掲載したものに加筆訂正を加えたものです。


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あんなに威張っていたのにどこへいっちゃったの(思いでシリーズ7)


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あんなに威張っていたのにどこへいっちゃったの(思いでシリーズ7)

2012-01-11 06:00:00 | 思い出シリーズ


 これも高校時代の記憶。

 私の通っていた高校は、一応「市」となっているが、現在の人口がわずか2万人弱の小さな田舎町にあった。何しろ、高校1年の頃、まだSLが走っていたのを記憶している。観光用ではなく、普通に走っていたのである。

 高校もこじんまりしていて、当時は1学年がわずか3クラス120人しかいなかった。(現在は、統廃合で高校自体が無くなってしまった(涙))

 田舎の高校の割には結構進級に対しては厳しく、追試なども一切やらなかったので、同じ学年から5~6名は進級できなかった者がいた。(教えているレベルが高いと言うわけではない。進級要件の運用が厳密で、お情けもなく機械的に適用していたということである。)

 高校がこじんまりしているので、みんな和気藹藹にやっているかというとそうでもない。この言葉自体が好きではないのだが、いわゆる上級生というやつの中には、ろくでもないのも多かった。

 1学年上にも何人か、むやみに威張り散らしている連中がいた。例えば、あいさつをしなかったと言っては、下級生を呼び出して、偉そうにインネンをつける。普段の態度も、とにかく威張っている。わずか1年早く生まれたと言うだけで、どうしてそう勘違いができるのか不思議なほどであった。

 学年が変わって、私たちが2年になったとき、特に態度の大きかった奴の一人の姿が見えなくなった。噂によると、どうも3年に進級ができなかったため、体裁が悪くてどこかに転校したらしい。

まさに、諸行無常、因果応報である。  (合掌)


 本記事は、2006年02月19日付で「時空の流離人」に掲載したものに加筆訂正を加えたものです。


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高校時代英語が得意になったきっかけ(思いでシリーズ6)


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高校時代英語が得意になったきっかけ(思いでシリーズ6)

2011-12-29 06:00:00 | 思い出シリーズ

 この思いでシリーズも、たまには本来の「文理両道」らしい記事をということで、今回は英語の勉強法についてだ。最近は英語を、まったく使わないので、英語能力の衰えが著しいことを自覚するが、TOEICは一時790点まで行くことができた。(もう大昔のことである。最近はずっと受験していないので、かなり落ちていると思う。)

 私は大学・大学院時代の専攻は電気工学だったが、テキストが英語で書かれたものも結構あった。しかし、英語の文献を読むのに、特に苦労した覚えはなかった。この英語の基礎は、今思えば、高校1年のあるできごとにより形成されたと思っている。

 前にも書いたが、私は田舎町の小さな高校の出身だが、中学校は隣のもっと小さな町にあった。塾も、そろばん塾位しかなかったようなところだ。当然家で勉強している(させられている?のは、親が教師をしているような子位で、私のような普通の子は、のんびりと過ごしていたものである。(宿題はちゃんとやったけどね) だから、英語については、中学時代は、そう得意というような意識はなかった。

 英語が得意になったきっかけは、高校1年の夏休みにでた英語の宿題である。「ジェーン・エア」という英語の小説が生徒に配られた。(もちろん学生向けにリライトされたものだが) ブロンテ3姉妹の長姉・シャーロット・ブロンテによる名作である。これを、すべて日本語に翻訳して、夏休みが明けたら提出せよというのだ。

 こちらは、まだ高校に入って数か月の身だ。田舎の中学生の英語に毛が生えた程度の実力しかない。テキストを見ると、1ページの間に知らない単語や構文が無茶苦茶に出ている。それでも、当時まだ純真だった私は、辞書や参考書と首っ引きで、何とか少しづつ訳していった。1日少なくとも4~5時間以上は英語の宿題で取られていたような気がする。その上他の科目の宿題もあったのだから、夏休みは、ほとんど宿題でつぶれてしまったような感じであった。

 結局、最後までやり遂げて提出したのは、どうも私一人のようであった。当時の教師が何を考えてこの宿題を出したかは知らないが、これ以降、英語は大の得意科目になった。おかげで、大学入試や大学院入試においても志望のところに入れたので、このときの教師には感謝している。

 この経験で、ほとんどのことは、1ヶ月程度は、集中して勉強すれば、何とかなるということも学んだ。これは、英語だけではなく、ほとんどの科目や資格試験などにも当てはまると思う。もし、何かが得意になりたいと思ったら、試して見てほしい。



 本記事は、2006年02月19日付で「時空の流離人」に掲載したものに加筆訂正を加えたものです。


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授業時間は睡眠不足解消に最適(思いでシリーズ5)


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授業時間は睡眠不足解消に最適(思いでシリーズ5)

2011-12-25 06:00:00 | 思い出シリーズ

 高校の頃、深夜放送が流行っていた。好きだったのは、オールナイトニッポンのカメ&アンコウ。当時は、芸能人ではなく、自局のアナウンサーが人気パーソナリティとして活躍することが多かった。このカメさん、どこに行ったかと思っていたら、以前世間を騒がせたライブドアの株式買占め事件では、なんとニッポン放送の社長として出ていた。今はどうしているんだろう。その当時は、線の細い人の良さそうなお兄さんだったような記憶があるんだけど、やはり、年月は人を変えるのか?

 それは、どうでもいいのだが、高校の頃、この深夜放送にはまっていたので、当然のことながら常時睡眠不足の状態である。しかし、不思議なもので、人間はどこかで、生理的に睡眠不足を解消するように作られているらしい。授業中なんてものは、なぜかもっとも睡眠不足解消に適した時間のようだ。ということで、高校時代は、授業中、ついつい夢の世界に引き込まれてしまう事が多かった。特に面白くない教科の場合は、その傾向が顕著である。

 当然、教師の方は、自分の授業中に居眠りをされては面白くない。そこで、わざと私を指して、質問を浴びせるのである。答えられなければ、居眠りをしていたことに嫌味でも言ってやろうという魂胆である。

 しかし、残念ながら、私は、体質的に眠りが浅いし、何も自分から積極的に居眠りしようと思っていた訳でもない。授業がつまらないから眠くなるのだ。だから、時々居眠りしながらも、授業の状況はある程度把握できている。加えて、カンの方も割と良かったので、教師たちの多大な期待に反して、結構的確な答えを返していたのであった。これは、一種の伝説のようになっていたことを卒業してから聞いたことがある。

 それにしても、教師たちの、当てが外れて苦虫を噛み潰したような顔が、今でも忘れられない。



 本記事は、2006年02月27日付で「時空の流離人」に掲載したものに加筆訂正を加えたものです。


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エクセントリックな音楽教師(思いでシリーズ4)


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エキセントリックな音楽教師(思いでシリーズ4)

2011-12-20 06:00:00 | 思い出シリーズ

 これは、高校時代の記憶だ。私が高校の頃は、芸術の科目は、美術、音楽、書道の中から選択するのが普通だった。しかし、私が入学した高校は、田舎の小さな学校だったため、1年は音楽、2年は書道と決められてしまっていたのだ。実は、3つの中で、一番好きだったのは、美術であり、他の2つは苦手意識があった。選択肢がないことは入学して初めて知ったのだが、私が卒業した後は選択できるようになったということなので、どうしてもっと早くやってくれなかったのだろうと今でも思う。

 実は私は自慢ではないが音痴である。だから、今でもカラオケは大嫌いだ。もちろん学校の頃も音楽の成績はあまり良くなかった。しかし中学の頃は筆記テストはできたし、歌うのはだめだが、音楽耳の方は普通にあったので、まあまあの成績だった。

 しかし、高校の音楽のY教師は最悪だった。理由は不明だが、私を目の敵にするのだ。それもエキセントリックで常軌を逸していた。たまたま忘れ物をすると、自分をバカにしていかにもわざと忘れたようなことを言って大騒ぎする。実際大した忘れ物でもなかったのだが。音痴なので、歌の音程が外れるのは致し方ないのだが、物凄いいやみを言う。極めつけは、成績に、学年で最低点を付けられたことだ。実技は少しくらい悪くとも、学科の方はまあまあできているはずなので最低点まで付けられる覚えはなかった。他の教科では、よく睡魔に襲われることもあるのだが、音楽の時間はさすがにそんなこともない。今の学生のように授業中に騒いだりとかケータイばかりいじっていた(そもそもケータイなんて無い時代だった)ような覚えもない。極めてまじめな受講態度だったので、なぜあんなに目の敵にされたのかは今でも分からない。思い当たるとすれば、私が美少年で、向こうが汚げなオヤジだということで、もしかするとジェラシーだったのかも。まあ、先方の頭のネジが外れていたのだろうが。

 これで、私は音楽の教師に対してもネガティブなイメージを持つようになった。


○関連過去記事
国語の時間はお寝むの時間(思いでシリーズ3)


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