曇り、25度、78%
時々あることなんですが 、昨日急にろばのパン屋のメロディーが頭の中で流れ始めました。ろばのパン屋と言っても、知っている人は、私より上の年代の人ばかりと思います。つまり、昭和30年の初めより前に生まれた方達ではないでしょうか?
私が育ったのは、福岡の市内でした。ろばのパン屋が、やって来ていたのは、小学校の3年の頃までです。つまり、昭和37、8年から40年頃までです。ろばが、パンを入れた荷車を引いてやって来ていました。必ず、”ろばのパン屋はチンカラリン”という音楽付きでした。
福岡、当時は朝早くオキュウト売りがやってきます。豆腐屋のような小さなラッパを吹いていました。昼間は、竿屋がやってきました。午後になると、子供たちのおやつ時にやってくるのが、このろばのパン屋でした。
私学に通っていた私は、近所の子供たちより帰りが遅く、家の近くに帰って来たところで、ろばのパン屋をいつも見ました。近所の子供は、みんな声高にパンを求めていました。なぜだか知りませんが、ろばのパン屋でパンを買うことを母から禁じられていたので、私には、パンを買った記憶がありません。ランドセルを背負ったまま、遠巻きに見ているだけでした。それでも、あのメロディーの通り、あんぱんもジャムパンも何でも売っているのは覚えています。
ろばのパン屋というので、ずっとパンを運んで来ていたのは、ろばだと思っていました。伏し目がちにゆっくりと歩く姿、足も乗馬の馬よりずっと太くて。今考えると、ろばでなくて小さな馬だったのではないかと思います。なにより、その馬がちゃんとご飯を貰っているかが心配でした。
ある時、そのろばのパン屋の家を見つけました。筑肥線と言って在来線の踏切の近くに、こんもりと木が茂った一角があります。その一日中陽が当たらないところに、馬がつながれていました。その奥の家の煙突からは、煙が出ていました。冬には、窓から湯気も出ていました。パンを売りにいかないときは家の横の、小さな小屋につながれています。そこを通るときは、いつも父の車でしたが、必ず馬を目で探していました。そのうち、馬も、その家の煙突から出る煙も見えなくなって、ろばのパン屋とは会うことがなくなってしまいました。
昭和の30年代には、ろばのパン屋は、日本のあちこちにあったようです。パンの味を懐かしく思い出す方も多いのではないでしょうか?私が思い出すのは、伏し目がちだった馬の姿と、煙や湯気を出していたパン屋の家です。筑肥線は、地下鉄と統合され廃線になりました。それでも、以前の踏切の辺りは、今でも木がこんもりと茂っています。