母に付き添ってたまにお墓参りに行きます。
今日は祖母(母の母)の、命日でした。
母が19歳の時に40代で無くなったので私は会ったことがありません。
いつもお寺の山門をくぐって、
広い境内を通り抜けて、
目的のお墓まで行きつくのが大変なのですが、
今日は山門をくぐらず、タクシーで裏の細い道を通って直接墓地まで行きました。
そこは、小高い山の上で、二つの大きなお寺が接しています。
北側は真如堂(祖母らの墓はこっち)、南側は黒谷・金戒光明寺です。
光明寺は法然が比叡山から下りて1180年頃開いた寺です。
山中には幾つもの塔頭が散らばっています。
写真は金戒光明寺の塔頭の一つ、西雲院です。
沢山の蓮の鉢がおいてありました。
いろいろな品種があるみたいです。
全部咲いたらさぞかしきれいなことでしょう!
西雲院に「会津墓地」があります。
幕末の不穏な空気の中、徳川幕府は京都の町の治安の維持のために会津藩に京都の守護を任命。
本陣となった金戒光明寺に会津から正規兵が到着したのは1862年の冬、
行軍は1里続いたそうです。壬生の新撰組と連絡を密にとりつつ活動しますが、
鳥羽伏見の戦いで敗れると会津藩は賊軍の汚名を着せられました。
路上に放置された戦死者を荼毘にふし、西雲院の僧らが回向供養したそうです。
時の権力の都合ではるばる会津から京都まで連れてこられ、
捨て駒に使われ、
英雄にされたり賊軍にされたり。
苔むした墓は何も語ることができません。
今日は祖母(母の母)の、命日でした。
母が19歳の時に40代で無くなったので私は会ったことがありません。
いつもお寺の山門をくぐって、
広い境内を通り抜けて、
目的のお墓まで行きつくのが大変なのですが、
今日は山門をくぐらず、タクシーで裏の細い道を通って直接墓地まで行きました。
そこは、小高い山の上で、二つの大きなお寺が接しています。
北側は真如堂(祖母らの墓はこっち)、南側は黒谷・金戒光明寺です。
光明寺は法然が比叡山から下りて1180年頃開いた寺です。
山中には幾つもの塔頭が散らばっています。
写真は金戒光明寺の塔頭の一つ、西雲院です。
沢山の蓮の鉢がおいてありました。
いろいろな品種があるみたいです。
全部咲いたらさぞかしきれいなことでしょう!
西雲院に「会津墓地」があります。
幕末の不穏な空気の中、徳川幕府は京都の町の治安の維持のために会津藩に京都の守護を任命。
本陣となった金戒光明寺に会津から正規兵が到着したのは1862年の冬、
行軍は1里続いたそうです。壬生の新撰組と連絡を密にとりつつ活動しますが、
鳥羽伏見の戦いで敗れると会津藩は賊軍の汚名を着せられました。
路上に放置された戦死者を荼毘にふし、西雲院の僧らが回向供養したそうです。
時の権力の都合ではるばる会津から京都まで連れてこられ、
捨て駒に使われ、
英雄にされたり賊軍にされたり。
苔むした墓は何も語ることができません。